2014年10月26日「私たちは、神の知恵を語ります」Tコリント2:6〜16

序−しばしば、聖書の言うところを狭く短絡的に受け取る人がいます。2:1〜5から「信仰にまったく知恵はいらないのだな、福音には知恵がないのだな」と受け取る人もいるかもしれません。です。でも、そうではありません。キリスト教には、すごい知恵があります。

T−この知恵は世の知恵ではない−6
 前回の箇所で、福音の宣教において、「すぐれたことばやすぐれた知恵を用いることはしませんでした」「説得力のある知恵のことばで行われたものではなかった」と強調されていました。それに続く6節において、「しかし」と始めています。そう言ったとしても、福音に知恵がないとか、キリスト教は知性の外にあるとか、というのではない、キリスト教には、独自の知恵があり、キリスト教の知恵こそ本当の知恵だと言っているのです。それは、「神の知恵」です。7節。
 私たちは、この変化の多い、多事多難の人生を生きて行くのに、知恵を必要とします。これまでの自分の知恵では足りないのは、よく分かっています。世の知恵では、罪を伴うことも知りました。ですから、神様に、「知恵をください、本当の知恵が必要です」と祈ります。知恵は、これからどうするか、問題をどう判断したらよいか等を解決する力です。知識がいくらあっても、この知恵がなければ、すべてむなしくなります。
 この神の知恵は、世の知恵とは違うと言っています。6節の「この世」アイオンとは、時代という意味です。世の知恵は、限られた時代のもの、「過ぎ去って行く」ものということです。事実、歴史を見ると、支配者たちが定めたもの、その時代の思想や知恵は、時代とともに変わり、過ぎ去って行きました。今日、急激に変わる世の価値観、思想に、人々は翻弄され、揺れ動かされています。現代は、秩序が崩れ、価値観の喪失して行く時代と言われています。
 この「支配者」とは、指導者という意味です。政治家、教師、上司という上に立つ人々の知恵も、確かではありません。最近、教師や管理職といった人々が、どう人を教えて、導いていいか、分からなくなっています。それまでの経験だけでやっていけない状況になっています。人々は、今何を基盤に生きて行けばいいのか人生をさまよっています。何が本当の知恵なのか模索しながら生きています。苦しさや虚しさの中にいます。
 イエス様の裁判の時、総督ピラトは「真理を証しするために来た」イエス様を前にして、「真理とは何か」と言うだけに終わってしまいました。ヨハネ18:37〜38。そして、イエス様を十字架に渡してしましました。8節。真理を求めるなら、真理であるイエス様を信じなければなりません。十字架にかかられたイエス様が救い主だからです。クリスチャンは、この聖書の変わらない救いの真理を、混沌とした世の人々に伝えなければなりません。私たち自身も、しっかり捉えて、生きて行きたいのです。神の知恵は、時代を超越的したもの、不変の真理なのです。私たちを生かすものです。

U−御霊によって私たちに啓示された−7〜11
 では、どうして、ピラトはイエス様を前に真理を知ることができなかったのですか。隠されているからだと言います。7節。神の知恵は、「隠された奥義」だと言います。人々の偏見の中に隠され、罪の思いのゆえに知ることができませんでした。奥義、ミュステリオンは、英語のミステリーになりましたが、不思議ということではありません。イエス様が譬え話をされた時、弟子たちは奥義を知ることができるが、肉の思いでは見ても聞いても悟ることがないと言われました。ルカ8:10。
 奥義とは、人の知恵では発見できないものだが、人が理解できるように啓示されているというのです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの」を、神様は愛する者たちに、イエス様の救いを通して明らかにしてくださいました。9節。「神を待ち望む者のために」用意されたのです。イザヤ64:4。いままで聞いても、見ても分からなかったもの、人の心に思い浮びもしなかったものが、分かるようにされたのです。何という恵みでしょう。それが、神の知恵です。この知恵の根本は、イエス様の十字架です。イエス様を信じたから、神の知恵が与えられました。
 その啓示の方法は、「御霊によって」です。10〜11節。なぜ、弟子たち五旬節の後になると宣教できるようになったのでしょう。御霊がくだったからです。使徒1:8,2:1〜3。イエス様の十字架と復活の福音がしっかり理解できて、救いの福音を伝える力と言葉が与えられたからです。そして、十字架の福音が宣言されます。これが、神の知恵です。
 そして、神様を深く知ってみると、自分が大切で、隣人も大切であり、自分にくだされた現実の一つ一つ、自分が出会う事件一つ一つが、すべて神様の知恵であると分かって来ます。仕事や学び、夫婦の問題や子育て、健康や老いのこと等々の戸惑いや心配について、神の知恵がその意味、取り組み方など教えて、導いてくれます。そういうことに神の知恵の中で受け止めるならば、すべては益と変えられます。ローマ8:27〜28。出来事の意味、動きが分かるようになり、問題の動向を静かに待つことができます。
 この神の知恵を信じるならば、私たちは、何か心配しなければならないことがありますか。御霊の働きにより、神の知恵を悟るようになります。御霊によって、物事を理解し、決断するようになります。10節に「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」というくらい、見えないこと、分からないことまで教えて、見せてくださるのです。ですから、悲しむことはありません。落胆する必要もありません。御霊の働きの中で、御言葉を通して必要なことを悟るようされるからです。
 
