2014年6月1日「私の人生の主、軍師であるイエス様」士師記7:1〜14

序−イエス様を信じて救われた者は、自分が人生の主人であるという考えから、イエス様が自分の人生の主でありと分かり、イエス様中心の価値観となり、イエス様と共に生き、イエス様に導かれた人生を生きるようになります。小さな従順、小さな献身をしたギデオンもそうなります。

T−戦いの主人公、人生の主人−1〜2
 イスラエルの民がミデアン人たちと戦うために、3万2千人もの人々が集まって来ました。ところが、ギデオンがイスラエルの民を率いてミデアンと戦おうとしている時、神様はその数が多すぎると言われました。1〜2節。その理由は、大勢の民で戦いに勝ったなら、民は自分たちの力で勝ったと誇るといけないからというのです。単に威張っちゃだめだと言うのはありません。民も敵も、この戦いは神様の戦いだと悟ることを神様は望まれたのです。戦いの主人公は、神様だということを知らしめるためです。元々イスラエルの民が神様を信頼せず、偶像に仕えていために、この戦いが起こったのです。何もかも略奪されるというような悲惨な状態になった原因は、民自身にありました。それに気付き、偶像に仕えることを止めて、悔い改めて、神様に立ち返って来ました。それならば、神様が責任を取ってくださるというのです。何と、感謝なことでしょう。
 多事多難の人生を生きて行く中で、神様が私のことについて責任を取ってくださるなら、困難な中でも生きることができます。どうすれば、私の人生の責任を取ってくださるのでしょうか。どのように私の仕事や学びの責任を取ってくださるのでしょう。ギデオンが御言葉に聞き従って立ち上がった時、神様は民のために責任を取ることを始められました。私たちに対しても同じです。私たちが、神様以外のものに心奪われ、拠り頼んでいるのをやめて、神様を絶対的に信じて、拠り頼んで行こうとする時、神様は私たちの人生の責任を取り始めてくださいます。
 私たちは、自分自身に問うてみましょう。自分の人生の主人は誰か、ということです。イエス様に救われる以前のように、自分が人生の主人となって、人生を思うままに生きて、後始末だけ神様にさせていないか、という問です。自分は徹底して、しもべの位置にいて、イエス様に人生の主人になってもらい、すべての指揮を執ってもらい、導いていただくことを確信しているか、問うてみましょう。心の王座には、誰が座っていますか。自分が主人である時には、自分がすべてのことを決定し、自分がしたいことをします。そうしていながら、すべての後始末を神様に収拾させようとするのです。このようなことを神様が喜ばれるはずはありません。
 イエス様の十字架を信じて救われたことで、私たちの人生は変わりました。Uコリント5:15,17。自分が人生の主でなく、イエス様を心の王座に迎え、イエス様を主として生きるように変わったのだ、ということです。たとえどんなにでたらめに生きていて、悲惨な人生となっていたとしても、イエス様が自分の人生の主となれたのなら、神様が責任を取ってくださいます。私たちがどんなに間違っていたとしても、主のしもべとなって、人生を委ねるなら、再び生き返るようになります。今小さな従順、小さな献身をしたギデオンに、神様が人生の主であり、人生を導く軍師となられたことを教えられたのです。

U−神様の選抜、軍師である主−3〜8
 戦いの指揮を執られる神様は、ギデオンの軍師として、命じられます。3節。数が多すぎるイスラエル兵を家に帰らせるように言われるのです。大部分は、戦争が恐いと思いながらも、集まって来た民です。それで、神様は、少しでも恐がっている者は家に帰っていいよ、と言わせたのです。ギデオンが民にそう伝えると、何と3万2千のうち2万2千人もが帰ってしまいました。
 今いる所はヨルダン西岸カナン本土ですが「ギルアデ山から離れなさい」と言っています。ギルアデ山はヨルダン川の東側、この地は、イスラエルと他の民族の領土争いがしばしば起こり、イスラエルの存在がかかっていた所です。天王山の戦いを放棄して帰るということです。それなのに、2万2千人もが帰ったということです。数だけいても、とても戦えません。帰るように言わせたことの合点が行きます。
 これは、神の民の存在をかけた戦いです。帰ってしまった人々は、自分がなぜ戦わなければならないのか、なぜ痛みを受けなければならないのか、まったく分からない人々でした。神様が今日私たちに求められることは、何でしょう。少なくても、自分が何のために信仰生活をしているのか、なにゆえにそれをしているのか、しっかり認識していなさいということです。
 1万名の民が残りましたが、神様は、まだ彼らの数は多いと言われました。天候は暑く、喉の渇く季節だったのでしょう。神様は、ギデオンに民を水のある所に連れて行き、水を飲ませるように言われました。4~6節。これが神様の選抜方法でした。何も教えないで、何も言わないで、飲ませました。大部分の人は、膝を突いて頭を水に付けて沢山飲み、一部の人が手で掬って少し飲みました。その3百人だけを残し、9千7百人は家に帰しました。これに何か理由があるのでしょうか。のどが渇くあまり顔を水に付けて口から飲む人は、戦いには向かないということです。戦いの時には、眠気とのどの渇き、そして空腹に耐えなければなりません。それに、いっぺんに水を飲むと戦いや行軍に差し支えます。
 まさに戦いでの軍師のような働きです。実際、この章の後半で行われるゲリラ戦法では、少数精鋭でなければなりません。軍師である神様は、作戦のために少数を残されたのです。私たちの人生の戦いにおいても、神様は軍師となって助けてくださいます。徹底して神様の御言葉に聞き従う人だけが、最後に勝利できます。

