2014年6月15日「最後まで忠実に、謙遜に」士師記8:1〜21

序−当然こうしてくれるはず、という思いと違う他人の反応に出会った時、私たちは、当惑し、憤慨することがあります。ギデオンたちが大勝利した後、予想外の対応を受けることになります。それに対するギデオンの姿は、神様に用いられる人の変化を私たちに見せてくれます。

T−エフライム族の自尊心と怒り−1〜3
 ギデオンと300人の兵は、神様の導きによって奇跡的な勝利を与えられましたが、続けて残存勢力を一層しなければなりません。しかし、この大事な時期に、不要な肉のプライドとの戦いに巻き込まれることになります。エフライム族が敵将の首をギデオンのところに持って来た時、ギデオンの働きを称える代わりに、彼に文句を言い、責めるのです。1節。私たちも、しばしばこのような当惑するような反応に出会うことがあります。
 エフライム部族は、イスラエル中央部に位置した最も有力な部族だという自負心がありました。どうして最初から我々に声をかけなかったか、なぜ我々の許可も得ずに始めたのか、プライドが傷つけられた、という思いです。ギデオンみたいな小さな部族の取るに足りない者が活躍するなんて赦せない、という嫉妬心です。ギデオンのリーダーシップに対する反発です。これは、誰にも生じる思いではないでしょうか。
 部族としては大きいが、精神的にはとても幼稚でした。勿論、かれら自身は幼稚だとは思っていません。イスラエルの重要なことには関わらなければ、我々に相談をさせなければと考えていたのです。このような幼稚な抗議に、人はどう対応するのでしょう。何言っているんだ、こんな重荷を私に負わせて、そっちこそ進んで参加すべきだろう、などと怒って、責めることもできるでしょう。ギデオンは、そうしませんでした。
 たとえ、先に召集したとしても、自負心の強いエフライムは中々応じなかったでしょう。自尊心の強い者こそ、利害に敏感でも、勇気と決断は持たず、責任は取らないのに、難癖だけはつけるのです。こうして危険が過ぎた時は勇敢に見せても、危険が近付いている時は勇気を出さなかったのです。仮に、プライドばかり大きいエフライムが召集されて来たとしても、恐れる者は帰れと言われたてすんなりと帰ることはなく、悶着が起こっていたに違いありません。
 ギデオンは考えてみました。今イスラエルを導く指揮官として重要なことは何だろうか。当然、残っている敵を追撃して、ミデアンの脅威を一層することです。自分の立場を弁明したり、プライドや嫉妬心から出たことを議論して時間を浪費することはできません。争いを引き起こすことは避けるべきです。ギデオンの対応に注目しましょう。2〜3節。知恵深い比喩をもって、エフライム族のプライドを宥めました。
 アビエゼルとは、ギデオンの属する小さな部族です。ブドウの収穫と取り残しとは、ギデオンたちが戦いを始めたとしても、後で敵の王たちを倒すという光栄を手にしたのはエフライム部族ですよ、ということを強調しています。確かに、エフライム族が勝利の一番目立つ、美味しいところを取っています。こう言われては、怒りを静めないわけには行きません。箴言15:1〜2。ギデオンは、素晴しい指導者になっています。
 今必要なのは、急いで追撃することです。主の働きを遂行することです。人の評価を受けるのではなく、神様の召しに応えることです。主が私たちの中心におられないと、自分を責め、誤解し、勝手なことを言う者に対して憤慨することになります。ギデオンがこのように丁重に対応したのは、エフライムが狭量で愚かであっても、一緒に戦ったということを評価しているからです。彼らも仲間とみなしています。土の器に神様の知恵が入っているので、そのような見方、受け止め方ができました。私たち自身が狭量で肉の思いになっていませんか。人が周囲の者と起こす紛争の多くがこのようなものです。あなたにとってのエフライムはどんな人ですか。
 エフライム族の姿は、小さな従順、小さな献身で頑張った者へのつれない反応でした。私たちもせっかく頑張ったのに、どうして文句をつけるの、なぜひどく言うのか、と悲しい経験をすることがあります。しかし、ギデオンの答えは、彼らのそんな屈折した思いには少しも触れず、大変穏やかで、平和的でした。自分を正当づけようとせず、彼らを宥めて、喜ばせました。自分のしたことより、彼らの手柄の方がすごいとほめます。イエス様は偽証する者を相手にせず、黙っておられました。マタイ26:63。私たちは、言い争わないで、神様に祈るべきだと勧められています。テモテ2:8