V−私たちにはキリストの心がある−12〜16
 私に御霊が働くだろうかと心配する必要はありません。信じて、救われた者は、「神の御霊を受けている」のです。12節。クリスチャンとは、主の御霊を受けた者です。ヨハネ14:16〜17。ですから、イエス様の十字架と復活の出来事が、神様の救いの啓示です。その一連の出来事がそのままあるだけなら、自分と何の関係もありません。十字架の出来事を私のためだと信じて、この福音に自分の人生を委ねるのです。聖霊が働いてくださって、心を感動させて、尊い真理を受け入れ、信じるようにしてくださいます。そして、霊的に生まれ変わり、人生も変わるようになります。
 今私たちの内に御霊が働いてくださっています。12節では、私たちが聖霊を受けたのは、「恵みによって神から私たちに賜ったものを私たちが知るため」だと教えています。御霊によって、私にもいろいろな恵みがくだされていることを知るようになります。すると、不思議に心が開かれて、喜びがわいて来ます。感謝の思いも生じて来ます。
 聞いただけでは物事を悟ることはできません。御霊が働いているので、悟るようになります。ですから、自分の肉の思いだけで話さないでください。人の知恵で反応しないでください。御霊に聞いてください。御霊が神の知恵を教えてくださいます。13節。御言葉を用いて話すならば、御霊が働いてくださいます。御言葉によって語るなら、神の知恵を語ることになります。神の知恵によって人の言動が分かって来ると、それまで、自分もどんなに罪の言動だったか、恥ずかしくなります。何という恵みでしょうか。神の知恵が分からないと、何事も不平不満になります。
 心がふさがっているならば、むなしく疲れはててしまいます。でも、神様の恵みや導き、霊的造り変えが分からないで、不満や怒りばかり多かった人が、ある時から悟り始めるようになります。聞く説教が心に入って来て、御言葉が新鮮に目に入って来て、人々との交わりがうれしくなって来て、仕事が守られ、できるようになります。これが、御霊の働きです。神の知恵によって、人生において聞くこと、見ること、することが違って来ます。人生も人の捨てたものじゃない、となって来ます。
 「新しく生まれ変わる」ということがよく分からないニコデモについて、イエス様は「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われましたヨハネ3:5〜6。「肉によって生まれた者」は、14節で「生まれながらの人間」言われています。肉に属する人は、御霊に属することが分かりません。「御霊に属することを受け入れ」ないので、見ても聞いても分かりません。かえって御霊に属する人がおろかに見るでしょう。15節。ですから、「成人の間では神の知恵を語り」ます。6節。成人は、霊的に成熟した人、御霊に属する人であり、互いに理解できます。
 そして、今日の結論は、「私たちには、キリストの心がある」ということです。16節。御霊を受けた人は、イエス様の心に変えられるというのです。御霊を受けた時から、知識が霊的に変化します。知的変化があらわれます。悟りが与えられます。感情の変化があらわれます。すべてがイエス様志向となります。イエス様が喜ばれることを自分も喜ぶようになります。イエス様が愛することを愛するようになります。イエス様に心が向く時、幸いを覚えます。これらのことが、どれほど大切か分かりません。
 キリスト教の福音は、単純なものです。しかし、キリスト教は究極の哲学です。単純な福音は、同時に崇高であり深遠です。神の知恵は、イエス・キリストに現れており、イエス様の十字架によって救われた私たちも、この神の知恵によって生きることができるようにされています。御言葉の知恵を語り、人々の中でキリストの心をもって生きましょう。



Tコリント
2:6 しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。この知恵は、この世の知恵でもなく、この世の過ぎ去って行く支配者たちの知恵でもありません。
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
2:15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。



ヨハネ18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。

ルカ8:10 そこでイエスは言われた。「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。」

イザヤ64:4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。
65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。

ローマ8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

ヨハネ14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ローマ8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

ヨハネ16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

ヨハネ3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

Uペテロ1:4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

戻る