2014年10月19日「宣教とは御霊と御力の現れ」Tコリント2:1-5

序−クリスチャンというだけで、証しとなっている存在ですが、宣教、証しというと、私たちには思いはあるけれども、臆してしまうところがあります。こんな難しいコリントでパウロはどのように宣教をしたのでしょうか。それを学ぶことで、私たちへの示唆を与えられたいと思います。

T−弱く、恐れおののいていた−3
 この箇所は、とてもパウロらしくない、パウロにもこういう面があったのかと思うほど人間的な弱い姿を見せています。3節。とにかく、コリントにいた時のパウロは、「弱く、恐れおののいて」いたのです。そういう困難な境遇の中で、コリント教会が形成されたのです。「キリスト・イエスにあってあなたがたを生んだ」と言っています。Tコリント4:15。そこには、当然「産みの苦しみ」があったと思われます。ガラテヤ4:19。
 私たちが知っているパウロは、生活の厳しさや命の危険さえも問題にしない人です。牢屋に入れられても恐れることがありませんでした。そのような人が、どうしてコリントで弱く、恐れののいていたのでしょうか。考えてみましょう。私たち自身は、どんなことで弱さを覚え、恐れるのでしょうか。経済問題ですか。健康問題ですか。人間関係ですか。弱さを覚えることは何だろうかと考えます。実は、弱さと恐れを覚えるのは、意外にもそうした外敵要因ではなくて、どこまでも自分の内面にある問題だと気付かされます。外敵要因はきっかけに過ぎません。
 使徒パウロは、自分がなぜ弱くなっていたのか、後で気付くようになります。問題なのは、なぜ自分が弱くなったのか、気付かないことです。恐れや弱さで中々行動できなくなり、苛立つことも、怒りも出て来ます。十分うまくやれている時は、何でもないことも、霊的に弱くなっている時には、ひっかかって来るのです。パウロは、自分がなぜ弱かったか知っていました。それは、とても人間的な問題でした。心理的なことでもありました。私たちにとっても、この部分が重要です。
 その背景となることに目を向けましょう。パウロがコリントに来る前、アテネにいました。そこは、ギリシャ哲学の中心地です。いざ来てみると、高度の哲学思想を誇っている人々が、同時に多くの偶像礼拝をしている矛盾を見たのです。現代の日本も同じではないです。知識人だという人々が、迷信に左右され、占いに聞いています。哲学も学んでいたパウロは、哲学の中心地アテネで、哲学的なアプローチで福音を伝えようとしました。哲学的用語を用いて、彼らの詩人から引用したり、哲学的に論じようと努めました。使徒17:22〜31。しかし、あまり効果がありませんでした。すぐれた知恵を用いた雄弁は失敗でした。使徒17:17〜32。失敗した後、急速に勇気がなくなり、聖霊の力も感じられなくなりました。
 そして、パウロはコリントに来ました。コリントでの宣教は、もっと論争や反発が多くて、パウロは再び心弱くなり、恐れ、もう他の所に行きたいと思いました。しかし、ある日パウロは主の励ましを受けました。使徒18:9〜10。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」という励ましを聞いて、再び勇気を与えられ、伝道するようになりました。この励ましは、私たちにも語られています。あきる台BCの聖徒たちよ。「恐れないで、語り続けなさい。この町には、わたしの民がたくさんいるから」。

U−十字架以外は何も知らないと決心した−2
 コリントで、「弱く、恐れおののいた」パウロは、アテネでの失敗がこの時のためだと分かりました。そうして、「十字架のイエス様以外は何も知らない」つまり、「イエス様の十字架だけを宣べ伝えると決心した」のです。2節。パウロは、大事な決心にたどり着きました。決心と言えば、私たちは、イエス様を信じた時、「決心」をしました。イエス様を人生の主として信じる決心をしました。主にだけ仕える、という決断です。
 パウロは、次の決断もしました。自分自身のためにだけ人生を生きるのではなく、自分の人生すべてをかけて福音を伝えることために生きるようと決心しました。使徒9:15~20。これは、パウロばかりではありません。クリスチャンは誰でも、他の人のために生きる、人の救いのために生きるということがあって、真に生きるようになります。自分のためにだけなら、挫折したり、目標を失ったりすると、生きることが辛くなったり、意欲がなくなったりします。福音に生きて、家族に友人に、職場の人々に福音を証しして生きよういうところに、生きる力が与えられます。
 そして、三番目の決心が、この「十字架につけられたイエス・キストを宣べ伝えることを決心」することです。ここでどう宣教しようかというパウロの迷いはなくなりました。雄弁や用語や言い回しに気を取られては、真理の伝達がだめになってしまうことを知りました。アテネで挫折し、ここコリントで苦しんだパウロは、ただイエス様の十字架を宣教するのだ、と決心をするようになります。私たちは、イエス様の十字架を信じました。イエス様の十字架が私の罪と滅びの身代わりだと信じることで救われました。ですから、伝道も、イエス様の十字架を伝えるのです。
 1節の「宣べ伝える」(カタンゲロー)も、4節の「宣教」(ケリュグマ)も、「福音を説く」(エゥアンゲリゾー)ではなくて、告知者として宣べる、宣言するという言葉です。王の代理者の用語であり方法です。パウロは、コリントで権威をもって「十字架につけられたイエス様が救い主だ」と宣言したのです。イエス様に遣わされた私たちもまた、同じです。Tペテロ2:9。自分の知恵や能力で証しするのではありません。ただ十字架の福音を宣言するだけです。後は、御霊が働いてくださいます。イエス様の十字架を信じて、罪赦されて、天国への命を与えられた。その喜びと恵みを覚えると、単純に人々にこの福音を伝えたいと思い、この恵みをともにしていたただたいと単純に願うようになるのです。
 
