2014年9月14日「この一時でも」士師記16:18〜31

序−サムソンは、放蕩する乱暴者という印象を与えていますが、士師として用いられました。難があり、罪に陥り易いところがあっても、用いられるところがあるということを教えてくれます。罪のために何もかも失い、悲惨な状態になったサムソンですが、最も用いられ輝く時が来ます。

T−捕まえられたサムソン−18
 自分の力の秘密を教えてしまったサムソン、その内容はどういうものでしたか。17節。サムソンはナジル人の規定として髪の毛を切らないでいたのですが、そのために自分に神様の力があると思い、髪の毛を切らない限り、力はなくならないと考えていました。実際に、デリラによって髪の毛を切られてしまうと、彼から神様の力がなくなってしまいます。18~19節。
 でも、その怪力は長い髪から出て来るのでしょうか。そうではありません。彼の力は、神様から出たものです。ナジル人の規定は、髪の毛を切らないということの他に、お酒を飲まない、汚れた物を食べないということです。つまり、お酒や汚れたものを食べ、良くないことを考え、行うことがナジル人の規定から外れるので、ナジル人として神様からくだる力が与えられなくなるということです。私たちが信仰的でなくなれば、信仰による力は与えられなくなるということです。
 ですから、続けて神様の御力を得ようとするなら、サムソンは自分の髪の毛を信じるのではなく、神様を信じなければなりません。私たちも、自分の何かを信じるのではなく、神様の恵みを信じて事に取り組まなければなりません。これが、クリスチャンとしての祝福を維持する大切な方法です。私たちに救いの恵みがあるので、神様の祝福があります。祝福は救いの保証であり、プレゼントです。恵みに応答することなく、祝福だけつかもうとするなら、祝福は逃げてしまいます。
 サムソンが神様の御力を失わないようにしようとするなら、髪の毛に執着するのでなくて、神様の御言葉をつかんでいくことが必要でした。私たちは、何に執着していますか。執着しているものが、偶像になってしまいます。私たちが神様から与えられたことを感謝して、謙遜に用いることが必要なのに、それで高慢になったり、それに執着したりしてはなりません。結局、サムソンは、神様を信じないで、自分を信じたのです。
 私たちの危険もここにあります。到底自分の力ではない、自分の努力だけではないということが多くあります。私たちは、神様の御手にとらえられて用いられる栄光も姿もあり、愚かで弱い、罪も犯す利己的な肉の姿もあります。私たちに力を与えて、恵みを与えて、導いてくださるのは、神様だということを忘れてはなりません。私たちは、神様の道具です。神様の前に出ていれば、自分を絶対視したり、高慢になることはありません。
 いわば、サムソンの髪の毛は、彼が罪過ちを犯したにもかかわらず彼を見捨てないという神様の約束のしるしのようです。その約束をつかまないで、髪の毛に執着したので、悲惨な状態に落ちることになります。神様に従わなかったから、髪の毛を信じなければならなくなったのです。私たちは、神様が守ってくださらなければ、倒れるほかありません。

U−悲惨なサムソン−19〜22
 サムソンは、デリラが自分を裏切っていたとは気付きません。サムソンは愚かだと言わざるを得ません。19〜20節。あのように執拗にあからさまに秘密を聞いていたのに、悟ることができなかったのです。この時、人にたくさんの髪の毛が剃り落とされるのも気付かないほど眠っていました。デリラの膝枕で、酒か眠り薬を飲まされ、眠らされていたのです。まさに、罪に落ちて、神様の御力が去ってしまった姿です。彼が、神様の御言葉に聞き従うことをやめてしまったからです。
 この時サムソンは、人生のどん底に転がり落ちてしまいました。21節。サムソンは、何もかも失い、何もできない哀れな囚人の姿となりました。どうして一瞬にこんな状態になってしまったのでしょう。罪の結果落ちる時は、あっという間です。あまりにも惨めで、あまりにも情けなくて、あまりに苦しくてという思いです。誰一人助けてくれる者もなく、何もできず、絶望感に陥るだけでした。でも、このような惨めなどん底で、これまで見ることのなかった自分の姿を見るようになりました。そして、自分がどれほど傲慢であったか、神様を無視していたか、どれほど罪を犯して来たか、どれほど自分が無知であったか悟るようになりました。
 そして、何もかもなくなってはじめて、神様だけを思うようになりました。本当に私を助けてくれるのは神様だけだ、私が頼ることができるのは2
神様だけだと悟るようになりました。クリスチャンの驚くべき恵みは、これです。どんなに四方八方から責められ、取り囲まれても、神様に祈ることができます。悔い改めて、何もかも罪を御前に吐いてしまうならば、心の中が平安になります。詩篇18:6。
 そうして、サムソンに驚くべき変化が起こります。22節。髪の毛が伸び始めるなんて当たり前じゃないかと思うかもしれません。サムソンにとっては、髪の毛が力の象徴だったので、剃られて力がなくなって以来髪の毛はないままと思っていたのでしょう。目も見えないため、見てもいませんでした。ところが、ふと手を頭に置いた時気付いたのでしょう。もしかしたら、これが、神様が自分をあわれんでくださったしるしなのだろうかと思いました。うれしくなりました。ペリシテの牢の中でも神様の恵みが訪れました。ヨナ2:2。
 信仰が回復すれば髪の毛はどうでもいいのですが、サムソンには、これが分かり易いのです。髪の毛が再び伸びて来たことで、「ああ、私は完全に見捨てられたのはないのだな」と感じたのです。私たちにも、このように何か目に見えるもの、感じることのできるものを通して、神様のあわれみや導きを知ることができるようにされることがあります。神様は、サムソンの悔い改めを受けて、髪の毛が伸びることで再びサムソンに恵みを与える知らせとされました。私たちにとっての「髪の毛」は何でしょう

