2014年5月4日「弱くても用いられる」士師記6:1〜15

序−自分は弱くて欠けが多い、私は用いられないと思うことが多いでしょう。しかし、落胆することはやめて、聖書のメッセージに耳を傾けましょう。神様は、取るに足りない者を神の民を救うために用いられました。

T−イスラエルの痛みの原因、ミデアン人の侵入−1〜
 きょうの主人公が登場する背景をまず学びましょう。1節。この決まり文句は見たくもないと思う人もいるでしょう。しかし事実です。神の民は、神様だけ愛し、神様だけに拠り頼む者です。にもかかわらず、イスラエルの民はまるで神様がおられないかのように、主の前に悪を行ったのです。「お天道様が見ている」というように、「神様が見ておられる」という観点がなくなった時、私たちもこのようになる危険があります。
 確かに目に見えない神様を意識することは、難しいことです。しかし、イエス様の十字架の身代わりによって救われている感謝を覚えれば、よいのではないでしょうか。民は、思いがけない災難が訪れた時には、神様を求めるのですが、安定してうまく行っている時には、他のものに目を向けたのです。周りの国々の文化や習慣、偶像崇拝を見て、そちらの方がよく見えて、少しずつ神様から離れ、罪の生活や偶像崇拝に落ちて行くようになりました。
 私たちの姿と同じですね。事件もなくうまく行っている時は、神様以外のものにより頼み、世の肉の価値観、罪の習慣に流され易いものです。しかし、苦境に苦しむならば、離れていた人も神様に立ち返るようになります。それで、イスラエルの民も、七年間ミデアン人の支配下に置かれていました。2~5節。遊牧民のミデアン人がしばしば襲撃して来て、お金から収穫物まであらゆるものを奪って行くのです。山に逃れるしかない状態となりました。洞窟などに隠れ住むようになりました。民は、ミデアン人の略奪のために非常に弱くなり、悲惨な状態となりました。
 現代の日本も生活環境も職場の環境も悪化しています。社会の状況も、人々の精神も混乱しています。個人的にも、様々な問題や困難に出会い、悩み苦しんでいます。イスラエルの民はどうしたのでしょう。彼らは、満身創痍、まったく出口が見えない状態でしたが、そこで彼らが最後に取った行動は、神様に叫び求めることでした。6節。「非常に弱くなって」とは、自分たちの力では到底困難を解決することはできない状況になって、追い詰められてということです。彼らは、集って共に祈りました。体面とかプライドとかいう肉の思いを捨てて、ただ素直に神様に祈り求めたのです。こういうことが、私たちにもどれほど必要なことでしょうか。

U−無名の預言者−7〜
 神様は、そのような祈りに応えて、御言葉をくださいました。7〜8節。私たちは、これが理解できないでしょう。今イスラエルの民に必要なことは、食料であり、救急の薬であり、ミデアン人を追い出せる武器です。神様は、そのようなものを与えないで、御言葉を与えたのです。その理由が大事です。「信仰の伴わない祝福は、決して祝福とはならない」ということです。イスラエルの民がこのようになったのは、信仰が薄れたためであり、信仰によって生きることがなくなったからです。つまり、彼らの中に神様の御言葉がなくなってしまったからなのです。
 何よりも必要なのは、御言葉でした。神様の御言葉は、私たちの信仰の診断です。私たちのすべてを御言葉の前に持って行けば、問題があらわになります。病気の時、医者は診断をしなければ、治療をすることはできません。私たちも、状況が悪化している時、まず御言葉に立ち返らなければなりません。そのようにしなければ、どんなに努力しても、悪を捨てることはできません。生き方を変えられません。御言葉を聞けば、信仰が復興し、立ち上がることができるようになります。
 その御言葉の中身はどうでしょうか。8〜10節。根本を思い出させています。イスラエルの民をエジプトの奴隷から助け出し、約束の地カナンに導きいれたのは、主なる神様だったということです。彼らの存在するのは、今カナンの地に生きているのは、神様のあわれみと愛によることなのに、どうして御言葉に聞き従って生きないのか、ということです。日本人が長年食べて来た和食が見直されて来ていますが、違うものを食べて具合悪くしているならば、基本に戻れということです。
 私たちが、このように生きているのも、神様の救いの恵みです。この御言葉は、それなのになぜ御言葉によって生きることをしないのですか、と私たちにも言っているのです。クリスチャンって何でしょう。神の御子イエス様が私の罪と滅びの身代わりに十字架にかかりよみがえれたということを信じて、救われた者です。価値観が変わり、新しいいのちに生きるようになりました。イエス様の十字架が救いの原点です。これを忘れて生きることはできません。それを思い出させるのが、毎週の礼拝であり、毎月の聖餐式です。私たちが世で幸いに生きようとするなら、他の条件より何よりも、御言葉に聞き従って生きることです。マタイ4:4。