U−ガド族の冷淡と侮辱−4〜9
 エフライム族の幼稚な嫉妬心、肉のプライドに挫けることなく、ギデオンと3百人の兵は、ミデアン軍追撃という地味で労苦の多い働きを続けます。4節。エフライム族の抗議に憤慨していたら、疲れは増加し、心は萎え、とても追撃を継続することはできません。イスラエルを苦しめるミデアン人の脅威を取り除くという使命を覚え、神様が共に働いてくださると信じていたから続けられます。
 しかし、疲れたギデオンたちをむち打つ出来事が起こります。休むことなく追撃していたギデオンたちは、のどが渇いて、飢えていました。スコテとペヌエルいう町で、水や食べ物を求めますが、町の者の反応は、酷いものでした。5~6,8節。ギデオンをあざけり、支援要請を拒絶しています。そんなにみすぼらしい少数の兵で勝てるはずがないと思ったからです。
 ミデアン軍の報復を恐れたからでしょうか。そうであるなら理由を言うでしょう。ギデオンを侮辱したり、冷たくあしらったりはしません。一緒に戦えと言っているのではありません。同胞のために命がけで戦っている者たちに水と食料を与えて、助けてほしいと求めたのです。単なるプライドの問題ではなく、イスラエルの生存がかかっている死活問題なのです。
 それなのに、イスラエルが死のうと生きようと関係ない、我々だけ生き残ればいいという態度でした。最も腐敗した心でした。民の指導者となったギデオンは、彼らに厳しく対応します。7,9節。彼らの言葉や態度が、まさにギデオンたちの心には、いばらやとげとなって刺さったのでしょう。敵に勝利して帰るときには懲らしめることになります。14〜17節。
 これらの町に対する厳しい対応は、仕返しではないか、といぶかる人もいるでしょう。ギデオンとしては、後から参戦でもいい、文句を言ってもいい、少し助けるだけでもいいから一緒に立ち向かってほしいのです。助けないどころか、侮辱し、邪魔をしていたのは、敵と同じだと言っているのです。マタイ18:17。クリスチャンと言いながら、主の業を妨害し、救いや信仰の成長を妨げるなら、主に敵対していることにならないかということです。
 私たちが知らなければならないのは、私たちが事をなそうとする時、困難が伴い、反対があり、無視され、侮辱も受けます。当然助けてくれるはずだ、認めてくれるはずだ、と思う場面でつれない対応に出会うことは辛い悲しいことです。私たちは、報復するのではなく、主に委ねて、終わりまで忍耐して、なすべきことに最善を尽くすなら、神様の祝福があらわれます。イエス様の姿が私たちにそうするように教えておられます。Tペテロ2:19〜24節。そのような言動に出会っても、そんな人は主にお任せして、主にあって苦しみや悲しみに耐えるように、そのためにもイエス様が十字架にかかられたことを思い出しなさいと教えています。アーメンです。
 
V−最終的勝利−10〜21
 ギデオンは、心萎えさせる妨害に出会っても、くさることなく、揺さぶられることなく、敗走する敵軍を追い続けました。これは、神様がこの働きに召されたので、最後まで役割を忠実に果たし続けようとしているからです。追走は、地味な割に合わない、いや侮辱や苦痛を伴うものでしたが、小さな従順は、最後まで続けられ、神様もそれに応えてくださいました。10〜12節。最終的な勝利です。ここでも、理に適った戦術が勝利を導いています。飢え渇きながら、休まず追跡した結果、奇襲攻撃ができました。「東の天幕に住む人々の道」とは、遊牧民が使っていた秘密の道だったようです。だから、ミデアンの「陣営は油断していた」のです。
 何の対策もせずに、都合よく神様が一緒だからと言っても、勝てません。仕事でも学びでも、神様が一緒だからこそ、私たちは最善を尽くします。そこに神様の御力があらわれ、勝利できるのです。小さな従順小さな献身でも、イスラエルの民を敵の脅威から解放するという目標がはっきりしていたから、最後まで忠実にできました。あなたの与えられている目標は何ですか。
 終わりの所で、ミデアンの犠牲になった人々に言及しています。18〜19節。この戦いの最中に死んだ者ではなくて、ギデオンが神様の召しによって立ち上がる以前、ミデアン人の迫害によって犠牲となった一族のようです。その責任を敵将に問いました。彼らの犠牲の時には自分が立ち上がれなかったことが、これまで胸につかえていたのでしょう。まだ若い息子に処罰させようとしていますが、かつて自分が弱虫ギデオンだったのを忘れているようです。20〜21節。信仰が成長し、霊的に変えられたとしても、自分が弱い者、愚かな者、卑怯者であったことを忘れてはなりません。
 ギデオンは、終わりまで神様の召しに対して従順でした。そこに神様の力が現れました。途中で人々のプライドや妬みに乱されることなく、侮辱や中傷に揺さぶられず、飢えや渇きにも耐え、最後まで自分の召しと働きに忠実でした。私たちも、そのように信仰の道を進みたいのです。Tテモテ1:12。



