2014年4月6日「私たちの可能性、御言葉の力で」士師記3:31〜4.10

序−負のループを繰り返し学ぶのは、私たちの信仰のためとは言え、辛く感じるでしょう。しかし、そこに登場する士師に私たちは多くのことを学び、大事な適用を受けます。神様の用いられる人は、御言葉を信じる信仰の人であり、多くの兵士や武器よりももっと価値があります。今回登場する二人の士師は、私たちに大きな可能性を見せてくれます。

T−持てるもので強敵を追い払う人−3:31
 まず、ペリシテを破った士師シャムガルです。3:31。今日のパレスチナという地名は、古代のイスラエルにとって最も強敵となったペリシテ人に由来しています。ペリシテは、イスラエルよりはるかに先進国で、鉄器を使用し、鉄製武器まで作っていたのに、イスラエルには、鉄工所すらありませんでした。Tサムエル12:19〜20。イスラエルは、裸足で棍棒や石をもって戦いましたが、ペリシテは、馬に乗って素早く行動し、戦車も用いていました。イスラエルには圧倒的な脅威でした。それで、イスラエル人は、山地から地中海に面した平原に降りて行くことができませんでした。
 シャムガル一人でその強敵ペリシテに勝利しました。たった一節だけですが、私たちに大きな可能性を見せてくれます。彼は、平凡な農夫でした。父の名前アナテとは、カナン人の名です。それほどに彼の父母はカナン化し、信仰がなくなっていたようです。でも、シャムガルは信仰の人でした。ここから知ることのできるのは、親が不信仰だとしても、子どもまで不信仰になるとは限らないということです。むしろ、親の信仰が薄れて、形骸化していたとしても、子どもや孫の代に純粋な信仰が復興するということもあります。そういう大きな可能性を見せています。
 シャムガルという人は、役人でもなく、軍人でもありません。ただの農夫です。牛の突き棒か、鋤のような農具で戦いました。ペリシテ軍が攻め込んで来た時、シャムガルは農作業をしていたのでしょう。とにかく農作業に使っていた棒をもって、一人でペリシテと戦ったということです。これで、反撃は十分でした。痛手を受けたペリシテは、シャムガルがいる間は、イスラエルを攻撃して来ませんでした。
 ここで私たちが学べることは、彼は平凡な一介の農夫だったけれども、信仰が復興した彼に神様の力が注がれて、民の誰も戦えないと思い込んでいた強敵ペリシテと戦えたということです。イスラエルの問題は、武力が劣るということでなく、霊的な問題でした。イスラエルの民が神様から離れて、自分中心になっていたので、自分たちには力も武器もないからと戦おうとしなかったのです。シャムガルの姿は、信仰者の偉大な可能性を見せています。私たちが自分には扱えない、自分の力ではできないと思いこんでいたことも、信仰で自分の持っているものでできる可能性があるということです。私たちが御言葉に拠り頼み、聖霊に満たされて行くならば、問題や敵に取り組んで行くことができるということです。

