2014年3月30日「欠けや弱さを用いられる神様」士師記3:12〜30

序−クリスチャンは、自分自身をどうとらえて、どう見ているのでしょうか。傲慢、厚顔はさけ、謙遜に努めるでしょう。しかし、ことさら自分を卑下し、否定的にとらえ、人の嘲りや蔑みに心沈むということはないでしょうか。士師記の一つの物語が私たちに問いかけて来ます。

T−イスラエルの持病−12〜14
 イスラエルには、一つの霊的病、持病がありました。文字通り、中々治らないで、時々悪化するのです。その持病とは、少し平安が続き、思うように生きられると、カナン人の偶像に仕えるようになることでした。12〜14節。「主の目の前に悪を行った」という表現が繰り返し出て来ます。それは、神様の目の前に罪を犯したということです。以前に外敵から救ってもらった時には、もう決して神様以外のものに仕えないと決心したはずです。
 どうして民は偶像崇拝に陥ってしまうのでしょうか。それが霊的持病というものです。しばらくうまく行って問題もないと、少しずつ心が神様から離れ、肉の思いで生きるようになります。試練の中にある時には神様だけ拠り頼んで生きていたけれども、おさまっている時には、そんなに熱心にならなくてもうまく行くと勝手に考えるようです。そして、世の人々と同じような言動になり、様々な偶像に心を占められるのです。それが「主の前に悪を犯して」いるとは思わないのです。世の価値観で考えれば、罪を犯しているとは考えないからです。これは、昔の神の民のみでなく、私たちも持っている持病ではないでしょうか。持病があると自覚することが回復の一歩です。
 神の民の大きな特徴は、神様の恵みがなければまったく力がない、神様がいなければ生きていけないということです。患難の時にも、神様の恵みが臨めば、乗り越えられました。ところが、この民が神様から離れ、世に走るなら、幸いはなくなってしまいます。悲惨な状態をぐるぐる回ることになります。神の民が神様の恵みを失う時、民を憎む敵があらわれるようになります。その理由は、問題がないと傲慢になり、肉の思いで生きるようになるからです。私たちは、神様が守ってくださらなければ、平安に生きることができません。
 モアブ王エグロンが、イスラエルを攻撃し、なつめやしの町を占領しました。何と、この「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコと言えば、イスラエルのカナン占領の象徴です。御言葉通りに、神の箱を先頭にエリコ城を回ることで城壁が崩れ、占領できた町、カナン征服のはじめとなったところです。ヨシュア記6章。それが今は、占領されているのです。

