2014年3月9日「神の言葉に慟哭する民」士師記2:1〜10

序−神様は、その民が道から反れてしまうとき、特別に使者を送ってメッセージをくださいます。約束のカナンの地に入ってから民の信仰が変わってしまい、神様との約束を忘れてしまいました。彼らの信仰が冷えてしまっていた時に、熱さを取り戻させるメッセージが与えられました。

T−ギルガルの精神を忘れた民−1,6〜10
 神様の使いがギルカルからボキムに来て、イスラエルの民に神様の言葉を伝えています。1節。ギルガルという地は、イスラエルがカナンの地をはじめて踏んだ所、カナン占領のはじまりとなった所です。ヨシュア4:19。民が神様の御言葉にとても熱心に聞き従ったところです。奇跡をもってヨルダン河を渡ることができて、記念の石塚を積んだ地でした。
 イスラエルの民は、そこで割礼を受けました。神様の赦しがあって、ようやく約束の地に入れるということを象徴していました。ヨシュア5:7〜9。その時、「エジプトのそしりを取り除いた」という意味で、「ギルガル」と呼ばれるようになりました。もうエジプトの奴隷、罪の奴隷ではなく、約束の地に入れる神の民と宣言された地でした。イエス様の十字架が、まさに私たちの罪を取り除くものでした。ヨハネ1:29。私たちは、洗礼を受けて、罪赦され、神様の祝福を受ける者となったのと同じようなことです。
 神の民は、その不従順のために、荒野の時代をすごしていました。でも、このギルガルでは、ようやく約束の地に入り、神様の赦しと恵みを感謝し、心から神様に聞き従うことを誓った地でした。ヨシュア24:21〜22。この地にいた時の民は、もっとも純粋でもっとも信仰的に熱い時でした。これが、「キルガルの精神」でした。神様は、彼らを愛して、祝福してくださいました。「ギルカルから」にはそういう意味がありました。
 私たちの出発点もギルガルとならなければなりません。信じた時、救われた時、信じ直した時、あきる台で再出発した時が、私たちのギルガルです。あのさまよっていたところから、あの悩み苦しんでいたところから、あの虚しく歩んでいたところから、これからは純粋にイエス様と共に生きて行くぞ、御言葉に情熱的に聞き従って行く人生になるのだ、ということでした。英語の情熱・エンスージアズムの元は、ギリシャ語のエン・セオス、すなわち「神が中におられる」ということです。私たちの信仰は今どうですか。イエス様を信じて、御霊が私たちの内に住んでくださったのですから、十字架のイエス様を思えば、私たちの信仰も熱くなります。
 民の信仰が最も熱かったのが、このギルガルでした。神様の愛と赦しをいっぱい感じて、神様に従ってカナンを征服して行くぞという純粋な情熱的信仰になっていた所でした。6〜10節にそのような思いが引用されています。ヨシュア24:23〜31。しかし、カナンに入ってしばらくすると、かつての情熱的な信仰が消えてしまったかのように、冷めてしまっていたのです。私たちの信仰の情熱は、どうですか。

U−主の使いの正体、民の問題−1〜2,2〜3主の使いが話したこと
 そのような状態になっていた民のところに神様の使いが来たということです。そこで、かつて聞いた御言葉を聞かせ、思い出させてくれました。1〜2節。かつて、神様は、その民が道から反れてしまうとき、神様の御言葉を伝えるために御言葉のメッセンジャーを送られました。この時、主の使いは、神様の愛と赦しと恵みのあふれた所、民の純粋な情熱的な信仰があふれた所、ギルガルから来ました。
 では、主の使いが来た、このボキムという地はどんな地なのでしょうか。ヨセフ族のベテル占領の妥協から、不徹底と不従順ははじまったのですから、このボキムとは、おそらくベテルのことでしょう。不信仰と不従順の地ということです。彼らは、カナン人の中に住み、急速にカナン化し、この時ベテルに集まって、偶像礼拝やカナン人の悪しき習慣でも行っていたのでしょう。そういう現場に、主の使いが来たというイメージです。
 神様は、ご自分の民に対して決して無関心なお方ではありません。荒野の旅でも、民と一緒でした。ところが、カナンに入ってから、民が変質してしまい、信仰の情熱が失われてしまいました。その時主の使いが伝えたことは、「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来た」ということです。それは、カナン人がどんなに強くても、町が堅固でも、神様が守って、勝利させてくださるという意味です。だから、恐れないで、妥協しないで、戦えということです。イエス様の救いも、罪を赦した、天国へのいのちを与えるというだけでなく、信仰の生涯において患難や試みから守り、勝利の人生を歩めるようにしてくださいました。Tヨハネ5:4〜5。だから、霊的に造り変えられて、純粋に情熱的信仰で生きて行きなさい、というのです。
 ところが、以前の神様の御言葉に聞き従ったあの純粋な情熱的信仰が、失われてしまいました。その結果、どうなってしまうと言っていますか。3節。神様が民に求めたことは、カナン人と取引したり、偶像礼拝を倣ったりしてはならないということです。イスラエルの民は、神様への信仰だけもって進んで行けということでした。ところが、いざカナンに入ってみると、その地は発展しており、荒野の期間に民は時代に取り残されていました。とても占領できないと思い、彼らの偶像礼拝の生活のほうがよく見えたのです。妥協し、恐れ、しまいには、彼らの中に住み、占領もできなくなりました。悪しき習慣と偶像礼拝に染まってしまったのです。
 彼らは、カナンに入ってから、信仰の方向を失ってしまいました。まだ荒野での方が、約束へという方向がはっきりしていました。カナンに入った民にとって重要なことは、神様に仕える、御言葉に聞き従うというです。クリスチャンも、肉の思いを満足させることにとらわれると、信仰の方向を見失い、希望や忍耐を失ってしまいます。民は、カナンの習慣と偶像礼拝に染まってしまいました。クリスチャンも、世の悪習慣や価値観の方が、よく見えたり、染まったりして、元に戻ってしまい易いものです。
 結局は、「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる」のです。というのは、民がカナン人を追い出さず、妥協し、欲心で利用とした結果、それが「わな」となり、占領できず、彼らの悪習慣や偶像礼拝に染まることとなります。民自身が「わな」となったのです。簡単に神様が罰を与えたと取らないようにしましょう。自分が蒔いた種、自分の肉の思いが引き入れた結果であることが多いのです。
 反対に、私たちがわがままで、御言葉に聞き従わず、罪を犯したからと言って、すべて罰を受けているでしょうか。いいえ、多くのことは神様が忍耐してくださり、立ち返って来ることを望み、御心を痛めながら、愛し、助け続けておられます。でなければ、とっくに滅びているでしょう。イエス様の十字架の御業自体、神様のあわれみと忍耐のたまものです。罪の奴隷となって、滅びに向かって虚しく歩む私たちをあわれみ、愛してくださった神様は、イエス様をその身代わりとしてくださったではありませんか。イエス様が私たちの責めをその身に負い、十字架にかかってくださいました。コロサイ2:14, Tペテロ2:24。こんな神様の愛に気付いたら、どうしますか。

