2014年3月23日「試みるため」士師記3:1〜11

序−イスラエルの民の新しい世代が、初めて外国軍の攻撃を受けます。その理由は、彼らが、困難がなければ神様をさがし求めない民であり、むしろ困難を通して神様をさがし求める民であったためです。私たちにいろいろ考えさせる姿です。

T−戦いを知らない世代−1 
 カナンに残された部族の影響がもっとも出て来るのが、次の世代になってです。1節。この「戦いを少しも知らない世代」とは、2章10節で言われていた「主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代」ということです。それをわざわざ「戦いを少しも知らない世代」と言っているのは、前の世代と比べて、戦いのない、苦労のない、物質的に豊かな時代ということを強調しています。
 では、前の世代はどのような世代でしたか。エジプトで奴隷として生涯強制労働をさせられ、男の赤ちゃんが生まれればナイル河に投げ入れさせられました。出1:22,2:23。エジプトを出た後も、荒野で何もない生活を強いられ、あるのは戦いのみという世代でした。
 一方、それを知らない世代は、エジプトでの迫害も荒野での苦難もカナンでの戦争もまったく経験しない世代です。乳と蜜の流れる地カナンの地で生まれた世代は、物質的な心配もなく、平和の中でただ生活の豊かさだけ求めるというような世代でした。問題は、この戦後世代が、どれほど自分たちが物質的に恵まれ、どれほど平安に守られた中で生きているのかを認識していなかったということです。前の世代のように、どのように力強い神の御手で救い出され、守られ、導かれ、祝福を受けたかを体験をしていないことでした。
 前の時代は、何もない苦労の多い、戦いばかりの世代でしたが、彼らには偉大な神様の御言葉がありました。彼らは、人間的に頼る方法は何もありませんでしたが、御言葉に聞き従って、御言葉を食べて、御言葉の方法で生きて行くことができました。そのために奇跡を体験し、祝福を受け、信仰の素晴しさを経験していました。カナンの地でどう生きていくべきかを知っていました。
 ところが、「戦いを少しも知らない世代」は、物質的に恵みを味わうだけで、神様の偉大な力も御言葉の素晴しさもあまり知ることがありませんでした。この世代のカナンの地で生きる理由は、どれだけ裕福でどれだけ肉の思いを満足させられるかということでした。
 困難や労苦のない世代が必ずしも良い世代ということではありません。多くの労苦と苦難の中で御言葉をつかんで、神様に拠り頼んだ経験をした世代の方が偉大だということです。私たちの人生においても、何かに労苦し、虚しくさまよい、苦しい辛いことがあり、問題と戦ったことがあったゆえに、御言葉を握って、神様に祈り叫んで偉大な信仰を体験できました。このことが偉大な恵みです。
 カナン世代が受けている恵みを確実に自分のものにするには、前の世代のような労苦や苦難を経験し、失望や苦しみの中で御言葉をつかんで生きてみなければなりません。少なくともそのことを学んで、心に覚えなければなりません。私たちは、カナン世代になっていないでしょうか。

U−神様の与える試み、どう受け止めたか−2〜4,5〜8
 カナン世代は、御言葉に聞き従い、神様の御心にかなう歩みをするか、試みを受けました。2〜4節。彼らが神から離れないように、カナンの原住民が民の「試みる」ために置かれていました。士師2:22。カナン世代が、世の価値観や肉の思い、偶像に陥らないで、神様に忠実に従うかどうか、カナンの諸族が「刺や茨」として置かれました。民数記33:55。
 御言葉をつかんで信仰に戻って行くには、刺や茨も必要なのです。私たちは、何の困難もないと勝手気まま、夢想的になり、感謝がないと傲慢になります。申命13:3。しかし、私たちが困難に直面するなら、自分の力だけで生きることができないと悟り、神様の御前に立ち返ります。神様の御前に戻らないと、困難のせいで人を憎んだり、毒を撒き散らしたりしてしまいます。
 しかし、新しい世代は、この刺や罠がかえって悪いものを引き起こしました。5〜6節。周りにいるカナン人たちについて悩んだりすることなく、彼らといっしょになって、彼らの偶像を自分の偶像としてしまいました。あれほど警告され、注意されていたにもかかわらず、カナンの偶像の民が彼らの心に刺さり、罪への罠となりました。クリスチャンといえども、世の価値観で歩むもうとし、神様を後回しにして、世に熱心に従って生きようとしてしまいます。形式的に礼拝をすることでよしとし、世の価値観にあわせようとしてしまうのです。
 結果、彼らが偶像の民となるなら、どうなりますか。苦難と苦しみを招くようになります。7〜8節。神様以外を心の中心に置き、追及するなら、「主を忘れて、偶像に仕えて」いることになります。自分の肉の思いのまま生きるなら、「主の目の前に悪を行って」いることになります。イエス様を忘れて、自分の思いのままに走っていませんか。聖霊様でないものが心の中心を占めていませんか。
 そのような時どうなりますか。神様は、そこから引き離すように、その状態に気付かせようと、一時的に神の民を苦難や問題に引き渡されます。イスラエルの民は、アラム・ナハライムの王の手に引き渡されました。「クシャン・リシュアタイム」とは、「二倍も悪いクシャン」という意味ですから、自分たちを痛めつけた王に付けたあだ名でしょうか、そんな悪辣な王に8年間もひどく苦しめられました。
 私たちも、イエス様の十字架の救いの恵みを忘れて、御言葉に聞き従わないで歩もうとするなら、世の価値観と肉の思いに引かれて行きます。主の目の前に悪となることを行うようになります。その結果、いろいろ問題や苦難に出会います。でも、問題や患難に出会ったら、どうするかが大事です。不運だと嘆いたり、誰かのせいにしたりして、「主から離れて、御言葉に聞き従わない」でいるなら、ますますひどくなります。民が患難に出会う目的はそこにはありません。民はどうしましたか。

