2014年9月21日「いつも神に感謝して」Tコリント1:1-9

序−コリントは、ローマ帝国の大都市の一つでした。その特徴は、富と享楽であり、哲学が盛んで議論好きでした。しかし、人々の心は腐敗しており、乱れていました。この手紙は、その影響の中で問題のあった教会に書かれていますが、これを読む私たちにも、書かれています。2節。

T−問安−1〜3
 この使徒パウロの書いた手紙は、問題のある、パウロを悪く言う者さえいるコリントの教会にあてて書かれたのですが、「争いのある問題教会」とでも記されているのでしょうか。2節。そんな教会でも、「神の教会」と記しています。教会とは、ただ人々の集まりなのではなく、「神の教会」なのです。コリント教会には、はなはだ問題のある人々が集っていても「神の教会」なのです。「教会とは神様の教会」だという認識をするだけでも問題は解けて行きます。
 なぜ、神の教会と言えるのでしょう。強調されていることがあります。「主イエス・キリストの御名を呼び求めているすべての人々」(2)「主イエス・キリストから、恵みと平安がありますように」(3)「キリスト・イエスによって与えられた神の恵みのゆえに」(4)と、この短い書き出しの中に「主イエス・キリスト」が繰り返されています。救い主イエス・キリストを信じる者、救いを求める者が集うから、神の教会なのです。救い主イエス様を信じる信仰に立てば、問題は解決されるはずです。争いも信仰に立っていないことから生じているからです。Tコリント3:1〜3。
 ですから、書き出しに出て来る最も特徴的なことが、「召された」ということです。1,2節。パウロは、使徒という働きに「神のみこころによって召された」のであり、イエス様を信じる者は、その働きや立場に神によって召されているのです。これがクリスチャンの職業観や働くことの根底となっています。私たちも、神様の召しを覚えるなら、働き甲斐が与えられ、自分の仕事や働きへ力を受け、神様の導きがあります。顧みられなくても忠実に働き、苦しい時にも守られます。
 そして、「聖徒として召された」という「召し」は、「救い出された」ということです。「救いに召し出された」ということは、召し出す神様に主導権があるということです。それが、イエス様の十字架の犠牲による救いです。私の罪と滅びの身代わりに神の御子が十字架にかかってくださった、というのが救いです。私たちは、感謝して信じるだけです。
 ですから、この「救いの召し」は一方的な召しです。私たちに特別に資格があるわけではありません。神様の側の選びであり、神様のご計画によって召されました。ヨハネ15:16。信仰を自分が選んだ、自分が求めたからと考えるのですが、そうではありません。神様が備えてくださり、様々なことを通して導いてくださったのです。ここに驚くべき神様の経綸があります。今、私たちはこの神様の導きの中にいます。
 この一方的に呼ばれたことは、教会の人々への名称にあらわれています。この問題を起こしていたコリント教会の人々が、「聖徒」と呼ばれています。争い、口論する人々がそんなに聖いのでしょうか。原文のハギオスとは、元々分離されたという意味です。神様のものとしてに選び分かたれた者ということです。本当に尊い名前です。救いに召されたから、聖徒となりました。「キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」なのです。そうであるならば、世の人々と違っていなければならないということになります。争い、妬み、悪口を言うならば、違いはありません。
 礼拝するということは、神様の臨在の前に出ることです。たとえ私たちが、怒りや憎しみを持ち、悪口や噂話をしていたとしても、主の臨在の中で心整えられ、悔い改めに導かれるのです。礼拝は大事です。怒りや悪口のままを見るのは、とても悲しく辛いものです。神様を礼拝するということは、神のものとして区別され、その中で愛され、養われ、癒され、霊的に造り変えられることです。今癒され、造り変えられましょう。

