2014年4月20日「私たちの病を負い、痛みをになった」イザヤ53:1〜12

序−イースター・復活祭といえば、救い主イエス様が十字架の死からよみがえられたことの記念日、祝いの日ということで知られています。では、十字架の死と復活は何を意味しているのでしょう。私たち自身とどんな関係があるのでしょうか。「苦難のしもべ」の予言が、それを教えています。

T−救い主についての誤解−1〜3
 この救い主の予言は、苦難のしもべとして知られています。1〜2節。しかし、世の人々の救い主のイメージとは違います。救世主のイメージは、アニメの主人公から、新物質の発見まで様々ですが、一様に人の目を引くかっこいいものです。ところが、この救い主のメッセージを誰もはじめは信じなかった、というほどです。「主の御腕」とは神様の御力が働いたことですが、人々を驚かすように奇跡でも、大勢の人々の目を奪う素晴しい姿でもありません。とても弱々しい者に、神様の御力が現れたのです。 
 人は、自分の人生に強い超人的な救世主が現れ、自分の求めるものを与えてくれて、自分の願うように状況を一変してくれることを期待します。ところが、聖書の救い主は、人々のイメージとはかけ離れた、正反対の姿です。乾いた土から出たひょろひょろの枝のようだというのです。世の中の力をまったく持っていません。人々の目を引く魅力的な姿もなく、輝きもなく、美しさもありません。でも、弱さや欠けを持っている私たちには、このような救い主のイメージは親近感を感じさせます。
 イエス様は、貧しい家で育ち、学問も財産もありません。病気や怪我のために、痛みや後遺症も患ったことでしょう。私たちが実際にイエス様を外見だけ見るならば、想像とは違い、失望するかもしれません。人々からさげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられるほどだというのです。3節。実際にイエス様が人々に福音を伝えていた時、富める支配者たちからはそのような扱いを受け、十字架の時はまさにそのうような姿でした。ですから、救い主は、「悲しみの人で病を知っていた」というのは、ご自身そういうことをすべて経験しておられた方だということです。
 なぜ、神様は救い主をこのような姿で送られたのでしょうか。苦難のしもべの姿は、イエス様の地上の生涯そのものです。イエス様は、少年の頃より厳しい労働を強いられ、病気も怪我もされたでしょう。育ったナザレ村のあるガリラヤ地方は、南のユダヤ地方から貧しさや災害のために移住して来た人々の住む所でした。ガリラヤ人と蔑まれ、イエス様ご自身も、周囲の人々も、痛みや病を知る人々でした。震災で避難生活をされている人々の労苦や痛みを思います。ですから、イエス様は、痛みや病、弱さや欠けを持っている人の心情を誰よりもよく知っておられます。
 イエス様は、人々に福音を伝えながら多くの「悲しみや病を持った」人々に出会い、人々を癒されました。福音書の四分の一は、イエス様の癒しに関するものです。「ああ、救い主であるイエス様がこのような方であったのか、イエス様もさげすまれ、のけ者にされ、悲しみと病を経験されたのか」と知るだけで、私たちの胸はいっぱいになり、涙がこみ上げて来ます。

