2014年3月16日「信仰のサイクル」士師記2:11〜23

序−士師の時代、イスラエルの民の信仰が周期的に変化、すなわち同じ反復を繰り返すことを見ることができます。これは、神様の哀れみと愛があらわれている所ではありますが、人の肉の性質がどんなに愚かで悲惨なものかがあらわれている所です。私たちに強い印象を与えてくれます。

T−霊的失敗、真の神を見捨てる民−11〜12 
 イスラエルの民がカナンに定着して行くと、いくらもしないうちに警告されていたような状況になりました。11〜12節。イスラエルの民は、神様の愛とあわれみのうちにカナンの地に入ることができ、征服して定住するようになった後、あろうことか、自分たちの真の神を棄てて、カナン人の偶像に仕えるようになったのです。理解しがたいことです。どうして、あわれみと慈愛にあふれた神様を、ここまで導いてくださった神様を、カナンの偶像と取り替えてしまうのでしょうか。
 これは、人の本性から出て来たことだということです。正しいことに反抗し、拒否する思いがあります。人の心の中には、肉の思いのままに何でもしてみたいという強力な欲心があるのです。一方、聖書には、はじめから正しいことが規定されており、しなければならないこと、してはならないことがすべて定められています。すでに御言葉通り神様の大きな恵みを体験したはずです。御言葉通り純粋に生きれば幸いになると教えられました。しかし、それが自分を縛る小言のように思えたのです。
 そして、カナンに入ってみると、カナン人の生活の方がよく見えたのです。40年荒野をさまよって来た自分たちと比べて、文化も高く、裕福に暮らしていたからです。文化の粋を凝らして作られた偶像自体、大きくまばゆいばかりで、民の目をひきつけました。その偶像に仕えるようになってしまいました。これは、現代の私たちが陥ることと同じです。世の人々の生活や価値観がよく見え、羨むことがあれば、その影響を受けて、欲心や罪の思いに翻弄されて、神様を愛する心がなくなってしまいます。Tヨハネ2:15〜16。これは、大きな間違いです。
 この民の変質は、何よりも神様から心が離れたことが原因です。カナンに入り、荒野の放浪はない、水も食べ物もある、もう神様に頼らなくてもいいと思うようになり、神様から離れたのです。カナンの裕福の元が彼らの拝む偶像にあるように思え、彼らと同じ偶像に仕えるようになったのです。今日も、イエス様に救われ、大きな恵みを受けながら、生活が安定すると、肉の自分が中心になり、救いの恵みを忘れ、神様に従う心が薄れ、世の罪の中に戻ってしまう姿があります。

U−様の怒りを引き起こし、敵の手に渡された−13〜15
 イスラエルの民が、カナンの偶像に仕えるようになった結果、どうなりましたか。13〜15節。民が世を愛し、世に従って行く時、神様の御怒りが燃えあがりました。神様の御怒りが最も大きい時は、沈黙される時です。何も言わない時が、最も恐れるべきことです。御怒りをあらわされたということは、まだ愛しておられる、見捨てておられないということです。
 神様の私たちに対する熱烈な愛が冷めてしまったら、神様の祝福や力は与えられなくなります。私たちの心に御言葉がないなら、危機が訪れます。神様の恵みを慕う熱情が冷めているなら、すでに霊的危機に陥っているのです。救いの恵みはただで与えられたものですが、一度消えてしまえば、火がつくのは困難です。信仰の火が消えてしまうと、徐々にすべてが冷えはじめます。心も冷えて、賛美も礼拝も冷えて、奉仕も冷えてしまいます。家庭も世も暗くなります。心に満足がないために、霊的病いにも陥ります。
 神様は、民の不信に御心を痛められ、警告された通り周りの民族を用いて民を懲らしめられました。カナン人が民の「わなとなり、落とし穴となり、むちとなり、とげ」となると言われていた通りです。ヨシュア23:13。民にとっては、それは敵の略奪であり、非常な苦しみとなりました。私たちにとって、私たちを悩まし、苦しめる罠やとげとは何でしょう。
 イスラエルの民が神様から離れる時、彼らの心から信仰の火が消えて、カナン人にとって、何ものでもない存在となります。そして、攻撃して、略奪して来るようになりました。宝のような存在だった民も、神様から離れるなら、価値のないものになるということです。私たちの価値は、心の中に盛ることによって変わります。御言葉と御霊に満たされるなら、私たちも高価で尊い宝となります。私たちも、苦難や問題に陥ったり、病いや悩みで痛んだり、人々から言葉や態度で攻撃を受けたり、名声や評価を奪われたりする時、私たちの目が開き、自分の姿が見えて来て、神様から離れていた私たちの心は、神様に向けられます。

