2014年11月2日「まだ肉に属しているから」Tコリント3:1〜9

序−神の知恵をいただいた、御霊を受けたことを学びましたが、実際クリスチャンと言っても、神の知恵なんてない、御霊どころか愚かなひどい姿じゃないか、福音はすばらしいのに、どうして喜びに満ちたすばらしい生活をすることができないのだろうか、という疑問に思い、悩む時があります。この箇所が、そのことに答えを与えています。

T−肉に属する人、御霊に属する人−2:14
 パウロは、人々を3種類に区分しています。一つは、すでに2章14節に出て来た「生まれながらの人」です。「生まれながらの人」とは、その関心も目的も思想も、世的、肉的な生活に限定され、霊的真理に属することを把握できない人ということです。2:14。生まれたままの本能で、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、肉の欲の奴隷となって、裁かれる罪人となっている人です。エペソ2:3。世の欲に引かれて生き、肉の欲が主人となっています。勿論、表面的にはそつなく過ごすのですが、問題が生じれば、その生まれながらの罪と欲が表面化するのです。
 今、自分を引っ張って、導くものは何でしょうか。何が自分を指導していますか。考えてみましょう。肉の思い、肉の考えが自分を引っ張り、主導している姿が見えるでしょうか。それが、罪と欲の奴隷の姿です。人間関係を混乱させ、自分の言動を惑わしているものは、この肉の思い、肉の考えです。この罪が私たちを悲惨にし、幸いに生きることをさせません。パウロは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と叫びました。ローマ7:24。
 何が自分の偶像になっているか、考えてみましょう。偶像なんて拝んでいないと人は言うでしょう。自分の思い通りしたい、自分の思うように人に動いてほしい、これも偶像です。人に認められたい、評価されるために頑張り続けなければ、これが偶像になってしまいます。そのために、いつも心が苦しくて、不満が多く、否定的な思いになります。生まれながらの人は、神様がどれほど自分を愛して、あわれんで救おうとされているか、分かりません。ですから、福音の証し、宣言が必要です。神様が人をあわれみ、愛するあまりイエス様を人として世に送り、罪と滅びの身代わりとさせて、人を悲惨から救おうとされたというメッセージを聞かなければなりません。ヨハネ3:16。
 「生まれながらの人」は、御霊に属することを自ら悟ることができません。誰かから聞く必要があります。誰かが伝えなければなりません。聞いて、受け入れることができるように、とりなし祈らなければなりません。クリスチャンになったら、イエス様の目をもって、人々を見るようになります。表面は普通にしていても、悲惨な罪に囚われ、思い惑いの中で痛み苦しみ、不満や怒りがあります。そのような「生まれながら」の姿に気付くなら、そのままにしておけません。助け、祈り、福音を伝えます。ローマ10:14。

U−御霊に属する人−1
 二番目の種類の人は「御霊に属する人」です。1節。御霊に属する人とは、いつも主の御霊に導かれる人であって、御霊がその人の主人であって、その人も御霊に従って行きます。健康な心で考えもすばらしいのです。不必要な心配にも動かされず、詰まらない妬みにも縛られません。いつも明るい心で生活し、そのために体も健康にされて行くでしょう。
 私たちも、この御霊が心の王座を占め、いつも御霊と交わり、心が御霊と結ばれていなければなりません。そうすれば、私たちの心は健康にされ、考えも肉体も導かれて行きます。このような人は、御霊に導かれているために、神様のことを分かるようにされます。神様の恵みを恵みとして受け入れます。すべてのことを見る時に、その中に恵みや感謝を覚えるようになります。ローマ8:2〜5。物事を御霊によって悟って、分別することができます。これが、神の知恵です。どんなにすばらしいことでしょうか。
 クリスチャンになった時から、主の御霊が私たちの心に住んでいて下さいます。ヨハネ14:16-17,26。信仰は、成長して行くものです。その大きな分岐点が御霊の信仰です。それが、信仰の恵みを体験できるのか出来ないのかくらいの大きなの違いをもたらします。信仰があるのかないのかくらいの違いをもたらします。私たちが霊的に造り変えられるのに、決定的な役割をするが御霊の働きです。主の御霊が私を満たすと、自分の命が生き返って、悪の本性が弱くなります。以前は罪に翻弄されていた者が、罪に引き回されなくなります。以前は不安の中にあったのに、安定と安らぎがあるようになるのです。これが、御霊に属する人に与えられる恵みの生活です。
 イエス様が私の救いのために十字架にかかられたことを信じてください。そこから御霊の働きが始まります。すでに信じているならば、御霊と交わり、御霊に導かれる生活を享受しておられますか。イエス様を信頼して下さい。主の御霊を心の王座に迎えて下さい。恵みの生活が始まります。驚くべき変化が現われます。深かった傷が癒されます。劣等感や敗北感から解放されます。人生の虚しさから救われます。そして、新しい人に生まれ変わったかのように、喜びや安らぎ、希望が生じて来ます。ピリピ4:7。