V−最期の輝き−23〜31
 一方、ペリシテ人は、策略をもってサムソンを捕らえ、牢につなぐことができて喜びました。そして、領主たちはじめ多くの人々が偶像の宮に集まっていけにえをささげ、大宴会を開きました。23〜24節。3千人もの人々が集まる大行事でした。どれほどペリシテ人がサムソンを恐れていたかが分かります。高慢になったペリシテ人は、何もできなくなった惨めなサムソンにもっと屈辱を与えようと、牢からサムソンを引き出し、宴会の見世物としました。25〜27節。サムソンは、ののしり、あざけりを一身に受け、何かの芸までさせられ辱めを受けました。サムソンは、自分に対するののしりは甘んじて受けました。自分の誤りから出たことだからです。「神様がこれまで私に話された時、聞きませんでした。主よ、あなたの愛とあわれみを斥けてしまいました」と独白したことでしょう。
 しかし、神様の御名が嘲られることは耐えることはできません。その時、サムソンは主に叫びました。28節。身勝手な祈りのように見えますが、「イスラエルと神様をののしるペリシテを懲らしめるためもう一度私を強めてください」という思いの祈りです。サムソンは、こんなふうに祈ってしまうのです。もうサムソンには、自分が生きるか死ぬかに関心はありませんでした。ただこの瞬間、最期にもう一度力をくださって、神様の栄光を回復させてください、と願いました。ただ「この一時でも、私を強めて」主を嘲るペリシテを倒させてください、と祈りました。
 神様は、サムソンの祈りに応えてくださいました。29〜30節。真実な信仰で最期の祈りをするサムソンに再び力を与えてくださいました。サムソンが神殿の太い柱を抱きかかえて「このしもべの死に行く命でもってペリシテ人を倒させてください」と祈り、引き倒すと、神殿全体が崩れて、人々の上に落ちました。これが、サムソンの最後の戦いでした。
 サムソンの生涯は、どん底で終わったのではありません。彼は、最期にイスラエルのためにこれまで全部よりももっと大きな働きをしました。彼は、自分の死を通して、イスラエルに大きな救いを与えました。彼の人生は、惨めな失敗で終わったのではありません。こうして、彼は、最期に神様の栄光をあらわし、士師として用いられ、輝きました。
 輝きは、それだけではありません。彼の最期の姿は、イエス様の姿を見せています。ペリシテ人からさげすまれ、苦しめられ、同胞からも尊ばれず、痛みを担い、その死のゆえにイスラエルの救いとなりました。イエス様の予表と同じです。イザヤ53:3〜6。彼は、これまで自分が尊い存在であることを悟らず、放蕩し罪に陥りましたが、人生のどん底で悔い改め、この時本当に神様の願われる姿に立ち返りました。
 祝福だけいただこうとすることはだめだと分かりました。自分自身を信仰してはいけないことをわきまえます。罪を軽んじるなら、祝福も栄光も失うのはあっという間ということを見ました。私たちが最期まで神様に聞き従って、神様に信頼して行くなら、祝福も力も最期まで一緒です。私たちも、弱さがあり、罪を犯し易い者です。自分の姿に気付かない者愚かな者です。でも、イエス様の十字架のゆえに神様に愛されている者です。主の前に立ち返り、悔い改めて、再び用いられ、輝きたいのです。人生の「この一時でも」信仰で輝ければ、崇高な幸いな人生となります。マタイ13:43。



士師
16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。
16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。
16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。
16:28 サムソンは【主】に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。



詩篇18:6 私は苦しみの中に【主】を呼び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。

詩篇50:15 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」

ヨナ2:2 言った。「私が苦しみの中から【主】にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。

イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

マタイ13:43 そのとき、正しい者たちは、彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

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