U−あなたがたのことを感謝−4〜7
 そして、何とこんな問題のあったコリントの聖徒たちのことを「感謝する」と言っています。4節。「あなたがたのことをいつも神に感謝しています」と言っています。勘違いしているのでもなく、おもねっているのでもありません。コリント教会の人々の中には、争うばかりでなく、彼らのために労苦したパウロをさえ悪く言う人々がいました。それなのに、彼らのことを「感謝している」と言うのです。この手紙を感謝から始めているのです。ここが、重要です。「なぜ争うのか、どうして私を悪く言うのか」などのことばが喉まで来ていても、「あたがたのことを感謝しています」から始めているのです。「ありがとう」の言葉から始めているのです。
 これが、どれほど重要か分かりません。子どもを叱ることを連想してみましょう。その時、ほめ言葉をいくつか言ってから、始めてみてください。すでに聞き入れるようになっています。ところが、良いことはすべて引っ込めて、悪いことだけ取り出して叱るなら、ますます酷くなります。
 感謝の内容を見ましょう。4節。「いつも神に感謝しています」は、絶対的な感謝です。条件付きの感謝を一次元の感謝、何かを受けたためか人と比べての感謝を二次元の感謝と言うなら、このパウロの感謝は三次元の感謝と言えます。ゼロの状態でも、悪条件の中でもそれを神様の恵みとして受け取り、すべてのことに感謝する段階です。問題に屈せず、問題自体を感謝して受け入れる感謝です。今パウロ自身が実践しています。彼は、どんなに悪い消息が聞こえて来ても、感謝から始めます。どんなに心が苦しくても、コリント教会のことを考えるなら、感謝の祈りから始めます。すべてに感謝する心をいつも失わないようにしなければなりません。
 「神の恵みのゆえに…神に感謝」と言っています。「神の恵み」とは何でしょうか。「キリスト・イエスによって与えられた」こと、すなわち救いの恵みです。神様の一方的なあわれみのゆえに救われた、福音に出会う機会が与えられた、これが恵みです。人には、罪のゆえに悲惨があり、不幸があり、その結果が死と滅びでした。怒りと憎しみ、妬みと争いに痛めつけられました。望みなく虚しく歩んでいました。しかし、私たちをあわれんでくださった神様は、御子イエス様を私たちの身代わりとして十字架に渡されました。イエス様を信じた者は、罪赦され、天国への命が与えられ、神の子とされ、新しい命に生きる者となりました。Uコリント5:17。
 このイエス様の救いをいつも恵みとして考え、感謝します。そうすると、感謝が具体化します。感謝の生活化です。5節。彼らは、福音を聞き、御言葉による養育を受けました。彼らは、新しく造られた者として、信仰の恵みに生きる者となりました。彼らは、誤り多き者であり、罪も犯しましたが、霊的成長もあり、変化もありました。私たちもそうです。自分をだめだと否定するのではなく、イエス様の救いによる新しい命に生きることを願い、御言葉による霊的造り変えを求めるのです。
 そして、救いの感謝は救いの証しへと進みます。6節。神学的に重要な意味があります。福音は、信じて、救われた者が、他の者に証ししてこそ、広がりになります。使徒1:8。彼らが救いを受け入れただけでなく、それを伝えて、証ししてこそ、彼ら自身の信仰が堅固なものとなります。私たちは、自分のためにも、福音を証しし、生活伝道をしたいのです。
 そして、再臨の信仰を感謝しています。7節。これは、主の再臨を待望する信仰です。初代教会の信仰は、「熱心に主イエス・キリストの現れを待つ」信仰でした。苦難を受けたとしても、主が再び来られるならば、問題でなくなります。再臨の主と出会う備えで生きる信仰生活は、現実の困難や悲惨に流されません。ヨブは、「最悪の状態でも、本来人はゼロの状態で生まれて来たのだから、その原点に戻って始めればいいのだ」というゼロの感謝をささげました。結局、すべてを失っても神に感謝し、賛美するヨブから信仰を奪うことはできませんでした。ヨブ1:20〜22。

V−最後まで堅く保って−8〜9
 私たちも、どれほど自分が幸福か、恵まれているか分からないでいます。本当に恵まれているならば、揺り動かされない人生になります。ヘブル12:28。感謝がなければ、私たちの信仰は揺さぶられることになります。ですから、感謝することが大事です。パウロの感謝は、彼らの現在から未来へ展開して行きます。8節。これほどの素晴しい救いに与っているのだから、主が再び来られて救いを完成してくださる日まで、堅く信仰に立って、揺り動かされないでくださる、と言っています。努力して「最後まで堅く保って」くださいと言っているのではありません。すでに、救いに召されたことによって、「主イエス・キリストとの交わりに入れられ」たからです。9節。これを確信することです。イエス様が信じた私とともに歩んでくださり、イエス様が私を守ってくださるというのです。何と言う恵みでしょう。
 神様が私たちを救いの道に召してくださったので、これからも私たちを導いてくださいます。教えてくださり、恵みをくださり、信仰を堅固にしてくださいます。自分の意志で信仰を守るのではなくて、主が私の信仰を守ってくださることを知って、平安になります。パウロは、コリント教会の人々の問題を思う時、イエス様の救いのゆえに、まず感謝しました。私たちを心配させ困らせている人のために、私たちができる最良の方法は、彼らのために祈ることと感謝することです。ピリピ1:6。



Tコリント
1:1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、
1:2 コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。
1:3 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現れを待っています。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。



Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

ヘブル12:28 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

ピリピ1:6 あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

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