2014年7月13日「見るに忍びなくなった」士師記10:1〜18

序−私たちイエス様を信じて救われた者は、いったいどういう存在なのでしょうか。どのような信仰生活をすることができるのでしょうか。イスラエルの民の姿を通して、自らの信仰を省み、改めて、救いの素晴しさ、神様の愛を確かめ、自分の思いでなく、確かな信仰に日々生きたいのです。

T−士師体制の回復−1〜4
 アビメレクが死んだ後、再び士師体制が始まります。1〜2節。これは、再びイスラエルが御言葉で治められることになったということです。神様の御言葉で治められるということは、何でしょう。それは、聖徒たちに御言葉が教えられ、聞き従っているということです。そうすれば、恵みを受け、力を受けて、信仰で仕えて行くことができます。信仰が成長し、成熟していきます。神様が二人の人を士師として立ててくださいました。
 トラについては、アビメレクの後士師として23年間さばいたと記録されているだけです。デボラやギデオンについてとても詳しく記録されていましたが、それで、デボラやギデオンを大士師と言い、トラのような記録の少ない人を小士師と言う言い方があります。大士師と呼ばれる人々は、イスラエルの大きな危機の時、神様に用いられて、大きな働きをしました。私たちは、取るに足りない弱い者も、神様に用いられたから活躍できたことを学びました。強くなったから用いられたのではありません。
 トラについては、ただ「イスラエルを救うために立ち上がり、23年間さばいて、死んだ」というだけです。これを見ると、トラは、大士師と呼ばれるような人々のように、危機の時に大きなことをしたわけではなかったようです。しかし、アビメレクの野望の結果、混乱した地に平安を回復させた働きは、大切です。いつも真理の灯を消すことなく、持続的に信仰を証ししている地味な働きも重要です。私たちが、世の仕事や責任について、平凡な働きだから十分やっていない、目立たないからたいしたことはないと考えるのは、思い違いをしています。
 次のヤイルは、息子たちをよく用いた士師です。3~4節。他の士師は、一人であちこち動きまわりながら、裁判をしたり、御言葉を教えたりしましたが、ヤイルは、息子たちにロバを与えて効率的に活動させました。そのようにして統治された地が、ハボテ・ヤイルと呼ばれていたとあります。それは、「ヤイルの居住地」という意味です。ヤイル一人の三十倍の効果あったということです。一人ですべてやるのではなく、共にする小さな信仰の働きが大きなものとなります。教会の奉仕も、世の働きもそうです。
 こうして、トラとヤイルという二人の士師によって、アビメレクによって受けたイスラエルの傷は癒されました。ところが、このようにイスラエルが政治的に安定すると、また信仰的には後退してしまいます。

U−イスラエルの持病−6〜10
 あの負の無限ループです。平安が続くと、民は「主の前に悪を行い」、神様の御怒りによって外敵の攻撃や圧制に会います。そうすると、神様に助けを叫び、神様は士師を立てて、民を助けてくだいさます。トラとヤイルの統治が終わると、その無限ループが始まります。6節。「主の目の前に重ねて悪を行い」、多くの偶像に仕えました。周辺国家のすべての偶像を引き入れています。
 神様が偶像に仕えるなと命じておられるのに、なぜこうなるのでしょうか。そもそも偶像とは、他の民族の生活と大きく関わっているからです。民が周りの民と商取引をし、交わりを持つと、偶像が入り込んで来るのです。これは、今日的な問題です。しっかり神様を礼拝し、御言葉に聞き従いながら生きることがないと、イスラエルの民の姿は他人事ではありません。現代は、木や石に刻んだ偶像というより、世の人々の価値観、考え方という見えない偶像があり、人の認定や業績さえ偶像になります。
 問題は、偶像があるからではありません。「彼らは主を捨て、主に仕えなかった」ということが問題の源でした。偶像信仰が主張するのは何でしょう。「何でもしたいことをしろ」ということです。罪でも何でも思うがままにしていいというのですから、罪の性質には大変好ましいのです。それで、世は罪と欲の渦巻く世界となります。私たちが神様の恵みと御言葉に捕らえられる前は、あまりにも世の価値観と習慣、成功哲学や自己実現、人々の称賛や評価などに囚われ、心が神様から離れてしまうのです。こうして主の御前に出て、省みることが必要です。
 不思議なことに、欲のままにしたところで、少しも人生はよくならないし、満足も得られないのです。心は虚しくなり、悲惨な生活となります。7〜9節。第二段階です。結局、偶像礼拝に陥った民は、神の御怒りを受け、他の民族の手に渡されてしまいます。「売り渡された」というのは、まったく価値がなくて安値で売られるという意味です。神様の御心から離れ、偶像礼拝に陥ってしまった民は、神の民としての価値がまったくないからです。イエス様に救われた私たちは、御言葉に聞き従ってこそ「高価で尊い」存在であり、主に拠り頼んでこそ「弱くても用いられる土の器」なのです。イザヤ43:4,Uコリント4:7。