V−主に叫び求めた民−9〜11
 それまで多くの試みがあったでしょう。しかし、そのたびに神様に立ち返って解決することなく過ごしていた結果、大変苦しい目に会い、その状態が8年間も続きました。苦しんだあと、彼らは主に叫び求めました。9節。どうして8年間も苦しんだ後で、神様に叫び求めたのでしょうか。彼らは、神様の御力を信じることができなかったのです。彼らは、カナンの中でカナン人のように生きていたために、世的な考え方、価値観で生きるように変わっていたからです。どうか、すぐに立ち返り、求めましょう。
 イスラエルの民は、困難が続いても、何とか自分で頑張って困難を解決しようとしていました。それでも到底自分の力でこれ以上することはできないと、恥や対面をかなぐり捨てて、神様の御前に涙を流しながら、祈るようになったのです。私たちクリスチャンが陥るような姿ではないでしょうか。現代の神の民も、自分の考えや知恵に自信があって、どのようにすることがキリスト教的か、聖書の教えはどうか、よく知っています。ところが、神の御前に泣いて叫んで祈ることはしません。それでも、本当に大変な問題や事件にあうならば、澄ましているわけには行きません。
 民が神の御前に叫び求めるようになるのに、8年間必要でしたが、私たちは、早く立ち返りたいのです。私たちは、普段からすぐに悔い改めて、主に立ち返る祈りをする者となりたいのです。このイスラエルの民と私たちは似ています。困難が来て、試練が来るなら、気が動転し、悲惨な状態になります。それでも、神様の御前に出て、神様に叫び祈ることができないのでしょうか、絶望したり、嘆いたりするだけなのでしょうか。
 私たちが生きる道は、神様の御前に祈り叫ぶことです。応答がないなら、応答が来るまで続けることです。神様は、民が叫び求めた時、オテニエルを起こしてくださり、アラムの王から民を救い出してくださいました。10〜11節。カレブの婿、信仰の情熱のあった人です。「主の霊が彼の上に」というように、オテニエルの上に聖霊を注いでくださいました。新約的に言うならば、「聖霊に満たされて」ということです。エペソ5:18。そうして、彼は民を裁き、アラム王と戦い、戦いに勝つことができました。
 人を変えてしまうものが二つあります。一つは酒であり、もう一つは聖霊です。どちらが用いられる人になりますか。聖霊は、私たちをまったく正しい人に、神の人に変えて、私たちを力強く用いてくださいます。イエス様の十字架を信じて救われた私たちは、すでに御霊が内に住んでいてくださいます。ただいつも満たされているわけではないだけです。聖霊は私たちに与えられた最高の祝福です。最高の力、最高の知恵です。「聖霊に満たされる」なら、私たちにすべての力が注がれます。
 オテニエルは、神様に拠り頼み、神の御言葉によって治めたので、国は40年間穏やかでした。大事なことは、神様第一主義で生きることです。祝福として、長い平安をいただくことができました。神の人は、はじめに労苦すれば、後に平安を得ることができます。イエス様の兵士として、聖霊に満たされて、信仰の戦いに勝利したいのです。Uテモテ2:3。



士師
3:1 カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、【主】が残しておかれた国民は次のとおり。
3:2 ──これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである──
3:3 すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。
3:4 これは、【主】がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。
3:5 イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、
3:6 彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。
3:7 こうして、イスラエル人は、【主】の目の前に悪を行い、彼らの神、【主】を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。
3:8 それで、【主】の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。
3:9 イスラエル人が【主】に叫び求めたとき、【主】はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。
3:10 【主】の霊が彼の上にあった。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。【主】はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押さえた。
3:11 こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。



士師2:10 その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、【主】を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。
2:22 彼らの先祖たちが【主】の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。

民数記33:55 もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。

申命13:3 その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、【主】は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、【主】を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

エペソ5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

Uテモテ2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

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