V−民の慟哭−4〜5
 4〜5節。主の使いの伝える御言葉を聞いた時、民は声をあげて泣きました。彼らは、胸を刺されて号泣したのです。なぜ、泣いたのでしょうか。御言葉を聞いた時、かつての神様の赦しとあわれみ、純粋な情熱的信仰の記憶がよみがえって来たからです。「はじめの愛」を思いだしたからです。彼らの心の中には、いつも「自分がこのように生きてはいけない。神様を愛する心燃やさなければ」という思いあり、罪責感がありました。そこに、主の使いから神様の約束と叱責を聞かされて、悔い改めの熱い思いがよみがえって、慟哭したのです。これが、リバリバルです。
 神様がカナンの地においてご自分の民に求められたのは、神様に仕えて生きることです。彼らは、カナンで土地も得て、家も持って、満足して生きていましたが、ぽかっと一つだけないものがありました。「ギルガルでの信仰」です。自分たちをいさめる神様の御言葉を聞いて、民はギルガルでの恵みの約束を思い出して、泣きました。カナン人の悪しき習慣に染まっていた彼らに、まだ過去の純粋な信仰が残っていたということです。私たちも悔い改めの熱い涙を流し、信仰の情熱を取り戻しましょう。
 彼らの中にまだ御言葉は残っていました。ただ、カナン人の悪しき考えや習慣に染まっていたために、御言葉は知識に留まり、心に火がともらなかったのです。しかし、今愛に満ちた叱責の御言葉を聞いて、民の心に信仰のリバイバルの火が灯りました。この箇所は、私たちも神様の御心から離れていたことを教えてくれます。私たちは救いの恵みを取り戻して、救われた者としての尊さと栄光をよみがえらさなければなりません。
 しかし、この時民は慟哭しながらも、それ以上進むことはなかったようです。帰って行って、偶像を棄てて、悪しき習慣を止めて、御言葉に聞き従って生活してこそ、悔い改めたことになります。ただ、「その場所の名をボキムと呼んだ」と、慟哭したことだけが記憶されて、町の名として長く使われることはありませんでした。私たちは、悔い改めの涙を流し、主に仕えて歩みたいのです。私たちにとって、今日ここがボキムとなりますように、悔い改めの実がなりますようにと願います。マタイ3:8。



士師
2:1 さて、【主】の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。「わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。『わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。
2:2 あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。
2:3 それゆえわたしは言う。『わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。』」
2:4 【主】の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。
2:5 それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で【主】にいけにえをささげた。
2:6 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。
2:7 民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って【主】がイスラエルに行われたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、【主】に仕えた。
2:8 【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
2:9 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。
2:10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、【主】を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。



ヨシュア5:9 すると、【主】はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。

ヨシュア24:21 それで民はヨシュアに言った。「いいえ。私たちは【主】に仕えます。」
24:22 それでヨシュアは民に言った。「あなたがたは、【主】を選んで、主に仕えるという、自分自身の証人である。」すると彼らは、「私たちは証人です」と言った。

ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

Tヨハネ5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

コロサイ2:14 いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

マタイ26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。

マタイ3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

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