2014年10月5日「宣教のことばの愚かさを通して」Tコリント1:18-25

序−今日、神学は多くなったが十字架がない、信仰の話しに道徳論や幸福論はあっても十字架ない、と言われます。私たちの信仰生活と私たちの心に十字架があるでしょうか。十字架という言葉を聞いて、心に感激や愛があふれるでしょうか。信仰の要点は、十字架に対する理解にあります。

T−十字架のことば−18
 コリント教会の人々が争っていた根本の原因も、十字架の理解にありました。十字架の御言葉を読んで、聞いて、知って生きるのが、クリスチャンです。十字架は、神様の力だと信じることが信仰です。十字架を見上げる時、問題が解けて行き、生命力を味わうようになります。私たちは、きょう十字架の前に、新鮮な心で素直な思いで御言葉を聞きます。10節。「十字架のことばは」と書き出しが印象的です。
 「十字架のことば」とは、十字架の出来事を含む、イエス様の十字架によって示された救いの真理のすべてのことです。神の御子イエス様が人となって世に来られ、私たちを罪と滅びから救うために、私たちの身代わりとなって十字架にかかられた、という福音です。Tペテロ3:18。この十字架が受け取る人にとっては、まったく違って来るというのです。
 まず、十字架の言葉は「滅びに至る人々には愚か」だ言っています。愚かとは上品な訳です。十字架のことばは彼らにとっては、ばかなこと、でたらめだという意味です。彼らが十字架のことばをばかげたもの、愚かなもの、でたらめなものとして受け取ったので、救いにあずかることなく、滅んで行くと言うのです。彼らは、自分の考えに矛盾するもの、自分たちの哲学に反するものの検討を拒んだのです。自分の知恵を絶対とした高慢のゆえに、十字架、そんなものは愚かだ、そんなことはばかげている、でたらめだと言って、素晴しい福音を切り捨てたのです。
 彼らが自分たちの考えに納まらないものに耳を傾けることを拒んだ結果、十字架を愚かだとしましたが、同時に、十字架のことばは、罪と滅びの悲惨に気付き、真実に救いを求める人々にとっては、救いの力となりました。この「力」とは、デュナミス、ダイナマイトの語源です。イエス様は私のために十字架にかかられたと信じる時、十字架のことばは偉大な力となります。イエス様の十字架を信じて、御子を十字架に渡された神の愛に心を向けた者には、十字架のことばは人生を変えるダイナマイトなのです。
 キリスト教は十字架道です。十字架のメッセージをそのまま信じた者には、命の力があり、救いがありますが、そうでない人々には、愚かでしかないのです。あなたにとって十字架による福音は、素晴しい人生の力となっていますか。心に十字架がありますか。イエス様が自分のために十字架にかかられたということを思うと、心に感激や感謝があふれますか。礼拝に出ることも、神様の取り扱いを求める人にとってとても大切な時間となり、聖餐式は十字架の救いの恵みを確認する者には、新たな信仰生活の力が与えられる素晴しいひと時となります。

U−この世の知恵−19〜21
 人を滅びから救うという物凄い十字架のことばを、どうして知恵ある人々がばかげたもの、おろかなものとしたのでしょうか。19〜20節。これは、イザヤ29:14の引用ですが、イザヤの時代、神の民は、神様の名を語って我々は神の民だと言っていたのですが、事実は神様から心が離れており、自分たちの考え方や思い、習慣を自分の神としていたのです。イザヤ29:13。それで、神様は、知者の知恵を滅ぼすと言われたのです。
 まさに、コリントで争っていた人々がそうでした。彼らは、自分たちの心を人の知恵や当時の哲学に向け、教会に中に争いを引き起こしていたのです。彼らの心の中心には、イエス様の十字架でなく、自分の知恵や考えが神となっていたのです。19世紀世界が近代化していた時期、哲学を聖書の上に置き、自分たちの知恵を中心とした自由主義神学が教会をかき回し、福音を破壊してしまいました。世の近代主義の影響を受けて、福音から哲学へと移った人々は、近代でも何でもない、古代の骨董品をまたまた掘り出したにすぎませんでした。伝道者1:9。
 「知者はどこにいるのですか」と言うのは、自分は知者だと思っている人が本当に知者なのですか、ということです。知者だという人が偶像を拝み、占いに聞くのです。ローマ1:22〜23。自由主義神学も、コリントで争う人たちも、人々を救いの恵みから遠ざけ、教会を混乱させたにすぎません。造られた土の器が陶器師になれるのでしょうか。エレミヤ18:6。自分には知恵があるとした学者、議論家は、神様の知恵を愚かだとし、十字架のことばをばかげたもの、でたらめなものとしましたが、互いに争い、人々を救いの恵みから引きずりおろした責任は大きいのです。私たちがこれをしてはいけません。神様からその責任を問われます。
 神様は、こうした破綻した人の知恵に対する処方箋を示してくれています。21節。世が自分の知恵によっては、神を知ることがないのは、イザヤの時代も、この時代も、近代も同じです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となったからです。これが病気の診断です。ただ、自分の知恵を越えた神様の愛の御業を謙遜に受け入れ、イエス様の十字架を自分のためだと素直に信じることが大事です。これが治療です。
 「宣教のことばの愚かさを通して」とは、宣教の言葉が愚かだというのではありません。世の知者たちが愚かだとした福音、宣教のことばによって、信じる者を救おうとされたということなのです。愚かと見られてもいい、愚かだと言われてもいい、この十字架のことばが私たちを救う神の知恵なのです。神様は、むなしい世の知恵と哲学のただ中にひとり子を遣わし、十字架の救いを与えてくださいました。愚かだと言われても、この宣教に神様の力が働き、信じる者を救い、一変させてしまうのです。

