2014年8月3日「高慢と妬みの果てに」士師記12:1〜15

序−アモン人にようやく勝利したエプタとギルアデに対してエフライム族が難癖をつけて、戦いをしかけて来ました。なぜ、同胞のエフライムがギルアデにからんで来たのでしょうか。これは私たちにも、いつも揺さぶられる問題です。御言葉から主のメッセージを聞きましょう。

T−エフライムの貪欲−1〜3
 エフタは故郷に帰ることができて、ギルアデの人々と一緒に戦いに勝利することができました。他の同胞にとっても、喜ばしい勝利のはずです。敵を倒してくれた感謝すべきことです。しかし、エフライム族は、そうではありません。1節。何と、難癖をつけ、攻め込んで来たのです。エフライムがギルアデと戦う理由などあるのでしょうか。
 エフライムは、エジプトで宰相をしたヨセフの末裔です。カナンでも、イスラエルの中心に位置しています。自負と高慢に満ちていました。一方ギルアデ人は、約束の地以外の地に住む者としてエフライムから一段低く見られていました。アモン人戦争に勝った指導者エフタについても、出自はあやしい、逃亡生活をしていた者と見下しました。肉の性質としては、人は何か自負心を持ちたい、自分を人よりも高くしたいのです。それでもって、自分を保とうとするからです。そのために、人をさげすみ、あざけります。高慢な態度を取るのです。悲しい罪の姿です。私たちはどうでしょう。「プライドが許さない、傷ついた」と言っているならば、高慢の芽があります。イエス様は、高ぶる弟子たちに対して「かえって仕える者になりなさい」と命じておられます。救い主イエス様の姿が、まさに仕える者の姿でした。マタイ20:28。
 この高慢がもう一つの罪の性質を誘発します。エフライムの相続地は広く、カナンの中心に位置するとは言え、山の多い地域です。一方、ギルアデは、広く平坦な牧草地です。それをうらやんで、自分たちこそあの地を手に入れるべきだと考えていました。そして、今ギルアデがアモン人に勝って、アモン人の地も征服しました。アモン人の圧制下にあれば同情もするが、自分たちよりも良くなると、妬みの思いが燃え上がったのです。そして、嫉妬の炎を燃やし、家を燃やすぞと脅すのでした。
 ねたみ、嫉妬、悋気、うらやみ、人の肉の思いから出て来ます。自分と違うものを持っている、自分にはなれない状態にある人に対して持つ思いです。酷い状態なら同情しても、自分よりのいい、自分にはないものを持っていると羨み、妬むのです。妬みという罪の性質は、怒りも悪意も悪口も生じさせます。Tテモテ6:4。私たちはどうでしょう。人がほめられる時素直に喜べないなら、人の幸せを見て何か気に入らないなら、ねたみが生じています。人はすべてそれぞれに与えられた幸福があり、それに満足しなければなりません。ヘブル13:5。その理由は、神様が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と約束されたからです。
 私たちは、人の勝手な言い分にすぐに憤慨してはなりません。ギルアデに攻め入って来たエフライムに対して、エフタは、丁寧にエフライムの主張が間違っていることを指摘して、戦いを回避しようとしています。2〜3節。それも、勝利を威張ることなく、「主は彼らを私の手に渡された」と言っています。ギルアデがアモン人に苦しめられていた時、エフライムは助けてくれませんでした。アモンとの戦う時も、エフタが呼び集めましたが、助けてくれませんでした。彼らの主張は間違っています。
 「なぜ、私たちに呼びかけずに、アモン人と戦ったのか」と文句を言っていますが、それは口実にすぎません。彼らの本音はギルアデの地の支配です。妬みは人を貪欲にさせます。「ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」と言うくらいです。箴言27:4。貪欲な彼らは、軍隊と言葉で脅かして、ギルアデを手に入れようとしました。人の幸いをねたみ、羨むことは、罪を生じます。貪欲、欲心は邪悪な罪です。Tコリント6:10。イエス様も「貪欲に注意しなさい」と言われました。ルカ12:15。

U−悪口が自分に返って来る−4〜6
 もとより、エフタに誤りを指摘されて引き返すエフライムではありません。已むを得ずエフタとギルアデの人たちは、自分たちを守るために、エフライムと戦うことになります。4節。高慢なエフライムは、エフタの丁寧な理を尽くした説得に応じませんでした。「アモン戦争に呼びかけなかった」と言うのは、嘘だったからです。高慢なエフライムは、エフタとギルアデをさげすみ、「エフライムの逃亡者だ」と罵声を浴びせています。ギルアデはカナン本土からのはみ出し者、指導者エフタは逃亡していた者だとう悪口です。高慢と妬みは悪口を吐き出します。
 肉の心は、正論に対しては、かえって憤り、悪意のある言葉でののしります。私たちも、つい突っかかって悪いことばを吐き、あざけり、人の心を忖度しないでぞんざいな言い方をしていないでしょうか。エペソ4:31。していることを認めて、悔い改めたいと思います。肉の思いから発せられる言葉で、周りの人の心がどれほど傷つけられ、痛んでいることでしょうか。「悪いことばを口から出さず、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与える」ことができれば、幸いです。エペソ4:29。
 エフライム悪口が、エフライムに返って来ます。エフライムの追撃であらわれています。5~6節。ギルアデ人を「エフライムの逃亡者だ」(4)とさげすんでいたエフライム人自身が、「エフライムの逃亡者」(5)となっています。皮肉な姿です。悪を吐けば、自分に返って来るということです。詩篇94:23,109:17。ギルアデに攻め込んで来たエフライムは、同じイスラエル人なので、簡単に逃亡できると高を括っていました。ところが、言葉の違いで捕まることになります。シボレテとは「小川、流れ」の意味ですが、エフライム族は、「シボレテ」を「スィボレテ」と発音していました。それで、ヨルダン川の渡しの検問で捕まりました。
 結局、エフライムの貪欲の結果この惨状となりました。高慢とねたみの果てがこのような惨劇となりました。悪口を言うと、自分に返って来るという脳科学的理由があります。脳は自分が発した悪口を聞いて自分が攻撃されていると理解し、ストレスが溜まります。それで、脳が衰え、鈍くなります。悪口を聞いてくれた人にも悪影響を与えます。人間関係が悪くなり、自分の居場所を失います。育児にも悪影響を与えます。顔つきにも影響し、老けるそうです。結局自分に悪口を言っていることになります。
 人は、こんなエフライムの姿となっている自分に気付きせん。ですから、いつも客観的に自分を見て、高慢や妬みの思いになっていることに気付かなければなりません。Uコリント13:5。人をあざけり、悪口を言っていることに気が付かなければ、自分に悪口を言い、自分にストレスを与え、周りの人々に悪影響を与え続けることになります。