V−主の愛に満ちた取り扱い−9〜14 
 しかし、この一連の兵士選抜を見ていたギデオンは、どのような思いになったでしょうか。少数精鋭なら自分は相応しくない、こんな少数でどうなるのか、という思ったでしょう。ギデオンは小心者で、自信のない者でした。大勢集まったと喜んでいたところ、3百人しか残っていません。ギデオンの心は絶望感にうちひしがれたことでしょう。この現実を到底受け入れることができません。この戦いは勝てない、もうだめだ、指導者はやめて、家に帰ろう、そんな思いが生じたことでしょう。私たちも同じです。先のことが分からないし、神様の作戦も分かりません。目の前のことを自分の頭だけで考え、否定的な思いになることしばしばです。神様は、ギデオンのこのような絶望と恐れを良くご存知です。私たちの不安や恐れも知っておられます。そこで、彼に勇気と確信を与えるために、このように命じられました。9~11節。神様は、兵士の選抜方法も軍師のようでしたが、今度も敵陣へ入って行って彼らがどんな状態か探ってきなさい、と軍師の提言です。
 ギデオンの心には、神様への従順と疑いが交錯し、不安と恐れがまた大きくなっていました。敵情を探ることのは、軍師ならば当たり前ですが、ギデオンは考えもしなかったことです。まさに神様は軍師です。私たちも、自分の思いだけ考えて、自分の目の前のことだけ見て、不安や恐れ、否定的な思いに落ち込みますが、別な面を見る、別なことに考えを向けるということが道を開くことがあります。私たちの軍師である主に聞いてみることです。詩篇119:24,エレミヤ33:3。思いも寄らないことを教えてくれます。
 ギデオンが部下一人と密かに敵陣に下って行くと、二人の兵士が夢の話しているのを聞きました。13〜14節。パンの塊が陣営に転がって来て、天幕が倒れたというどうってことない夢です。食べることしか考えない兵士が食べ物の夢を見るものです。「大麦のパン」に注目しましょう。パンは小麦で作るものです。大麦で作ると、固くてひび割れ、ふくらみもない、見栄えのしないパンになります。ひび割れた土の器のようです。これこそ、ギデオン自身のイメージです。「大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕が倒れた」という夢の話を聞いて、不安や恐れで暗くなっていたギデオンの心が明るくなりました。
 ギデオンは、いつも自分を大麦のパンのような、ひび割れた使い道のない者だ、と思っていました。今の今まで、少数精鋭じゃ自分のような見栄えのない者は使い道がない、と思い込んでいました。ところが「大麦のパンが〜」という夢の意味を、何とミデアンの兵士が「神がギデオンの手にミデヤンの陣営全部を渡されたのだ」と解釈していたのです。どんなに驚いて、感謝したことでしょう。「ああ、私も用いられるのだ」と。心の奥に熱いものを感じながら、今までの疑いも不安も吹っ飛んでしまいました。神様が一緒だと確信しました。
 確かにイエス様は、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえによみがえられ、勝利されました。Uコリント13:4。弱い者も、イエス様に救われて自画像が変わります。驚くべきことは、ギデオン自身が自分を「ひびだらけの大麦パン」だと思っていたら、敵は自分を「ミデアンを倒す剣」だととらえたことです。敵を通して、神様が教えてくださいました。私たち自身の自画像はどうですか。イエス様の十字架によって救われた私たちは、ひびだらけの土の器だけれども、神の器として用いられる尊い者なのです。イエス様の栄光の光がそのひびから射し出ています。Uコリント4:6~7。自分の人生の主はイエス様、神様が軍師となって私を導いて、戦ってくださる、という信仰生活となりますように。自分の自画像がどうであっても、イエス様の十字架のゆえに「高価で尊い」とみなしてくださるのです。イザヤ43:4。



士師
7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
7:4 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない』と言う者はだれも、行ってはならない。」
7:5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、【主】はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7:7 そこで【主】はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。
7:9 その夜、【主】はギデオンに仰せられた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。
7:10 しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、
7:11 彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。
7:12 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。
7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」



Uコリント5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

詩篇119:24 まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

エレミヤ33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。

Uコリント13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

Uコリント4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

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