U−私たちのために、身代わりに受けられた−4〜6
 救い主としてもクライマックスは、私たちの罪と滅びの代わりにさばきを受けられたことです。苦難のしもべが世で苦しみを経験した時、それが私たちの罪の身代わりとして受けたさばきだったというのです。イエス様が、人々からさげすまれ、のけ者にされ、顔をそむけられ、悲しみと病を経験されたこと、その象徴である十字架にかかられたこと全部、私たちの罪のためそのようにされたのです。
 しかし、人は誰も、いや「私たちは」それが自分の罪のせいだとは考えませんでした。4節。イエス様がそのように苦しまれ、病を負い、痛みをになわれたのは、神様が私たちの罪をイエス様にすべて負わせられたからです。私たちは、問題が起きれば、悩みます。家族全体が辛くなり、憂うつになります。でも、その問題を誰かが引き受けてくれるならば、私たちの心はいっぺんに軽くなります。ただ、その人はその問題を解決するために苦しむようになるようなものです。
 イエス様が世に来られたのは、私たちの苦しみのすべてを受けて、持って行くためです。私たちのために悲しまれ、私たちの病を負い、痛みをになわれました。家族の中に痛みや病があるなら、家族皆が心痛めます。死に至る病を、滅びに至る病を代わりに負われました。このようにイエス様は、私たちのすべての悲しみや痛みを負い、苦しまれました。それは、私たちの罪の身代わりなのだと信じることが重要です。8節, Tペテロ3:18。
 イエス様は、私たちの罪のために、刺し通され、砕かれ、凝らしめられ、むち打たされました。5節。刺され、打たれることは肉体的痛みであり、砕かれ、懲らしめられることは精神的苦痛みです。私たちが心を悩まし、体の痛みに苦しんだことを、イエス様が受けられたのです。考えてみてください。最もやりきれないことは、汚名を着せられることです。最も悔しいことは、自分が犯していないことで罰を負わせられることです。それを、イエス様は私のために負われたのです。私たちの心は痛まないでしょうか。平気ではいられません。イエス様は、汚名を着せられ、苦しめられ、痛めつけられても、墓に至るまで黙々と受けられました。7,9節。
 イエス様が裁判を受けられた時、人々は嘘偽りを言い、十字架につけろと叫びました。人々はイエス様からかい、つばをかけ、あざけりました。マタイ27:29〜30,39〜41。ムチと十字架の痛みは、表現することもできません。自分が受けるとしたら、心痛みませんか。誰かからそうされたら、心傷つきませんか。人々は、自分の中にあるすべての不満、鬱積した思いをイエス様にぶつけました。ルカ23:23。そして十字架刑を利用したのです。
 不思議なことに、驚くべきことに、イエス様がムチ打たれ、肉が裂け、血が流れることが多く覚えるにつれて、私たちの心の傷が癒され、罪の重荷が軽くされるのです。そして、イエス様が十字架上に死なれたことで、神様は私たちのすべての罪を赦してくださったのです。私たちのすべきことは、ただその事実を信じること、そのほかに何もありません。6節。今までは、救い主が誰か、どんなお方か分からないで、苦しみながらさまよい、滅びに向かって歩んでいたのですが、誰でもイエス様の十字架と復活を信じることで罪赦され、神の子どもとされるのです。エペソ2:8。
 人の罪は、「自分かってな道に向かって行く」こと、すなわち神様に背を向けることだと言います。自分の肉の思いに固執することです。その行き着く先は、滅びです。ローマ6:21〜23, ピリピ3:19。ですから、あわれみ深い神様は、私たちのすべての咎をイエス様に負わせました。私たちの罪咎の責任をすべてイエス様に着せて、強いて私たちを罪無しとしてくださり、新しいいのちを与えてくださいました。

V−イエス様の苦難の結果−7〜12
 イエス様が私たちの罪と滅びの身代わりとなって十字架に死んでくださり、よみがえられたことよって、その結果どんなことが起こりましたか。罪の赦しを与え、天国への門を開いてくださいました。10〜12節。神様の「みこころ」は、人々を罪の滅びから救い、天国への命を与えることです。イエス様が十字架の死からよみがえられたことは、私たちの罪が赦されて、新しい命に生きることができるようにされたということです。イエス様を信じて救われたなら、天国への命で生きていることです。ローマ6:22〜23。
 イエス様は、私たちの罪のために十字架に死なれましたが、私たちが義なる存在、新しい命に生きるために、よみがえられました。ローマ4:25。イエス様ご自身が復活されて、死を打ち破り、私たちに新しい命を与えてくださいました。神様の大きなあわれみと愛によって、イエス様は十字架に死んで、よみがえられて、天国への命を与えてくださいました。
 イエス様の死と復活は、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」ことだ言っています。4節。イエス様が打たれ、苦しめられたのは、それによって私たちをいやすことでした。5節。このイエス様による救いは、私たちに大きな癒しを与えます。Tペテロ2:24。イエス様を信じて救われた者は、このことを信じて祈ることができます。すべてが癒されるわけではありませんが、救いは私たちの心を癒し、肉体を癒しに繋がります。神様は、医療や食べ物を通して、私たちを癒してくださいます。
 私たちは、世に生まれて人生を生きて行く間に、様々な心の傷や痛みを受けます。妬みや恨み、憎しみや嫌悪感、挫折や絶望等を通して心は傷つき、病んで、体まで傷つき、病んでしまいます。イエス様の死と復活のメッセージは、イエス様が「私たちの病を負い、私たちの痛みをになわれた」ことです。こうして、新しい命と新しく生きて行く望みを与えてくださいました。Tペテロ1:3。
 一番重い病気は何でしょう。治らない肉体の病気が、それではありません。肉体が死んでも、天国に行くことができますから、滅びにいたる病ではありません。「死にいたる病とは絶望することだ」と哲学者は言いました。絶望は自分の弱さから目を背けて、何かに逃避し、何かを憎み、誰かを攻撃します。神様の愛とあわれみを信じることが、人を絶望から解放します。イエス様の死と復活が「私の病を負い、私の痛みをになった」という福音を信じる者は、イエス様が死からよみがえられたことで、新しい命と新しく生きて行く望みを与えられました。Tペテロ1:3。



イザヤ
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた

人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

Uコリント5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

ローマ6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ピリピ3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

ローマ4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

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