V−臆病者を勇士と呼ばれる主−11〜
 神様は、ことばだけの方ではありません。神様が言われるなら、私たちの思いや予想を越えて働いてくださいます。驚くべき救いを備えてくださいます。きょうの主人公の登場です。11節。ホテルなどに聖書を配布しているギデオン協会とは、この人の名からとっています。ところが、神様の御使いが探し出して来たギデオンという人は、まったくイスラエルを救うような勇士ではない人でした。
 酒ぶねとはガトと言って、葡萄を足で搾るために岩に掘られた窪みのことです。ギデオンは、ミデアン人を恐れて、その窪みに隠れて小麦を脱穀していたのです。狭い所で籾殻が刺さります。あまりにも弱虫で、使い道のないような人でした。彼は、とても勢力の弱いマナセ族の中でも、もっとも弱い氏族で、一族の中で最も弱い者でした。15節。とても士師として用いられそうにない人でした。人から見れば、まったく民を救う勇士とは見えない人でした。臆病で、優柔不断な性格の人のようです。
 しかし、神様の使者は、ギデオンに対して、「勇士よ」と呼びかけます。12節。これはまったくギデオンに合いません。人が言えば、皮肉にしか聞こえないでしょう。ギデオンは弱虫、小心者でした。でも、勇士どころか、力強い勇士、大勇士と訳すべきところです。どうして勇士だと言えるのでしょう。使者は、「主があなたといっしょにおられる」とも言っています。神の民にとって、主が共にいてくださることが最も大事なことでした。主が一緒ならば、どんなに弱虫で臆病な人でも、勇士になることができます。このような裏づけがあって、勇士よと言われたのです。
 出エジプトの指導者モーセが神様から召しだされる時、「私はいったい何者でしょう」取るに足りない者だと固辞すると、神様は「わたしはあなたとともにいる」と言われました。出エジプト3:11。イエス様も、最後に弟3
子たちに「わたしは、いつもあなたがたとともにいます」と言われました。マタイ28:20。私たちにも、イエス様はともにおられます。ヨハネ14:16。聖霊なる神としてともにおられる、どんなに励まされることでしょうか。
 彼自身に、勇士となれる理由がありました。彼が、聖書的な信仰を持った人であったということです。純粋に御言葉を信じる信仰だったからです。13節。御使いに対して、反論しています。かつてエジプトから導き出してくださった神様なのに、どうして私たちはこんな状態なのか、と文句を言っています。一緒にいるというのは事実ではないと反発しています。つまり、彼は、御言葉を御言葉通りそのまま信じる人であったためです。神様がギデオンを召しだされた理由は、ここにあります。
 今日私たちに重要なことは、神様が一緒ならば、御言葉通りしてくださると信じることです。私たちは、人々と比べて劣等感を持つでしょう。人の活躍を見て、自分には何もできないと引け目を感じるでしょう。私は役に立たない者だと思うでしょう。しかし、私たちが純粋な信仰を持っているなら、御言葉をそのまま信じるなら、神様が用いてくださいます。
 ギデオンの様子から、臆病者だと分かるだけでなく、ギデオン自身も、自分は最も弱い者、未熟な若者だと認めています。15節。特別な力は何もない人でした。しかし、神様は、このような人を喜んで用いてくださいます。自分は、弱い、欠けだらけの者だ、何もできない、と落胆されますか。イエス様の弟子たちもまた、平凡な欠けの多い人々でした。イエス様に召しだされた時は、まだ若く、未熟者でした。でも、主の御手にとらえられて、変えられました。私たちも、イエス様の弟子になりました。
 ギデオンは、私たちと同じ問題を抱えた弱い人でした。勇士と言われても、神様がいるなら、どうして私たちの人生にこんなことが起こるのか、と訴える人でした。私たちも、訴えるでしょうか。神様の答えは「あなたのその力で行け、わたしがあなたを遣わす」ということでした。14節。自分を取るに足りない存在と思っていたギデオンは非常に驚きました。ギデオンは幼い頃から、モーセが導いた出エジプトの奇跡を聞いており、エリコの城壁が崩れて、ヨシュアたちが勝利を治めたことも何度も聞いていたでしょう。まさか、自分がそのように主に用いられる主人公になれるなんて、と驚きました。取るに足りない弱い私たちも、信仰があるなら、弱くても用いられます。Tコリント1:27〜28。



士師
6:1 イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った。そこで、【主】は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。
6:2 こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押さえたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。
6:3 イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。
6:4 そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。
6:5 彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすために入って来たのであった。
6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は【主】に叫び求めた。
6:7 イスラエル人がミデヤン人のために【主】に叫び求めたとき、
6:8 【主】はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。
6:9 わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。
6:10 それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、【主】である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。
6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」

6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、【主】は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」
6:14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」



マタイ4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

出エジプト3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

Tコリント1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

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