2014年6月29日「野望と願い」士師記9:1〜21

序−イエス様に救われて、クリスチャンとなるということは、罪赦されて、新しい命に生きることになるので、その考え方、生き方が霊的に変わります。肉の思いの姿と御霊の思いの姿をそばめの子アビメレクとギデオンの末っ子ヨタムが見せてくれます。私たちを自省に導いてくれます。

T−憎しみと野望の果てに−1〜6
 ギデオンは政略結婚などにより、多くの妻と子どもを持ちました。そのことによって、とんでもない惨劇が生じることになります。1〜2節。息子が70人もいた、大勢の妻を持っていたこと自体、酷い状態ですが、ほかに一人そばめがおり、その息子が兄弟たち全員を惨殺することになります。おそらく彼の母は、その息子にアビメレク(私の父は王である)という名を付け、彼の心に野望を持つように育てたのでしょう。そばめという屈折した思い、妻たちへの妬み、虐げられた憎しみなどが、息子を用いて仕返しとして、王とならせようとしたのです。虐げや差別が妬みや憎しみを生じさせ、報復や争いに向かわせます。これが世の罪の姿です。
 アビメレクの母は、シェケムにいたカナン人でした。だから、妻にはなれなかったのでしょう。それゆえに、アビメレクも、兄弟たちからのけ者にされ、いじめられたことでしょう。父の財産を相続することや地位を受け継ぐことでも、差別を受けたことでしょう。それで、アビメレク自身も、怒りや憎しみを抱えながら、育ったのです。彼の心にも、憎しみや妬みのゆえに野望が膨らみ、ついに決行の時が訪れました。憎しみは争いを引き起こします。箴言10:12。
 彼は、父ギデオンが死ぬと、母の町シェケムを訪ねました。シェケムの人々は、ほとんどがイスラエルに同化していたカナン人でした。そこで、彼は町の人々に自分はあなた方の同族だと言って、味方をするように扇動します。アビエゼルは、この時のイスラエルの事情をよく知って利用しています。イスラエルの信仰が退廃し、酷い状態になっていました。イスラエルが信仰的な状態ならば、アビエゼルが王になろうと考えることすら、不可能です。クリスチャンにとって問題が起こるのは、出来事そのものではなく、クリスチャン自身の信仰状態がよくない場合、出来事が問題化するのです。そこで、アビメレクは、兄弟たちに対する憎しみとシェケムのイスラエルに対する敵対心を利用して、兄弟たちを殺して、王となろうと野望を抱いたのです。
 シェケムの人々も、アビメレクの言葉を聞いて、乗り気になりました。3〜4節。信仰の火か消えかかっているイスラエルは、何ほどもないと知っているからです。元々異邦人であった彼らは、イスラエルのくびきから抜け出して、力を持ちたかったのです。イスラエルの干渉を廃して、自分たち自身が治める自分たちの国を作りたかったはずです。そこで、自分たちの偶像の宮にあった金を軍資金としてアビメレクにあげました。アビメレクは、それでもって悪者たちを雇い、ヨタム以外の兄弟たちを殺し、シェケムとベテ・ミロの王となりました。5〜6節。王と言っても、一部の地域を支配するくらいだったようです。

U−私の願い、使命を果たす満足と喜び−7〜15
 ギデオンの息子の中の末子ヨタムだけは、アビメレクの惨殺を逃れることができました。兄弟たちが殺されて、アビメレクが王となったということを聞いた時、彼は、そのまま逃亡しないで、この状況を信仰的な目で見て、一つの比喩でもって、シェケムの人々の過ちを指摘しています。7節。彼はシェケムの人々を憎みもせず、罵ってもいません。健全な信仰者としての姿、信仰による言葉があらわれています。
 彼らが良く分からないでアビメレクに加担しているが、悟って改めるなら、神様の祝福受けられると言っています。このような王権争いは異邦人の世界では普通のことだと思っています。大変な罪だということが分かっていませんでした。エペソ2:1〜3。罪だと知らなかった私たちも、聖書によって罪を知り、イエス様の十字架を信じて救われました。エペソ2:4〜5。ヨタムは、過ちを指摘して、愚かな町の人々を目覚めさせようとしています。
 ヨタムの言ったことは、優れた寓話です。8節。木々は、まずこの地方の代表的な木であるオリーブの木を訪ねて、私たちの王となってくださいと言います。ところが、オリーブの木は、自分が作る油は、食用にされたり、ともし火に用いられたり、薬として使われたりしているのに、使い道のない王なんかにならないよと言って、断ります。9節。本当に自分の価値を知り、使命を知っている人は、野望など必要ないということです。
 それで、次にイチヂクの木に王となるように頼むと、同じく断ります。10〜11節。無花果、イチジクの命は、その実にあります。甘い実をつけるために熱中しなければならないので、王になる余裕はないと言います。次に木々は、ブドウの木に頼みます。その答えも同じです。12〜13節。とりわけブドウは、世界中で作られ、多くの人々に恵みを与えている重要な果物です。だから、まったく王にはならないというのです。クリスチャンにとって、神様からの使命を成し遂げることが一番の願いです。ヨハネ4:34。
 ここで私たちが学ぶことは、神の民はその召しに相応しく生きること、信仰の実を結ぶことを勤勉にすればいいということです。私たちはそれぞれ、主婦として職業人として学生として、人生において果たすべき使命があります。私たちは、神様のみこころをなすことが一番の願いです。詩篇40:8。他の野望など必要はないということです。神の栄光をあらわし、人々に仕えることができれば、本望だということです。使徒20:24。
 私たちは、イエス様を信じたことで内なる人が変えられ、霊的に成長して、神様に用いられて行くことになります。それが、信仰の実を結ぶことであり、世に生かされている価値があります。人々は、宝石のような自分の価値を知らないと、様々なものを欲しがり、妬み、野望を抱きます。自分のなすべきことさえしないで、欲と野望だけ膨ませます。しかし、イエス様の救いの恵みと神様の愛と御言葉によって造り変えられた私たちは、最高の宝、実です。私たちを通して神様の祝福があらわれます。
 ついに木々は、イバラに王となってくれと頼みます。イバラは承諾するだけでなく、自分の言うことを聞かない木は燃えてしまうぞと脅かします。14〜15節。イバラは、とげでもって他の木を刺します。自分の価値が分からないので、高くなろうとし、最も高いレバノン杉を燃やそうとします。イバラはアビメレクを指しているようです。
 イバラも、ぶどう園やオリーブ園の垣根として用いられ、小さい実もあります。薬にもされるそうです。でも、イバラはそんなことは眼中になく、ただ人生の目的は杉に取って代わることです。神の民はすべて、自分の実を結ぶことができます。イエス様十字架の信仰で生きたという実です。じつは、私たちもはじめはイバラです。トゲトゲだらけの自分が人を痛めつけても分からなくて、認めてくれないと怒り、野望を抱くのです。ただ神様がイエス様の救いのゆえに、恵みによって造り変えられ、それぞれにふさわしく神様に用いられ、人々に仕える生き方に導かれます。Tペテ4:11。