V−神様の決断−11〜18
 無限ループの三段階目は、神様に助けを求めて叫ぶことです。でも、この時の民の叫びは、同じ繰り返しではありません。10節。これは、驚くべき悔い改めです。これまでは外敵が攻めて来て、苦しめられると、ただ助けを「主に叫び求めた」だけでした。3:9,3:15,4:3,6:6。何と、ここでは「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」と罪を告白しています。
 ところが、それなのに、この祈りに御顔を背け、神様は彼らの叫びを拒否しています。11〜14節。これまでは、ただ、助けてと叫び求めれば救ってくださったのに、今度は神様に立ち返って、悔い改め、罪を告白しているのです。神様の望まれたことをしたのに、「わたしは救わない。あなたがたが選んだ偶像に叫べ」と拒みました。神様も堪忍袋の緒が切れたのでしょうか。何度も失敗するので、ついに見捨てられたのでしょうか。本当に神様を捨てて偶像に頼れと言っておられるのでしょうか。
 決してそんなことはありません。神様は、民の霊的持病が治ることを願い、今回こそ真実に悔い改めることを願って、このような態度を取られたのです。まず、神様はこれまでのことに言及されました。出エジプト以来色々な民族から救い出してくださいました。カナンに定住後も、ペリシテ人の手からシャムガルによって、シドン人シセラの手からはデボラによって、マオンすなわちミデアン人の手からはギデオンによって、イスラエルを救ってくださいました。ところが、民はこれらを体験しながら、その後では相変わらず偶像礼拝に陥って、罪を犯す生活をしていました。救いを経験しながら、何も変わらなかったのです。
 そして、平安の時には、神様の恵みを忘れてしまい、困難が近付けば、涙を流して叫んだのです。誰だって苦しい時は何にでもすがり、助けを叫びます。それだけなら、ご利益信仰も同じです。本当に、主なる神を信頼しているのか、委ねて従おうとしているのかが問題なのです。私たちも、主に委ねているのか、苦しい時の神頼みに過ぎないのではないかと。
 苦しい時の神頼みは、助けを叫ぶだけです。助けてもらえば、元に戻るだけです。この無限ループから抜け出すためには、徹底して神様に信頼して自分を委ね、ただ罪を悔い改めるほかありません。この時の民は、落胆しないで、悔い改めて、自分を委ねて、御前に出て来ました。15〜16節前半。助けないと言われても、主の御前から退かず、「この罪人を如何様にもしてください」我と我が身を差し出し、偶像も取り去りました。本当に主に拠り頼み、自分を委ねました。本当の悔い改めです。
 神様に信頼する者は、思うようにならなくても、神様が拒否されてとか見捨てられたとは受け取りません。願いや求めが拒まれたと思えても、祈りの場から離れません。一週間何があったとしても、礼拝の場に出て来ます。民は、どのようにされてもかまいません。ただどうか罪を赦して、あわれんでください、と懇願したのです。私たちも、困難な時、助けてください、こうしてくださいと祈るだけではなく、このような真実の悔い改めと信頼の叫びを祈りたいのです。
 このような民の粘り強い信頼と悔い改めに対する神様の反応は、どうでしょう。16節後半。「苦しみを見るに忍びなくなった」というのです。「あわれまずにはいられない」ということです。エレミヤ31:20。神様の深いあわれみに感動し、涙が出ます。ご自分の民に対する神の恵み、慈愛が戻りました。救いの契約のゆえに、ご自分の民をあわれんで省みてくださいました。詩篇106:43〜45。罪に対して厳しい神様ですが、子どもの悲痛を耐えられない親のようにあわれんでくださったのです。この神様のあわれみの極致が、イエス様の十字架による救いです。
 民に対する救いはずっと続けられていました。神様の愛と哀れみは変わりません。ローマ11:29, ヘブル13:8。神様は、放蕩息子の父親のように、真実の悔い改めを待っておられ、喜ばれました。私たちもそうしたいと、神様に向けて正しい決定をしさえすれば、神様はすでに私たちをあわれに思われ、私たちに恵みをくだし、助けと癒しをくだし始められます。私たちに救い主イエス様をくださったのですから、哀れみにすがります。ローマ8:32。



士師
10:1 さて、アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んだ。
10:2 彼は、二十三年間、イスラエルをさばいて後、死んでシャミルに葬られた。
10:3 彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間、イスラエルをさばいた。
10:4 彼には三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。
10:5 ヤイルは死んでカモンに葬られた。
10:6 またイスラエル人は、【主】の目の前に重ねて悪を行い、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは【主】を捨て、主に仕えなかった。
10:7 【主】の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。
10:8 それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しめた。
10:9 アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。
10:10 そのとき、イスラエル人は【主】に叫んで言った。「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」
10:11 すると、【主】はイスラエル人に仰せられた。「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。
10:12 シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。
10:13 しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。
10:14 行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」
10:15 すると、イスラエル人は【主】に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」
10:16 彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、【主】に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。
10:17 このころ、アモン人が呼び集められ、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。
10:18 ギルアデの民や、その首長たちは互いに言った。「アモン人と戦いを始める者はだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ。」



エレミヤ31:20 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】の御告げ──

詩篇106:43 主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計って、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。
106:44 それでも彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。
106:45 主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。

ローマ11:29 神の賜物と召命とは変わることがありません。

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

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