V−肉に属する人、ただの人の証拠−1〜3
 三番目に登場するのが、きょうの学びで重要となる「肉に属する人」です。1節。肉に属する人、サルキノイスのサルクスとは、「肉」ということです。いわゆる肉体ということではなく、神から離れた人間性、罪に動く人間の精神ということです。ここには、肉に属する人と同意語として「キリストにある幼子」とも言っています。イエス様を信じて、新しい命を受け、生まれ変わったのですが、まだ幼いということです。
 「御霊に属する人」と「肉に属する人」を比べてみましょう。十字架の福音を信じて救われた者は、御霊によって生まれ変わった者です。ヨハネ3:5〜6。しかし、まだ肉に属することから、古い人から脱け出すことができないでいます。幼子のことを考えてみてください。人ですが、まだ動物のようです。自分以外のことは分かりません。自分のだけして欲しいと利己的です。人の助けを必要とします。幼子は、自己中心なのです。
 「肉に属する人」は、明らかに救われた人なのですが、そのなすことは、「生まれながらの人」と変わりません。そこから脱け出すことができないのです。御霊が内に住んでくださっているのですが、罪の性質はそのまま残っているというのです。肉に属する人である「幼子」の特徴が、「乳を飲めるが、堅い食物は食べられない」という比喩で説明されています。まだ堅い食物は咀嚼できない、つまり、理解力がないということです。学問的理解力ではなく、人の言動や出来事を霊的に聖書的に理解することができない、ということです。私の期待するように反応してくれないから不満を持つ、私の言うことを聞かないから争う、私よりうまく行っているから妬む、私の気に入らないから憎む、そういうことが霊的幼子だというのです。3節。
 また、幼子は洞察力を持つことができません。見えることだけしか理解しません。人の言動や出来事について、その言動の背景に何があるかなどはまったく考えないで、自分の受けた感情だけで判断し、怒り、羨むのです。これが、霊的幼子です。私たちには限りがありますが、御言葉によって考えるなら、洞察力が与えられます。ヘブル4:12。祈りながら受け止めれば、神の知恵が働きます。霊的洞察力を発揮していますか。部分を見ながらも、全体を考えなければなりません。人の言動を見て、御霊の思いを持ちましょう。
 今日の箇所に、農業の譬えがあります。6〜8節。植える者がいて、水を注ぐ者がいます。そういうことが一つ一つされて、収穫となります。神様が成長させてくださると言っています。人々の言動を見て、妬んだり、争ったりするのでなく、この譬えのように考えるなら、洞察力がある霊的成人の受け止め方だと言うことができます。
 そして、霊的幼子は、具体化力がありません。尊い御言葉を聞いて、理解したら、私はどのようにしなければならないか、私はどう生きなければならないか、というように自分の生活に適用しなければなりません。御言葉の教えの具体化、生活化が必要です。御言葉を調べて、主に祈って、適用を求めましょう。妬み争うのは、すばらしい御言葉を学んでも、まったく具体化されていないからです。良いメッセージを聞いても、派閥争いに適用されていなかったからです。4節。霊的幼子は、御言葉を知識としてだけ受け取っています。
 肉に属する人は、「ただの人」とも言われています。3〜4節。彼らが、聖徒ではなく、普通の人のように歩んでいる、と言うのです。世の人々がするように、妬みや争いがあるからです。本当に残念な姿です。イエス様の十字架による救いはすばらしいです。救いは、神様の私たちに対する愛とあわれみのあらわれです。罪の赦しと天国への命を与えられ、神の子とされ、神の知恵と祝福を受け、それはもうイエス様のように造り変えられて行く、成長するという救いです。その保証として、聖霊が内に住んでくださっています。エペソ1:13〜14。それが、ただの人になっていいのでしょうか。
 最後は、驚くべき励ましです。9節。肉の属する人、成長していない幼子、ただの人となっている聖徒たちに対して、「あなたがたは神の畑、神の建物」だと言うのです。イエス様の十字架の福音を信じて、主の御霊が宿る者とされたので、彼らが今互いに妬み、争っているとしても、「神の畑、神の建物」なのです。だから、霊的に耕され、信仰が立て上げられて、「御霊に属する者」となれると励ましています。アーメン!



Tコリント
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
3:4 ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。
3:5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。
3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。
3:8 植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。
3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。



Tコリント2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

ローマ7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ローマ10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
8:3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

ピリピ4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ヨハネ3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

エペソ1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

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