V−交わりと交流の広がりへ−8〜15
 この内乱から、イスラエルには部族間の関係や繋がりがあまりなかった、
争いを防止するために他の部族による調停とか介入というものがなかった、ということが観察できます。ギルアデという地域は、カナン本土から遠隔地にあるために、他の部族とあまり関わりや交わりがありませんでした。関わりがなければ、勝手な思い込み、独断や偏見も生じるでしょう。これは、ヨルダン川の東西に分かれる時から心配されていたことでした。ヨシュア記22:24〜31。失敗から学ばなければなりません。
 エフタの後の士師たちについては、事績がほとんど記されていませんが、注目すべきことが記されています。8〜9節。子どもの数は、彼の豊かさとその社会的地位をあらわしたものである。正確な数を表したものではありません。このベツレヘムはゼブルンのベツレヘムです。ヨシュア19:15。後に有名となるユダのベツレヘムとは別です。このベツレヘムの士師イブツァンの統治にどんな特徴がありますか。「彼は娘を自分の氏族以外の者にとつがせ、よそから娘たちをめとった」ということです。
 結婚によって他の氏族との関係や交わりが広がりました。士師の権威を保つために益となっただけでなく、それぞれの事情を把握し、違いを理解し、助け合うことができたでしょう。人は交わりがなければ、自分の思いに執着し、他の人の思いを忖度できなくなる危険が増します。私たちがしばしば学ぶように、初代教会の姿が教えているのは、「互いに〜し合う」ということでした。私たちが互いに交わり、互いに助け合い、互いに励まし合い、互いのために祈り、互いに戒め合うことが繰り返し出て来ます。
 聖書は、「いっしょに集まることをやめたりしないで、互いに励まし合う」ように勧めています。ヘブル10:25。私たちが共に集まって礼拝をささげ、セルなどで共に学び、分かち合うことはとても大切なことなのです。私たちの救い主イエス様は、低くなられて世に来られ、十字架の死ににまで従われました。ピリピ2:6〜8。それなのに、私たちがエフライムのようになって、高慢やねたみに駆られて、主の聖霊を悲しませてはなりません。私の罪のために主が十字架にかかられた、それで罪赦された私たちは、「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去り」たいのです。エペソ4:30〜31。



士師
12:1 エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。」
12:2 そこでエフタは彼らに言った。「かつて、私と私の民とがアモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたを呼び集めたが、あなたがたは私を彼らの手から救ってくれなかった。
12:3 あなたがたが私を救ってくれないことがわかったので、私は自分のいのちをかけてアモン人のところへ進んで行った。そのとき、【主】は彼らを私の手に渡された。なぜ、あなたがたは、きょう、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。」
12:4 そして、エフタはギルアデの人々をみな集めて、エフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これはエフライムが、「ギルアデ人よ。あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの逃亡者だ」と言ったからである。
12:5 ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が、「渡らせてくれ」と言うとき、ギルアデの人々はその者に、「あなたはエフライム人か」と尋ね、その者が「そうではない」と答えると、
12:6 その者に、「『シボレテ』と言え」と言い、その者が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その者をつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。そのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。
12:7 こうして、エフタはイスラエルを六年間、さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。
12:8 彼の後に、ベツレヘムの出のイブツァンがイスラエルをさばいた。
12:9 彼には三十人の息子がいた。また彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者にとつがせ、自分の息子たちのために、よそから三十人の娘たちをめとった。彼は七年間、イスラエルをさばいた。
12:10 イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。
12:11 彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間、イスラエルをさばいた。
12:12 ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地のアヤロンに葬られた。
12:13 彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。
12:14 彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間、イスラエルをさばいた。
12:15 ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地のピルアトンに葬られた。



マタイ20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

箴言27:4 憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう。

Tテモテ6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、

ヘブル13:5 金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

エペソ4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のた

めに、聖霊によって証印を押されているのです。

4:31 無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

詩篇64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。

Uコリント13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか──あなたがたがそれに不適格であれば別です。──

ヘブル10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

ピリピ2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

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