V−キリストは神の力、神の知恵−21〜25
 当時、十字架を受けいれない知者たちには、特徴がありました。22〜23節。ユダヤ人は、しるしや奇跡を求めました。ユダヤ人は、イエス様を見たとき、まったく気にくわず、躓(つまづ)きを覚えました。メシヤは栄光のメシアとして登場するはずだ、自分たちの国を再興してくれるはずだ、と勝手な願望を抱いたからです。のろわれた者がつけられる十字架にかけられるなんて、救い主であるはずないというのです。どうして十字架につけられる時、奇跡が起きないのか、そこから飛び降りないのか、そうしたら信じるのに、というのでした。マタイ27:42。今、奇跡を求め、自分勝手な願望を抱いて、イエス様の十字架に躓(つまづ)いていませんか。
 ギリシャ人は、知恵を求めました。知恵は、論理学であり、哲学です。ソヒア(知恵)を愛する(フィロ)から、それがフィロソフィー・哲学となりました。ですから、知恵を愛して、知識を追求する彼らにとって、もっとも愚かに見えることは、自分の頭に入らないことでした。それが、神が肉体をとって人となられた、神の御子がイエス様となって世に来られたということです。イエスという人が神であるのに、十字架に死ぬのかが不合理でした。論理的に受け入れることができませんでした。ギリシャ人にとって、十字架は愚かなことに思えたのです。今、自分は知者だと高慢になっているため、十字架の福音に力を感じないのではありませんか。
 しかし、信じたユダヤ人、ギリシャ人にとっては、どうだったのでしょうか。物事は、どこに基準を置くかで、違って来ます。キリスト中心として物事を考えるならば、十字架は理解でき、消化され、理解できないことはなくなります。理解できるように変わるということです。近代の有名な哲学者は、「神の存在を論理で説明しようとしても信仰は得られない、神と向き合うことによって神の存在に気付く、神は認識の対象ではない、信仰する者が神の存在を確認することができる」と言いました。十字架の前に謙遜になるなら、十字架の主が自分に迫って来ます。それが、十字架の救いです。十字架の福音は人を変え、人生を変えます。Tペテロ1:3。
 十字架には、このような素晴しい力があります。ですから、どんな人であっても、救われた人にとっては、「キリストは神の力、神の知恵」となるのです。24節。「召された」というのは、私たちが自分で信じたということではありません。イエス様が主導権をもって、私たちを救いに召されたのです。ただ主の愛、恵みというほかありません。Tコリント15:10。私もこの召しを受けた者だ、という恵みのほどを覚えましょう。ローマ8:28。召された者にとっては、十字架は神の力、神の知恵なのです。無限の知恵がその中にあります。私たちは、この知恵をいただいて生きるのです。
 今日の信仰にも、当時と同じ姿があります。しるしを求める信仰は、万事思い通りにしてくれと熱心に祈り求めますが、神様に聞き従おうとはしません。知恵を求める信仰は、聖書の勉強も熱心にして、礼拝も勉強と考えます。しかし、自分の知恵が心の中心を占め、心の中に十字架はなく、争いや妬みが自分を引き回します。
 しかし、「宣教のことばの愚かさを通して」信じる者は、十字架が中心です。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。25節。十字架より大きなしるしも、大きな力もありません。知恵も真理もすべて、十字架の中に入っています。イエス様の十字架からすべてを悟り、感謝するのです。これが、十字架のことばによる信仰です。愚かで弱い者にとっても、誰にとっても、十字架は神の力です。ローマ1:16。



Tコリント
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。



Tペテロ3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イザヤ29:13 そこで【主】は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」

伝道者1:9 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。

ローマ1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

Tペテロ1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

Tコリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

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