V−イエス様の模範−16〜21
 世の人々には、神の民が憎しみや野望を抱かず、自分のことで満足し、仕える姿が愚かに見えるかも知れません。それは、神様の恵みで変えられたからです。神の民が神様の御前で憎しみと野望を捨てる時、神様の祝福が注がれ始めます。ヨタムは、寓話の後、直接語りかけます。16〜20節。父ギデオンの命をかけたミデアン戦争で、シェケムの人々こそ恩恵を受けた人々です。その恵みを受けたはずのシェケムの人々が、アビメレクに騙されて、こんなことをしていていいのか、悔い改めなければ、やがて互いに肉の思いをぶつけ合って滅びてしまうぞというのです。
 彼等は、恵みを忘れて、アビメレクのそそのかしに乗って世の罪の価値観に陥ってしまいました。イスラエルが神様の御言葉の統治を受けていた時には、神様の恵みがシェケムにまで及んでいました。私たちが、御言葉に聞き従って生きるなら、乗り越えられない苦難はありません。神様の統治があるからです。肉の欲と野望で進んで行くならば、どんなに熱心でも、困難を克服できなくて、倒れるようになります。神様の統治を拒むならば、祝福を受けられず、怒りや憎しみの問題が解決されません。人が怒りを爆発させる時、他の人に危害が及びます。サタンは人々の怒りを刺激して大きくさせ、憎しみをあおって増大させます。互いに攻撃し合い、結局滅ぶことになります。アビメレクもシェケムもそうだというのです。
 イエス様が私の代わりに苦しみを受け、主の打ち傷によって癒された私たちは、もう人を怒り、憎む必要はありません。神様に背いて自分の思うままに生きるのは、賢いように思われますが、愚かです。むしろ、自分の考えと感情を神様に委ねて、主の御心に忠実な方が、はるかに知恵ある人生となります。ヨタムは、知恵と信仰をもった人でした。人々を集めて、報復の戦いをすることはしませんでした。まして、アビメレクと王権を競うこともしませんでした。彼は、シェケムの人々を恨んだり、ののしったりすることなく、信仰的な教訓を与えただけで、後は神様に委ねました。これが、イエス様を通して私たちに示されている生き方です。主の十字架によって救われた私たちは、変えられました。イエス様の模範に従って、信仰の生涯を歩みます。Tペテロ2:21〜25。



士師
9:1 さて、エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。
9:2 「どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアルの息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」
9:3 アビメレクの母の身内の者たちが、彼に代わって、これらのことをみな、シェケムのすべての者に言って聞かせたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは「彼は私たちの身内の者だ」と思ったからである。
9:4 彼らはバアル・ベリテの宮から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、ごろつきの、ずうずうしい者たちを雇った。彼らはアビメレクのあとについた。
9:5 それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。
9:6 それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。
9:7 このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んで言った。「シェケムの者たち。私に聞け。そうすれば神はあなたがたに聞いてくださろう。
9:8 木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』
9:9 すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
9:10 ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
9:11 しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
9:12 それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』
9:13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』
9:14 そこで、すべての木がいばらに言った。『来て、私たちの王となってください。』
9:15 すると、いばらは木々に言った。『もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。』
9:16 今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。
9:17 私の父は、あなたがたのために戦い、自分のいのちをかけて、あなたがたをミデヤン人の手から助け出したのだ。
9:18 あなたがたは、きょう、私の父の家にそむいて立ち上がり、その息子たち七十人を、一つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクをあなたがたの身内の者だからというので、シェケムの者たちの王として立てた。
9:19 もしあなたがたが、きょう、エルバアルと、その家族とにまことと真心をもって行動したのなら、あなたがたはアビメレクを喜び、彼もまた、あなたがたを喜ぶがよい。
9:20 そうでなかったなら、アビメレクから火が出て、シェケムとベテ・ミロの者たちを食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの者たちから火が出て、アビメレクを食い尽くそう。」
9:21 それから、ヨタムは逃げ去り、ベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。



箴言10:12 憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。

エペソ2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

ヨハネ4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

詩篇40:8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

Tペテ4:11 語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

Tペテロ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
2:25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。

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