U−予想もつかない神様の助け−15〜26
 民が神様に叫び求めた時、神様の助けが始まりました。15節。民が神様に叫んで祈るようになるのに、18年かかっています。それだけ自分の肉の思いが強くて、頑固で、神様の前に素直になれなかったということです。私たちはイエス様に救われた時から、神の子どもという特権を持つ者とされています。ヨハネ1:12。子どものように神様に叫び、祈ればいいのです。イエス様も、子どものようにならなければ、神の国に入ることはできないと言われました。マルコ10:15。
 神様に立ち返り、神様だけに拠り頼む時、民がまったく考えることのできないような助けが起こされました。15節。神様が立てられた士師、救助者は、「左ききのエフデ」という人です。左利きというのは意訳であって、原文を直訳すれば、「右手は制限されている、使えない」ということです。つまり、単なる左利きではなくて、右手が不自由だった、右手に障害があったので、左利きになったということです。おそらく、エフデの右手は、ほとんど動かすことができず、ぶら下がっていて、誰が見ても、右手が使えないことが分かったようです。
 モアブの王エグロンに貢物をささげる仕事をさせられていたエフデは、イスラエルの民の中では、軽んじられた存在であったようです。なぜなら、イスラエル人は神の民としての自尊心が強くて、異邦人モアブの王に貢物をささげる役など決してしたがらないからです。もっとも小さい部族ベニヤミン族の中でも、もっとも弱い者エフデにさせていたのです。イザヤ60:22。傲慢で自信満々の人々は、エフデを低く見て、軽んじていました。
 しかし、神様が用いられた救助者は、イスラエルの民もモアブ人も軽んじて、無視していたようなエフデだったというのです。民は、神様は強くて優秀で完璧な人を用いると思っていたようですが、神様の人を用いる基準はまったく違います。神様は、「知恵ある者をはずかしめるために、愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、弱い者を選ばれた」のです。Tコリント1:27〜28。私たちも、優れた完璧な人だけが用いられると思いやすいでしょう。「私なんか」と否定しやすいでしょう。しかし、神様は、不足した欠けだらけの土の器を用いられ、栄光をあらわされるのです。「取るに足りない者や見下されている者」を用いてくださるのです。変な肉の自尊心があると、こんな仕事なんて、私がどうしてこんなことをと憤慨し、したがらないものですが、エフデは、嫌がることなく、自分を用いてくださる神様を信頼して、貢物を持ってモアブへ行きました。
 神様の用い方は絶妙です。エフデは、人々から軽んじられ無視されていましたが、むしろそれが功を奏しました。人々から軽んじられ無視されていたことが、有利に働いたのです。彼は、モアブ人から警戒されることなく、王に近づき、策略を実行することができました。16〜19節。垂れ下がった右手が剣のふくらみを自然に隠すようになり、王も警戒することなく、王と二人だけになることができました。他の人では決してこのようにはできません。エフデだからできたのです。
 モアブ王は大きな体で動きがにぶく、無警戒であったので、不自由な体のエフデでも、なんなく王に近づいて一太刀で刺すことができました。20〜21節。彼の心には、民と国に対する情熱と神様の御力が満ちていたので、できました。最も弱い者を用いて、強い者を倒されたのです。主が彼を勇士とさせたのです。ヨエル3:10。
 私たちは、このエフデの活躍を見る時、自分には力ない、欠けだらけだと劣等感を持つ必要はありません。人が自分を軽んじて、無視したとしても受け止め、人の嫌がる仕事をさせられてもしっかりやりとげることを願います。欠けだらけの土の器である私たちでも、イエス様の福音という宝が入っている土の器です。イエス様が用いてくださる器です。Uコリント4:7。神様の大いなる御力が臨む時、私たちは他の人ができないような大いなることをするようになります。面白いことに、王のお腹から出たものの臭いが王が用をたしているのだと家来たちに思わせて、エフデは逃げることができました。24〜26節。神様が働かれる時には、臭いまでも私たちの味方となるということです。神様が一緒の時、驚くべき結果となります。

