2014年9月28日「同じ言葉、同じ心、同じ志」Tコリント1:10-17

序−コリント教会は、パウロ自身が最も弱い時、恐れや何かで弱くなっていた時、立てられた教会です。2:3。パウロが、堂々と権威をもってこの教会を立てていたならば、こんな問題はなかったかもしれません。パウロが最も弱い時、弱いと見える時に立てられた教会であるために、人々の心の中に問題が生じたようです。しかし、このような教会に送った手紙が、私たちに信仰的な示唆を多く与えてくれています。

T−一致して、仲間割れすることなく−10〜11
 パウロにコリント教会で争いが伝えられました。11節。教会での争いの理由は、基本的に三つほどあります。まず、救い主イエス様を愛していないために、御言葉中心にならないために聖徒の間に問題が起きます。信じたと言っても、ほとんど生まれ変わっていないために、全面的にイエス様に中心になることがありません。Uコリント5:17。夫も妻もイエス様を愛しているなら、夫婦は一つとならざるを得ません。姿形も違い、心も性格も違うけれども、イエス様を愛することで一つとなることができます。
 もう一つは、教会の働き人との関係です。教会が働き人中心になれば、教会は一つになるのですが、働き人が整えられなければ、ばらばらになります。御言葉に聞き従うことなく、それぞれ勝手なことを言い、争い、混乱します。さらには、肉の自分を治めることができないために起こります。Tコリント3:1〜3。新しく造り変えられていないために、肉の自分中心になって、自分の欲、自分の思いに囚われて、争ってしまうからです。
 ですから、パウロはコリント教会の聖徒たちに対して、「仲間割れ」しないようにと勧めています。10節。とりわけ、「主イエス・キリストの御名によって」お願いしています。パウロ個人が命じるのでなく、イエス様の願われることですよ、イエス様が命じておられることですよ、ということです。パウロが言うと聞かない人々も、イエス様の御名によることなら、聞かざるを得ません。
 「みなが一致して」と訳されていますが、原文では「みな同じことばを話して」となっています。「みな語ることを一つにして」とか、「みな勝手なことを言わないで」とも訳されています。「同じことば」とは、彼らが受けた福音のことを言っています。御言葉に従うのでなければ、信仰によって一致できません。さらに、「同じ心、同じ判断を保ってください」とお願いしています。これは、イエス様にあって、同じ考え、同じ思い、同じ判断となるようにということです。ローマ15:5〜7。手紙の冒頭から「イエス・キリスト」が繰り替えされています。「同じ心、同じ判断」とは、「イエス様の心、イエス様の判断」ということです。このところは、しばしばキャッチフレーズ的に、「同じ言葉、同じ心、同じ志」と言われます。主にあって「同じ言葉、同じ心、同じ志」になるならば、一致することができるということです。彼らの心には、これがなかったのです。
 では、何が心にあったのでしょう。彼らの争いの根底には、プライド、高慢がありました。高慢の思いは、争いを引き起こします。箴言13:10。パウロは、高慢によって論争する病気にかかると教えています。Tテモテ6:4〜5。富と哲学と武力で有名なコリントの人々は、元々とても高慢だったようです。クリスチャンとなっても、それを引きずっていたのでしょう。高慢な彼らは、謙遜なパウロを弱い者と見て、居丈高に振舞い、クリスチャンになった後も、謙遜になることなく、高慢になって論争していたのです。パウロが弱いと見られながらも、福音のために彼らに謙遜に仕え、労苦したことが想像されます。多くの人は、信仰によって謙遜に変えられたでしょうが、変わらない人々が、高慢になって争っていたのです。
 人々が高慢になってバベルの塔を建てようとした時、神様は人々の言葉を混乱させて、散らされました。創世記11:6〜8。高慢に対する裁きが、分裂でした。自分が優れていると優越感を持つ時、高慢になります。ですから、へりくだって、人を自分よりも優れた者と思いなさい、とパウロは勧めています。ピリピ2:3。人は、過去のことで高慢になり、所有しているもので高慢になり、はたまた自分のことでないことで高慢になります。主の御前にある自分の存在自体に対する真実な評価がないからです。

