2014年10月12日「誇る者は主を誇れ」Tコリント1:26〜31

序−コリントの人々は、どうやら自分を大きく見せたかった、誇りたかった、人の評価を得たかった、それで、自己主張し、言い争っていたようです。人の中にある最も根源的な罪の一つは、自己主張です。人に認められたいという欲望です。私たちにもある肉の性質です。そのために、不満を持ち、怒り、争うことになります。今日のところは、そこに気付かせ、そこから抜け出る処方箋を与えています。

T−あなたがたの召しを考えて−26
 まず、忘れていることに気付かせています。これを忘れているために、罪に陥り、争っていたからです。26節。「召しのことを考えてごらんなさい」と言っていますが、「召し」とは何でしょうか。「召し」とか「選び」の教理は、基礎的な、根本的な大切なものです。私がイエス様を選んで信じたのではなく、主が私を救いに召しだしてくださって、信じるようにさせてくださったということです。ヨハネ15:16。
 神様は、ある環境を通して、何かの出来事を通して、一人の友人を通して私を救いに召しだしてくださった。何の功績もないこの罪人を救って、神様の子どもとしてくださった。私たちは、この信仰を告白している者たちです。私たちが救われたということは、まったくの恵みなのです。私たちがすべきことは、徹底的に恵みを覚えて、感謝して、その恵みに応えることです。
 私たちも、召しのことを考えてみましょう。どんな時に救われたのでしょう。どんな状況から救われたのでしょう。その時の自分はどんな人だったのでしょう。ローマ7:24。何か良い所、うまく行っていたこともあったでしょうが、欠けや弱さや愚かさを持った者でした。苦しく惨めな状況でもありました。悩んで、迷って、むなしい人生を過ごしていました。そこから、救いに召し出されたのです。それを忘れてしまうのです。
 コリントの人たちに対して、あなたがたの召された時の状態を思い出しなさい、あなたがた自身をごらんなさい、と言っています。確かに、コリント教会には、学者や権力を持っている人、高貴な人もいたでしょうが、多くはありませんでした。では、多くはどんな人たちだったのでしょうか。どんな境遇だったのでしょうか。多くは奴隷身分の人々です。奴隷は、生殺与奪の権を主人に握られ、何の所有物も持てず、ただ主人の道具の一つでした。自由人だったとしても、多くは貧しく、悲惨な境遇の者たちでした。イエス様に助けられ、救われた者たちもそうでした。イエス様は、体の不自由な者、病気の者、貧しい者、疎外されている者のところに行き、彼らと交わり、彼らを救い出してくださいました。ルカ15:1,マタイ11:5。
 コリント教会も、そんなどん底から始まっていたはずです。彼らは、救いを通して、悲惨などん底から解放され、実際に知恵も与えられ、生活も整えられ、自由も味わうようになりました。ところが、やがてその召しを忘れるようになって、元々持っていた肉の性質があらわれてきたのです。自分を大きく見せたい、誇りたい、人の評価を得たいという根源的な肉の思いがどんどん生じて来て、自己主張し、怒り、不満を抱き、言い争うようになったのです。
 奴隷は、主人の元で威張ることも、自己主張することも、評価を求めることもまったくできませんでした。だから、聖徒の中で自分を誇り、自己主張し、評価を期待したのです。現代でも、職場や学校、地域などで威張ることや自己主張すること、評価を求めることができなければ、同僚の間で、家族や友人の間で誇り、評価を求めることになります。私たちに対しても、「あなたがたのことを考えてごらんなさい」と問いかけられています。自分を誇り、自己主張し、認められようとするあまり、不満を抱き、怒り、争うことはないでしょうか。

