2014年7月27日「ひとり子の犠牲」士師記11:29〜40

序−信仰とは、神様の一方的なあわれみと救いの約束を信じて、恵みに応答することです。しかし、私たちは偶像とご利益信仰の世に住んでいるために、思い違いをしてしまうことがあります。自分が何か誓えば願い通りになる、何か特別のことを約束しなければ願いは叶わないという思いです。エフタの誤りを通して学びます。

T−エフタの恐れ、誤った誓願−28〜31
 ギルアデのかしらとしてアモン人との戦おうとする前に、エフタに二つのことが起こります。一つは、アモン人との戦いに際して、「主の霊がエフタの上に下った」ということです。29節。御霊に満たされて戦いに臨むようになったということです。エペソ5:18で、御霊に満たされる必要が命じられています。ここで「酒に酔ってはいけません」と「御霊に満たされなさい」が対比されています。酒を飲まなくても、御霊に満たされるならば、心は平安になり、喜びに満たされるからです。
 御霊が臨むということは、御言葉を聞いたり祈ったりしながら、心が熱くなり、信仰が覚醒し、恵みを受ける体験することです。神様が一緒だという約束を確信するからです。私たちは弱くて、足りない者です。どうやって困難を克服できるのでしょうか。弱さや足りなさを嘆いたり、じたばたすることではなく、神様に祈って、自分にできることは最善を尽くして、神様が導いてくださると信じて事を行うことです。
 士師たちも、このような信仰で戦いに臨みました。先のことが分かっているわけではなく、普通の人と変わらない人たちですが、神様を信頼して、信仰で最善を尽くすところに神様の御力があらわれます。私たちも他の人と同じように悩んだり、恐れたりしますが、聖霊の満たしと神様の約束を信じて最善を尽くして行く時、勝利することができます。救い主イエス様が十字架によって勝利してくださっておられるからです。ヨハネ16:33。
 ところが、アモン人との戦いに際して、エフタは不安や恐れのために誓願を行っています。これが後にエフタに悲しみをもたらすことになります。30~31節。神様の霊が降ったのだから、ただ御言葉を信じて、神様が一緒だと確信して戦えばいいのに不安のためにある条件を付けた願いをしたのです。なぜでしょう。生の自分と現実を見つめてしまったからです。自分と一緒にいる者は「価値のない者、役に立たない者」と見られている者、自分自身もギルアデから追い出されたような者だ、民がついてくるだろうか、こんな兵力でアモン人に勝てるのだろうかなどと言う思いがどんどん浮かんで来たのです。
 私たちにも、このようなことしばしば起こります。エフタの失敗から学ばなければなりません。彼は、不安から信仰で考えるのではなく肉の思いで考え、何か特別な約束をしなければ、勝利は与えられないと考えたのです。それで、戦いに勝利して帰ることができたなら、最初に家から出て来たものを神様にささげますと誓願したのです。人は、苦しい時に、「もし、助けてくださるなら〜します」という取引の祈りをしがちです。
 これは、そもそも間違いから出発しています。神様が望まれるのは、いけにえでなく、砕かれた、悔いた心です。主の御声に聞き従うことを神様は何よりも喜ばれます。Tサムエル15:22,詩篇51:16〜17。神の民が主の御声に聞き従い、主の契約を守るなら、神様は祝福して、助けてくださると約束してくださっておられます。出エジプト19:5。イエス様を信じる私たちは、イエス様の救いのゆえに、神様の守りと祝福を受ける者とされています。ただ約束を信じて、御言葉に聞き従うのです。エフタも、ただ神様の召しを信じて、戦いに出ればよかったのです。