U−分裂の原因−12〜13
 コリント教会で争っていた人々は、御霊に属していたのでなく、肉に属していたので、高慢になりました。どんな高慢ですか。12節。いわゆる派閥争いです。三人寄れば派閥ができると言われますが、世間でも職場からママ友まで、派閥やグループで争っています。私たちも、それによって苦しんだり、振り回されされたりした経験があるでしょう。コリント教会にも、それが入り込んでいたのです。
 ここでは、派閥名が勝手に使われています。パウロやアポロが派閥を作ったわけではありません。使徒たちの間に論争があったわけでもありません。争う者たちが、自分たちのために勝手に利用したのです。人の権威を借りて高慢になるというケースです。パウロは、派閥ということばではなく、「仲間割れ」と言っています。その原語は、「衣服のほころび」を指しています。派閥で争うのは、服のほころびのようにみっともない姿だということです。残念な姿だということです。
 おそらくコリントの哲学諸派の間にあった争いのように、彼らの間に争いが起こっていたのでしょう。己の知恵に自信を持つ学者たちが、高慢になって延々と争っていました。アポロは学問の中心地アレキサンドリア出身の雄弁家でした。アポロにつくと言う人は、信仰を哲学に転換していた知識人だったのでしょう。ケパとは使徒ペテロのユダヤ名です。救いの恵みよりも、ユダヤの律法を主張していた人々なのでしょう。「キリストにつく」と言って争う人々も、イエス様の喜ばれるところではありません。イエス様の御名を使って、自分を高めようとしていたのです。
 パウロ派があるのかと聞いたパウロは、喜ぶどころか、残念に思いました。おそらくパウロ先生から洗礼を受けたなどと言って、誇っていた人がいたのでしょう。それで、「洗礼はイエス様の御名によってなされる」のであって、誰が行ったかは問題ではないと言っています。「あなたがたのために十字架にかかられたのはイエス様ではありませんか」と、福音の中心を思い出させています。教会のほころびは、イエス様を引き裂くことになりますよ、と悔い改めに目覚めさせようとしています。巻き込まれてはなりません。イエス様中心でなくなるから、こうなっていたからです。
 私たちも、世にあって否が応でも派閥に組み込まれ、知らず知らずに争いの渦中に入れられ、噂話や批判の中に置かれてしまいます。そして、人を傷つけ、自分も痛み、その交わりや関係を悪いものにしてしまいます。どう対処したら、と困ることもあります。気を付けなければなりません。そんな世に置かれている教会ですから、争いが入り込み易いのです。派閥争いしていることすら、意識されていないかもしれません。まず、教会に派閥や争いが入り込まないように、聖徒たちが信じただけに留まらず、御言葉によって造り変えられ、イエス様中心の人生観を持つことです。そして、そのような聖徒たちが世に遣わされ、世を変えていくことが重要です。私たちのうちに、「イエス様の言葉、イエス様の心、イエス様の判断」があれば、世にあって人々の心をつなぐ、存在となるでしょう。

V−私が遣わされたのは−13〜17
 派閥争いをしている高慢な人々と対比して、パウロの反応はどうしょう。14〜16節。多くの人に洗礼を授けたので感謝というのでなく、数人しか洗礼を授けていないのを感謝している、と変なことを言っています。パウロから受けたと人々が驕らないように、宣教師である自分は極力洗礼を授けなかったと言っています。これがパウロの謙遜な姿です。パウロは、素晴しく活躍した人、知識も学問も高い人、権威のある人でしたが、とても謙遜でした。真にそういう人こそ謙遜なのです。ピリピ3:4〜7。
 私たちは、考えなければなりません。どこに解決の道があるのでしょうか。やはりイエス様、ただ福音、十字架のみです。パウロであろうと、アポロであろうと、みな福音を伝える者ではありませんか。争っている者も、みなイエス様の十字架で救われたのではありませんか。17節。高慢という肉の思いは、イエス様の十字架の御業をむなしくします。信仰の本質にかえって行くならば、一つとなることができる、と言うのです。誰から洗礼を受けたか、どれほど長く信じてきたか、いかに知識があるか、どんな地位があったかなど関係ありません。今自分がどれほどイエス様中心か、今主の前にどんな心かが問題です。
 高慢という自己中心からイエス様中心に変わることが大事です。今日、自己愛の肥大化とその挫折が現代人の心の問題となっています。エゴセルフ(自分への関心だけが肥大化している自己)からエコセルフ(他者との共存を認めるエコロジカルな自己)へ転換する必要があると言われています。救われた私たちも、肉に属するならば、ここに陥ります。肉の自分に執着するのを止めて、イエス様中心、十字架中心の本質的な信仰に立ち返るなら、自然に一つとなります。本当に生まれ変わって行く信仰で、十字架で古い自分が死んで、新しい自分となったことを覚えて生きるなら、教会も家庭も、一つとなることができます。ガラテヤ2:20。そして、私たちが遣わされている所が主の恵みを受けるようになります。



Tコリント
1:10 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。
1:11 実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、
1:12 あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。
1:13 キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。
1:14 私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けたことがないことを感謝しています。
1:15 それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたと言われないようにするためでした。
1:16 私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが、そのほかはだれにも授けた覚えはありません。
1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。



Tコリント2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。

ローマ15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
15:6 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
15:7 こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。

箴言13:10 高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。

Tテモテ6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、
6:5 また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。

ピリピ2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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