V−ただ神の力によって−1,4〜5
 ですから、パウロは、「人のすぐれたことば、すぐれた知恵を用いないで」神のことばを宣べ伝えました。1節。「私の宣教は、説得力のある知恵のことばによって行われたものではない」と言っています。4節。アテネでの失敗がそうさせています。哲学のふりかけをかけて覆ってしまったために、福音というごばんを食べてもらえませんでした。良いことばだけを並べても、知恵を込めても、それは心に届きませんでした。
 「すぐれた知恵をもちいないで」という「知恵」とは、ソフィア、つまり哲学のことです。哲学的に論理的に合理的に美辞麗句を並べてもかえってだめだったと言っているのです。ことばの技術ではなく、心が熱くなければなりません。福音を信じて福音に生きている人が、福音を単純に語るなら伝わりますが、福音に生きてないのに、知恵のことばを並べ立てても、心に届きません。宣教は心で行わなければなりません。むしろ、言葉はたどたどしくてもいいのです。「イエス様が救い主です」「十字架を信じれば、救われます」それだけで、聖霊が働き、心に届くのです。
 「人のすぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、証しを伝えることはしなかった」パウロは、ただ十字架だけを知ること、ただ十字架中心、十字架の福音を伝えました。なぜ、そのようにするのでしょう。十字架だけを伝えることに力があらわれることを体験したからです。4節。十字架を伝える福音に耳を傾ける人に聖霊が働くことを体験したからです。ただイエス様の十字架を伝えて行く時、自分の心が熱くなり、聞く人々の心が開かれるのをパウロは体験したのです。驚くべきことです。
 パウロは、人の知恵、人のことばに精通していました。ピリピ3:4〜6。それに頼って失敗したのです。哲学の人々に哲学的な手法で、哲学の言葉を並べて論じたのに、かえって伝わりませんでした。パウロは、体験しました。十字架が抜け落ちて、御言葉がなくなれば、聖霊の働きもなくなりました。心は弱くなり、恐れが生じて来ました。何もできなくなりました。
 しかし、パウロが、イエス様の十字架が自分の救いだ、十字架が私のいのちだ、十字架の福音が伝わることだけが私の願いだという思いになった時、彼の心に勇気がわき、聖霊が強く働くようになりました。私たちは、真摯にイエス様の十字架に救われた恵みに感激し、十字架によって罪赦され新しい命を与えらえたことを喜びます。この恵みと喜びを共にしたいと熱い心で伝えるなら、聖霊が働きます。人の知恵も力もなくていい、自分は愚かで弱くてもいい、ただこの十字架の福音を信じて、十字架の救いに生きて、喜び感謝して十字架を伝えて行くなら、伝わります。5節。
 パウロは、「私の宣教は、御霊と御力の現れでした」と証ししていましたが、それは、十字架を伝える時に現れます。パウロは、肉の「私はキリストとともに十字架につけられました」と信仰告白をしています。ガラテヤ2:20。知恵を自負する自分、称賛を受けたい自分は、十字架につけられたというのです。私たちの霊的状態はどうでしょう。十字架が抜けていませんか。心の中心にイエス様がおられますか。そこに自分が座っていませんか。プライドが偶像となっていませんか。私たちの信仰が単純にイエス様の十字架中心となる時、イエス様の十字架の救いに信頼する時、弱さや恐れを抱く私たちも、勇気を与えられ、聖霊が働くようになります。そして、それぞれのところに遣わされて行きましょう。使徒18:9〜10。



Tコリント
2:1 さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。
2:5 それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。



ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

使徒18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。

Tペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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