V−再起する神の民−27〜30
 神の民は、神様に助けを叫び求めるだけでなく、エフデがモアブ王を倒したと聞いて、集まりました。26〜29節。彼らは、神様がエフデを士師として遣わされたと信じて、エフデのもとに集まって来ました。そして、エフデに従って、モアブ軍と戦い勝利しました。エフデが用いられて、軌跡的なドラマのような活躍をすることができましたが、王一人を倒しただけです。まだ、モアブの占領軍は留まっています。人々がエフデのもとに集まって、力を合わせて、モアブに勝利することができた。小さな一人が断ち上がる時、人々が続いて来ます。まず自分が立ち上がることです。
 イスラエルの民は、あきらめて座り込んでいました。しかし、民が叫び求めた時、神様は、エフデを通して、イスラエルの民を立ち上がらせました。エフデは、神の民にとって最も屈辱的な貢物をささげる仕事をさせられていましたが、くさったり、悲観したりしないで、立ち上がりました。民は、「主はあなたがたの敵モアブ人をあなたがたの手に渡された」という御言葉を信じて立ち上がりました。人は、お金があって、時間があって、能力があれば、私もできるのにと考えるのですが、そうではありません。神様の前に肉の自分が死ねば、力を発揮することができます。クリスチャンは、御言葉を聞いて、聖霊に満たされて立ち上がることができます。
 彼らは、モアブの軍勢や自分の力を見るのでなく、神様だけを見たので、立ち上がることができました。イスラエルの民が悟ったことは何でしょう。信仰で戦うことは、はるかに素晴しいことだということです。彼らが信仰で生きないで、妥協した結果悲惨な支配を受けましたが、信仰で戦った時は、長い期間平安を得るようになります。30節。
 今日の箇所が私たちに語りかけていることは何でしょう。どんなに弱さや欠けがあろうとも、自分を否定しないということです。どんなに軽んじられ、嘲られても、悲観しないということです。神様が用いられる人は、知識も力もありながら、座り込んでいる人々ではありません。弱くても、信仰をもって人々が嫌がること進んでする者を用いてくださいます。 
 私たちが静かに座っているだけでは、誰も私の代わりに人生を歩んではくれません。奇跡は、私たちが信仰で立ち上がる時、起こります。今日神様を求める人は、他の人が嘲笑い、無視しても、黙々と自分のことをするエフデのような人です。「私たちもキリストにあって弱い者ですが、神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。」Uコリント13:4。



士師
3:12 そうすると、イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った。彼らが【主】の目の前に悪を行ったので、【主】はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。
3:13 エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。
3:14 それで、イスラエル人は十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。
3:15 イスラエル人が【主】に叫び求めたとき、【主】は彼らのために、ひとりの救助者、ベニヤミン人ゲラの子で、左ききのエフデを起こされた。イスラエル人は、彼を通してモアブの王エグロンにみつぎものを送った。
3:16 エフデは長さ一キュビトの、一振りのもろ刃の剣を作り、それを着物の下の右ももの上の帯にはさんだ。
3:17 こうして、彼はモアブの王エグロンにみつぎものをささげた。エグロンは非常に太っていた。
3:18 みつぎものをささげ終わったとき、エフデはみつぎものを運んで来た者たちを帰らせ、
3:19 彼自身はギルガルのそばの石切り場から戻って来て言った。「王さま。私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は、「今、言うな」と言った。そこで、王のそばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。
3:20 エフデは王のところへ行った。そのとき、王はひとりで涼しい屋上の部屋に座していた。エフデが、「私にあなたへの神のお告げがあります」と言うと、王はその座から立ち上がった。
3:21 このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。
3:22 柄も刃も、共に入ってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは窓から出て、
3:23 廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めた。

3:24 彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。そして見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは、「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう」と思った。
3:25 それで、しもべたちはいつまでも待っていたが、王が屋上の部屋の戸をいっこうにあけないので、かぎを取ってあけると、なんと、彼らの主人は床の上に倒れて死んでいた。
3:26 エフデはしもべたちが手間取っている間にのがれて、石切り場の所を通り過ぎ、セイラにのがれた。
3:27 エフデは行って、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。すると、イスラエル人は彼といっしょに山地から下って行き、彼はその先頭に立った。
3:28 エフデは彼らに言った。「私を追って来なさい。【主】はあなたがたの敵モアブ人をあなたがたの手に渡された。」それで、彼らはエフデのあとについて下って行き、モアブへのヨルダン川の渡し場を攻め取って、ひとりも渡らせなかった。
3:29 このとき彼らは約一万人のモアブ人を打った。彼らはみなたくましい、力ある者たちであったが、ひとりも助からなかった。
3:30 このようにして、モアブはその日イスラエルによって征服され、この国は八十年の間、穏やかであった。



ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イザヤ60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、【主】が、すみやかにそれをする。

Tコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等し
いものを選ばれたのです。

Uコリント4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

ヨエル3:10 あなたがたの鋤を剣に、あなたがたのかまを槍に、打ち直せ。弱い者に「私は勇士だ」と言わせよ。

Uコリント13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

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