V−民のリバイバルの火種、民をあわれまれる神様−16〜18
 神の民の驚くべき特徴の一つは、自分の悲惨さを悟って、神様の御前に助けを呼び求めさえすれば、再び信仰復興の火が燃えるということです。神様は、民の信仰の復興のために、士師を立ててくださいました。16〜18節。士師は、「さばきつかさ」と呼ばれていますが、今日的言い方をすれば、一時的に立てられた指導者という感じです。神様に献身した者であり、御言葉に聞き従い、御言葉でもって人々を教え、指導する人です。神様が士師たちとともにいて、戦ってくださいました。
 この民の困難は、彼らの蒔いた種、罪に対する罰ではありましたが、同時に、彼らを助け出すための過程でもありました。神が裁かれるのは、約束を守らないとか愛がないからではありません。罪を憎まれた、ご自分の民を救うためです。Tコリント11:32,ヘブル12:10〜11。ですから、罪と背信の民を見捨てることをせず、士師を起こして救われたのです。イエス様を信じた者を救われた者は、神様から離れたたり、罪と肉の思いに陥ったとしても、困難と悲惨から助け出されます。イエス様の十字架という代価、尊い犠牲が払われているので、神様は何度でも繰り返し私たちを苦しみと患難から救い出されます。
 はじめ士師を送られた時、なぜ民は士師たちの言葉に従わなかったのでしょうか。彼らの心が世に傾いていたので、カナン人の価値観に染まっていたためです。私たちも、そのような肉の性質があり、しばしば心が主から離れたところで停滞します。民が士師の伝える神様の御言葉に聞き従わなかったのは、主の御言葉よりも、他のことに心を向けられていたからです。「偶像を慕って淫行を行う」というのは、神様から心が離れたために、偶像にまったく囚われてしまっているということです。
 それでも、士師たちは継続的に御言葉を叫びます。そうして、聞く民も、だんだんと自分たちの悲惨な状態の原因は、信仰的な問題にあると悟るようになります。これが、信仰復興のはじまりです。御言葉を聞いて、自分たちが神様からどれほど遠ざかっていたか、それゆえ悲惨な姿となっていることに気付くようになります。あわれみ深い神様は、士師たち用いて、民を苦境から救い出させ、敵を退けてくださいました。ただ、士師が生きている間は、そうしてくださいました。

W−変わらない民、くりかえされるサイクル、−19〜21
 しかし、士師が死ぬと、再び偶像に仕え、以前のカナン的生活に戻ってしまいます。19〜21節。なんと言うことでしょう。また民は神様の恵みを忘れ、神様から離れてしまったというのです。リバイバルも終わり、偶像崇拝に戻ってしまったのです。これは、私たち人間の心の中に、絶え間なく世に従おうとする思いと、神様から離れようとする肉の性質があることを教えています。そして、かれらは「いつも逆戻りして」いたのです。
 どうして、御言葉に聞き従って行くことがこれほど困難なのでしょうか。それは、カナンという世の中で御言葉だけつかんで生きて、信仰だけ良くしていて、世の中で成功して行けないと思うからです。平安が続けば、肉の思いを満足させることが中心になってしまうからです。でも、世に従って生きることは悲惨であり、愚かなことです。
 民の信仰の復興は継続しません。しばらく安定すると、世に戻ってしまいます。そうして人生の荒波の中で迷って、苦しんで、どうしようもなくなった時、神様に叫び求め、立ち返って行くという悪循環を繰り返して行きます。人の心の中には、肉の思うままに行きたいという強い欲望があるからです。そして、神様から離れ、様々な偶像に心寄せるのです。刻んだ像だけが偶像ではありません。人が心を寄せるもの、心の中心を占めるものがその人の偶像です。私たちの偶像は何ですか。
 そのために、神様は私たちに良い方法をくださいました。ただ、神様の御言葉だけつかみなさい、ということです。私たちが御言葉を握っているなら、神様が責任を取って、私たちに信仰のリバイバルを導いてくださいます。今日の私たちも、信仰の周期があるようです。ある時には熱心に信仰生活をするのですが、しばらくすると停滞してしまいます。教会も何か行事の時には信仰が盛んなようのですが、それが終わると冷めてしまいます。しばらく平安で思い通りに歩めると、不信仰になり、不満や妬みで動き、噂話をするようになります。そのために人間関係が悪くなり、問題や霊的病いに悩むようになります。そして、主に立ち返り、助けを求めると、癒され、救い出されます。こんな周期を繰り返さないで、持続的に成長するには、ただ御言葉中心に生きるほかありません。Tペテロ2:10。



士師
2:11 それで、イスラエル人は【主】の目の前に悪を行い、バアルに仕えた。
2:12 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、【主】を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、【主】を怒らせた。
2:13 彼らが【主】を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、
2:14 【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。
2:15 彼らがどこへ出て行っても、【主】の手が彼らにわざわいをもたらした。【主】が告げ、【主】が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。
2:16 そのとき、【主】はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。
2:17 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行い、それを拝み、彼らの先祖たちが【主】の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行わなかった。
2:18 【主】が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、【主】はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、【主】があわれまれたからである。
2:19 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行いや、頑迷な生き方を捨てなかった。
2:20 それで、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、
2:21 わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。
2:22 彼らの先祖たちが【主】の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」
2:23 こうして、【主】はこれらの国民をただちに追い出さないで、残しておき、ヨシュアの手に渡されなかったのである。



Tヨハネ2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

ヨシュア23:13 あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。

Tコリント11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

ヘブル12:10 なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

Tペテロ2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

戻る