士師記
8:1 そのとき、エフライム人はギデオンに言った。「あなたは、私たちに何ということをしたのですか。ミデヤン人と戦いに行ったとき、私たちに呼びかけなかったとは。」こうして彼らはギデオンを激しく責めた。
8:2 ギデオンは彼らに言った。「今、あなたがたのしたことに比べたら、私がいったい何をしたというのですか。アビエゼルのぶどうの収穫よりも、エフライムの取り残した実のほうが、よかったのではありませんか。
8:3 神はあなたがたの手にミデヤン人の首長オレブとゼエブを渡されました。あなたがたに比べたら、私に何ができたのでしょう。」ギデオンがこのことを話すと、そのとき彼らの怒りは和らいだ。
8:4 それからギデオンは、彼に従う三百人の人々とヨルダン川を渡った。彼らは疲れていたが、追撃を続けた。
8:5 彼はスコテの人々に言った。「どうか、私について来ている民にパンを下さい。彼らは疲れているが、私はミデヤン人の王ゼバフとツァルムナを追っているのです。」
8:6 すると、スコテのつかさたちは言った。「ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのでしょうか。私たちがあなたの軍団にパンを与えなければならないなどとは。」
8:7 そこでギデオンは言った。「そういうことなら、【主】が私の手にゼバフとツァルムナを渡されるとき、私は荒野のいばらやとげで、あなたがたを踏みつけてやる。」
8:8 ギデオンはそこからペヌエルに上って行き、同じように彼らに言った。すると、ペヌエルの人々もスコテの人々が答えたように彼に答えた。
8:9 それでギデオンはまたペヌエルの人々に言った。「私が無事に帰って来たら、このやぐらをたたきこわしてやる。」
8:10 ゼバフとツァルムナはカルコルにいたが、約一万五千からなるその陣営の者も彼らといっしょにいた。これは東の人々の陣営全体のうち生き残った者のすべてであった。剣を使う者十二万人が、すでに倒されていたからである。
8:11 そこでギデオンは、ノバフとヨグボハの東の天幕に住む人々の道に沿って上って行き、陣営を打った。陣営は油断していた。
8:12 ゼバフとツァルムナは逃げたが、ギデオンは彼らを追って、ミデヤンのふたりの王ゼバフとツァルムナを捕らえ、その全陣営をろうばいさせた。
8:13 それから、ヨアシュの子ギデオンは、ヘレスの坂道を通って戦いから帰って来た。
8:14 そのとき、彼はスコテの人々の中からひとりの若者を捕らえ、尋問した。すると、彼はギデオンのために、スコテのつかさたちと七十七人の長老たちの名を書いた。
8:15 そこで、ギデオンはスコテの人々のところに行って、言った。「あなたがたが、『ゼバフとツァルムナの手首を、今、あなたは手にしているのか。私たちがあなたに従う疲れた人たちにパンを与えなければならないなどとは』と言って、私をそしったそのゼバフとツァルムナが、ここにいる。」
8:16 そしてギデオンは、その町の長老たちを捕らえ、また荒野のいばらや、とげを取って、それでスコテの人々に思い知らせた。
8:17 また彼はペヌエルのやぐらをたたきこわして、町の人々を殺した。
8:18 それから、ギデオンはゼバフとツァルムナに言った。「おまえたちがタボルで殺した人たちは、どこにいるのか。」すると彼らは答えた。「あの人たちは、あなたのような人でした。どの人も王の子たちに似ていました。」
8:19 ギデオンは言った。「彼らは私の兄弟、私の母の息子たちだ。【主】は生きておられる。おまえたちが彼らを生かしておいてくれたなら、私はおまえたちを殺しはしないのだが。」
8:20 そしてギデオンは自分の長男エテルに「立って、彼らを殺しなさい」と言ったが、その若者は自分の剣を抜かなかった。彼はまだ若かったので、恐ろしかったからである。
8:21 そこで、ゼバフとツァルムナは言った。「立って、あなたが私たちに撃ちかかりなさい。人の勇気はそれぞれ違うのですから。」すると、ギデオンは立って、ゼバフとツァルムナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった三日月形の飾りを取った。



箴言15:1 柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。
15:2 知恵のある者の舌は知識をよく用い、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。

マタイ26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

Tテモテ2:8 ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。

マタイ18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

Tペテロ2:19 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。
2:20 罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。
2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。

2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

Tテモテ1:12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

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