U−愚かな誓願の結果−32〜35
 そもそも、誓願とは、感謝の一種です。神の民が恵みを受けて、とても感謝をした時、その恵みを忘れないで、保持したいので、何か自分の一部分を放棄したり、犠牲を甘受したりすることです。ところが、誓願を間違って考えると、ある条件付き祈りで取引をするようになります。「こうこうしてくださったら、これをささげます。あれを止めます」というようなことです。そして、試みに陥ることになります。箴言20:24〜25。
 誓願祈祷の代表例は、サムエルのお母さんハンナの祈りでしょう。ハンナは、子どもが生まれないので、酷く痛んで誓願の祈りをしました。「男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」という祈りです。Tサムエル1:11。私たちは、未来を担保にして、祈りをしたり、約束をしたりするのは間違いです。未来を私たちはどうすることもできません。神様の領分です。ただ与えられた恵みに感謝して、恵みに応えて何かをすることができます。
 誓願の祈りをした場合、祈りの応答があらわれた時、約束を果たすことが問われます。ハンナの場合は、喜んでサムエルを主の宮にささげ、幼いサムエルは主の宮に仕えることになり、後に有名な預言者になります。Tサムエル1:17〜28。しかし、エフタは悲しい結末を迎えることになります。
 イエス様は、私たちの必要のすべてを神様はご存知だと言われました。父なる神様は、子どもに良いものをくださることを喜ばれます。私たちが誓願などしなくても、神様は子とされた私たちに恵みをくださり、困難から救い出してくださいます。マタイ7:11。神様はすでにエフタを通してギルアデの民を救おうとされるからこそ、エフタの召し出されたはずです。その神様の約束を信じて、戦えばよかったのです。マタイ5:36〜37。
 さあ、エフタは、アモン人との戦いで勝利することができました。32〜33節。ギルアデを守るどころか、大勝利です。エフタが誓願したからではありません。神様がエフタを通して民を救うという約束を果たされたのです。私たちは、神様の恵みに応えて事を行います。私たちが立派だから救われたのですか。神様が救おうとされたから、救われたのです。神様が恵もうとされるなら、私たちの姿に関係なく恵んでくださいます。ですから、何かなすことができた時、私たちは謙遜にならなければなりません。
 エフタが勝利して家に帰って来た時、何と彼のひとり娘が「踊りながら迎えに出て来」たではありませんか。34節。エフタは、誓ったことを忘れていたかもしれません。ところが、一番先にエフタを迎え出たのは、愛するひとり子、かわいいわが娘でした。お父さんの勝利を伝え聞いて、誰よりも先に祝福しようとしたのは、当然のことです。家族に家を追われた生い立ちのエフタにとって、最愛のひとりっ子でした。そのひとり娘をささげなければならないなんて、痛恨の極みです。35節。軽はずみな誓願をしたことが思い出され、愕然としました。このエフタの悲しみは、間違った誓願、取引の祈りをしてはいけないということを私たちに教えています。

V−ひとり娘の申し出−36〜40
 誓願を娘にいいながら、エフタは痛みます。ところが、エフタの娘は、驚くべき信仰の持ち主でした。信仰によって父に言います。36〜37節。父親の誓いをそのまま自分にしてくださいというのです。自分を神の宮にささげていいというのです。宮に生涯仕えるということは結婚しないことなので、友達とそのこと悲しませてくださいと頼みました。「ひとり子であって、ほかに男の子も女の子もなかった」と強調されている、そのひとり娘にそう言われればなおのこと、エフタは辛くなったことでしょう。
 言わば、エフタの娘は、ギルアデの勝利の犠牲になったようなものです。39〜40節。エフタの娘のために嘆きの歌がしきたりとなりました。「誓願どおりに彼女に行った」というのを、動物のいけにえと同じく考える人たちもいますが、主の宮に法的にささげたようです。だからこそ、処女であることが強調されています。神様は、偶像崇拝者がする人のいけにえを忌み嫌われます。似た出来事であるアブラハムの子イサクを生贄にささげることも、神様への信頼の試みであって、実際には行われません。エフタは批判されていませんし、信仰に生きた偉大な人のリストにも入っています。ヘブル11:32。娘は生涯主の宮に仕えたということでしょう。
 犠牲の件を論するより、大事なことに目を向けましょう。ひとり子のために嘆く父親、民のための犠牲となるひとり子、父の心のとおりにしてくださいというひとり子。私たちは、事実ひとり子を私たちのために犠牲にされた方を知っています。ヨハネ3:16。私たちの罪と滅びをあわれまれた神様、そのためにひとり子イエス様を犠牲にされた神様です。「お口に出されたとおりのことを私にしてください」と言って、逃れることもせず、戻って来たエフタの娘は、十字架を覚悟した苦しみの中で、私たちの救いのために「みこころとおりにしてください」と祈られたイエス様を思い出させます。マタイ26:37〜39,42。確かに、この箇所は救い主を示しています。
 私たちには、この絶対恩寵があります。苦しくても、切羽詰っても取引の誓願はしなくていいのです。私たちのすべきことは、ただこのイエス様の救いの恵みにすがること、ただ恵みに応えて主に従うことです。私たちは決してイエス様の犠牲を忘れてなりません。ギルアデの人々がエフタの娘の犠牲を覚えて歌ったように、私たちもイエス様の救いを覚えて賛美をささげます。アモン人の圧制からの解放を感謝したように、私たちは、罪と滅びから解放されたことを感謝します。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです」Tヨハネ4:9。



士師
11:29 【主】の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。
11:30 エフタは【主】に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、
11:31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を【主】のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」
11:32 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。【主】は彼らをエフタの手に渡された。
11:33 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。
11:34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。
11:35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は【主】に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」
11:36 すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは【主】に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。【主】があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」
11:37 そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」
11:38 エフタは、「行きなさい」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。
11:39 二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行った。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、
11:40 毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。



エペソ5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

詩篇51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

Tサムエル15:22 するとサムエルは言った。「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

Tサムエル1:11 そして誓願を立てて言った。「万軍の【主】よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を【主】におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
1:27 この子のために、私は祈ったのです。【主】は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。
1:28 それで私もまた、この子を【主】にお渡しいたします。この子は一生涯、【主】に渡されたものです。」こうして彼らはそこで【主】を礼拝した。

マタイ7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

マタイ5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
5:37 だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

マタイ26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Tヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

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