U−御言葉の拠り頼む女性−1〜5
 次に登場する士師は、デボラという女性でした。1〜5節。ハツォルの王ヤビンが、鉄の戦車九百両を持って、イスラエルを圧迫して来ました。そのような危機からイスラエルを救うことができる指導者は、その時男性の中にはいませんでした。男性は一度折れてしまえば、女性よりはるかに弱くなることもあります。男性は社会的地位や職場があって自信をもっていても、それらを失えば、自信感も失うこともあります。そのような時、女性たちが出て来て、家を救うようになります。
 主婦士師デボラが持っていたのは、剣でもこん棒でもありません。神様の御言葉でした。他の士師のように戦う代わりに、デボラは御言葉の力で男性たちを励まし、勝利することができました。その点では、今日の牧会の原理をよく見せていると言えるでしょう。私たちも、直接人の仕事や勉強を手伝ったりすることはできなくても、私たちに別段力があるわけではなくても、デボラのように御言葉の力で兄弟姉妹のたましいを目覚めさせ、励まし、現実の問題と信仰で対するように導くことができます。
 私たちは、ちょうどデボラからなつめやしの木の下で御言葉を学んでいる者と見ることができます。そして、御言葉を信じて、世に出て行くならば、勝利の奇跡を体験するようになります。今日クリスチャン女性には、驚くべき素晴しい可能性があります。その元は、御言葉であり、信仰です。初めの愛を持続して御言葉に生きることが大事です。黙示録2:5。
 「主がハツォル王ヤビンの手に彼らを売り渡した」と記されていますが、神様がいじめておられるわけではありません。民が神様から離れたために、彼らに神様の祝福と守りが注がれなくなったので、周囲の国々が攻め込める国になってしまったということです。このハツォルは、鉄の戦車九百両を持って、20年も圧迫しました。「圧迫」というのは、貢物を収めさせることよりも、戦車でもって蹂躙し、人もお金も家畜も奪ってしまうようなことです。長い間ひどい圧迫を受けて、ついに神様に叫び、神様の助けを懇願するようになりました。神の民が神様に叫び求めるのは、決して恥ずかしいことではありません。私たちは、本来神様に叫び、涙ながら祈らなければならない者です。それなのに、肉の自尊心や疑いのために頑固になっているだけです。へりくだって神様に叫び祈ることが、もっとも早く答えをいただく秘訣です。
 神様が備えてくださった救助者デボラは、「ラピドテの妻」つまり主婦であって、「女預言者」として「人々をさばいていた」と紹介されています。4〜5節。「さばき」と言われているのは、今日の裁判ではなくて、個人的な相談を受けて、御言葉によって答えていたということです。「預言」というのも、単純に未来のことを予告するのではなくて、神様の御言葉をもってその人の人生に適用させることです。ヘブル4:12。私たちが礼拝で御言葉を聞き、御言葉を分かち合って、御言葉から自分の生活への適用を受けることと同じです。御言葉で人を助けることができます。
 デボラの姿は、私たちに牧会の重要な原理を発見させてくれます。デボラは、イスラエルの民の具体的な困難に直接関わっているわけではありません。私たちも、ある人が困難に陥っている時、その困難に直接飛び込んで助けたい思いもありますが、大抵は一緒に働いたり、勉強を助けたりすることはできません。これまでの士師は、直接武器をもって外敵と戦って、民を困難から助け出しています。しかし、デボラは、御言葉をもって人々を悟らせ、人々が立ち上がって信仰で対処するようにしてあげました。
 これは、私たちに対して神様がしてくださる重要な原理です。神様は、私たち一人一人が御言葉を聞いて、立ち上がることを願っておられます。神の御言葉のうちには、困難に打ち勝つ力があるからです。イエス様の称賛を受けた人々は、御言葉を聞いて信じた人々でした。マタイ8:8〜10。デボラは、バラクという人に神様の御言葉を与えて、人々を集めさせ、ヤビンの軍勢と戦うようにさせました。6〜7節。これが御言葉の力です。絶望的な状況から御言葉一つだけ信じて、困難な現実とぶつかって行くのです。これはデボラのことばではなくて、神様の御言葉です。神様の御言葉には、戦いに勝利するための戦略も入っていました。

V−御言葉の力に拠り頼もう−6〜9
 ところが、ここでバラクの信仰が急に弱くなってしまいます。デボラが一緒に行かないなら、自分も行かないと言い出したのです。8節。つまり、神様の御言葉を信じるより、状況を見た自分の判断を信じたのです。御言葉より、デボラの同行に信頼をおいたのです。ここに問題と御言葉の間で揺れる私たちの姿を見ることができます。御言葉を聞いても、「おことばどおりしてみましょう」というふうにはしないのです。ルカ5:5。神様の御言葉は、イスラエル人一万人を連れて行ってハツォルの将軍シセラの大軍と戦え、ということです。しかし、鉄の戦車九百両を見て、バラクは、到底戦うことは不可能だと考えたのです。
 御言葉は御言葉であって、目に見えるものではないからです。デボラが一緒に行けば行くと言い出したバラクに対して、デボラが言ったことはどういう意味でしょうか。9節。これは、バラクが御言葉だけを握ることができなくて、デボラという人を握ろうとしたので、神様の力が注がれて戦いには勝つことはできるけれども、敵の将軍シスラを倒すという光栄を失うということです。勝利の手柄は一人の女の人に渡るというのです。なぜでしょう。その理由は、神様の御言葉を信じることができなかったからです。目に見えるほかのことに頼ろうとしたからです。
 今日多くの人々が御言葉を聞くだけで満足することができません。神様以外の目に見える多くのものを握ろうとします。お金も握って、人も握って、地位も握ろうとします。しかし、クリスチャンにとって、御言葉が最も力があり、拠り頼むことができるものです。神様から最も大きな賞を受けるのは、ただ御言葉だけ信じて、現実の問題と戦う人です。クリスチャンが信じた時の初めの愛を失ってしまい、御言葉に拠り頼まなくなった結果、多くの大切なことを失い、不安を抱くようになります。
 私たちには、大きな可能性があります。御言葉で世に勝利していけると、イエス様が十字架による救いをもって保証しています。ヨハネ16:33。御言葉に拠り頼むならば、自分が持っているもので問題と戦えます。御言葉に聞き従ってこそ、神様が私と一緒におられて、勝利させてくださいます。



士師
3:31 エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。
4:1 その後、イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。
4:2 それで、【主】はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。
4:3 彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は【主】に叫び求めた。
4:4 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。
4:5 彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。
4:6 あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、【主】はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。
4:7 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」
4:8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」
4:9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。【主】はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。
4:10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。



マタイ8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。

ルカ5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。

ヘブル4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

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