U−愚かな、弱い者、取るに足りない、見下されている者を選び−27〜28
 知者や権力者や身分の高い者があまりいなかったので、結果的に「愚かな者、弱い者や取るに足りない者、見下されている者」を召し出されたのでしょうか、仕方なくそうなったでしょうか。いいえ、理由があって、そういう人々を敢えて選んだと言っています。27〜28節。「知恵ある者や強い者をはずかしめるために」愚かな者や見下されている者を選ばれたというのです。
 「はずかしめる」というのは、いわゆる恥ずかしいではなくて、「恵みがない、失望する」という意味です。人は知恵や強さや、権力を求め、自分を誇りたい、人の評価を得たいと汲々とします。それで、神様は、そこに恵みはない、失望することになることを教えるために、この世の愚かな者や弱い者を選ばれたというのです。はずかしめるため、つまり「有るものをない者のようにするため」に、世の取るに足りない者や見下されている者を選ばれたというのです。
 この対比、対象に注目しましょう。世で愚かな者、弱い者、軽んじられている者が救われ、神様の恵みを受けているのに、世で評価されている知恵ある者や強い者、持てる者が罪の悲惨の中に陥り、神の恵みを受けられないという姿を対比させています。黙示録3:17。確かに、コリントは哲学と雄弁と商業で有名でした。それがコリント人には誇りでした。しかし、それらが同時にコリントを退廃させ、混乱させていました。人々は高慢になり、評価を求めて自己主張し、互いに言い争い、そこには恵みも幸いもありませんでした。それが、教会にも入り込んでいたのです。
 私たちも、よく自分のことを考えるように、よく自分を省みるようにと言われているようです。世の評価するものを神様は拒まれ、それらは神の御前には無価値だと学んだはずではないでしょうか。世の人が求めるような自分を大きく見せたい、誇りたいということが肉の思いであり、自己主張や人に認められたいという欲望が争いを引き起こすと知ったはずです。ですが、それを忘れてしまうからです。
 私たちは、この世の愚かな者、弱い者、取るに足りない者や見下されていた者なのに、神は選ばれたのですから、喜び、感謝します。それまでは、私たちは、世でそのように扱われ、自分でも自分自身を否定していましたが、その必要はありません。神様が高価で尊いとされた自分、神の子どもとされた自分をしっかり受け入れるのです。イザヤ43:4, ヨハネ1:12。主が十字架の救いによってそうしてくださったのですから、もう世の価値観で、誇りたい、評価されたいという肉の思いから解放されるのです。

V−誇る者は主を誇れ−29〜31
 そのような召しは、「神の御前でだれをも誇らせないため」と言っています。29節。なぜ、誰も誇ることができないのでしょう。愚かな者、弱い者、取るに足りない者の中から召されたからです。自分がりっぱだからとか、私が努力したからとは、誰も言えません。クリスチャンは救われた後も、業の信仰に陥りがちです。ですから、私たち長老教会の信仰は徹底して、聖書信仰です。予定、選びの教理をしっかり持ちます。全的堕落、不可抗的恵みを学びます。それを知ると、自分を大きく見せたい、誇りたい、自己主張したい、人の評価を得たいと汲々し、憤慨し、争うのは、恥ずかしくなります。プライドが傷つけられた、というプライドを主の前に見せられるでしょうか。私は価値がないと主の十字架の前で言えるでしょうか。
 士師記を通して、神様が用いられる人の姿と用いられ方を学びました。神は、弱い者を通して働かれました。小さな者を用いて、大きな御業をなされました。「自分の手で救ったと誇らないように」と軍隊の人数を少なくさせたこともありました。士師記7:2。誇って、高慢になった時には、罪を犯し、争いに落ちた姿も学びました。弱かった者も、後には誇ってしまい易いのです。どうしても、肉の思いでは、誇りたいのです。
 この箇所の結論は、「誇る者は主を誇れ」と言っています。31節。誇るものが何もない、何か誇りたい、知恵を誇りますか。ところが、私たちの知恵とするものは何でしょう。神様がくださるものです。30節。イエス様を信じたために霊的に造り変えられて、確かに知恵が注がれました。御言葉の価値観で考え、受け止め、対処して行くことが、どんなに知恵となっていることでしょうか。私たちに、イエス様を信じて救われたこと以外に、何か残るべきものがあるでしょうか。何もありません。イエス様の十字架によって救われた、これが誇るべき偉大なことです。エレミヤ9:23〜24。
 イエス様は、私たちの「義と聖めと贖い」です。義とは、イエス様が私の罪と滅びをその身に負って十字架にかかってくださったので、罪が赦されたということです。聖めとは、イエス様の十字架の救いによって、神様のものとされ、罪なしとみなしていただいたことです。贖いとは、私の救いのためにイエス様がその身をもって代価を払われたことを言います。Tコリント6:20。つまり、ただただイエス様の十字架の救いは、すばらしい一方的な恵みです。これによって、私たちは神様から力と祝福を受けて、新しい命に生きることができるようになりました。Uコリント5:17。これは、誇ってもいい、誇るべき救いの恵みです。
 私たちは、召されたこと、救われたことを覚えておくだけでなく、今も主の召しを聞いていくなら、主の前に低くされて、誇りたい、認められたいという肉の欲求から守られます。主の召しを正しく聞いていくなら、もっと尊く用いられる存在となります。「誇る者は救い主を誇れ」



Tコリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
1:31 まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。



ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

黙示録3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

エレミヤ9:23 【主】はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。
9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──

ヨハネ1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。


Tコリント6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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