2014年11月9日「土台であるイエス・キリスト」Tコリント3:10〜15
              (※デボーションの時に用いて下さい。)
序−私たちは、人生という建物を建てている建築家のようです。建物を建てる時、どのように建てるかということと、どんな基礎の上に建てるかということが大切になって来ます。妬みと争いで混乱していたコリント教会がこの点ではっきりしていませんでした。私たちの信仰の生涯は、この点においてどうでしょうか。学びながら、省みてみましょう。

T−教会や家庭という家を建てる−9〜10
 9節に「私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の建物です」とありましたが、パウロたちがコリント教会を建てあげるのに働いたけれども、何よりも神様が建ててくださったということが強調された比喩です。神が建てられたのだから、聖徒たちは「神の建物」だと宣言されています。聖徒たちは、御霊が内住しておられる家であるからです。ヨハネ14:16~17。その家の主人は、主なる神です。私たちが神様から離れるなら、何もありません。神様を否定するなら、動物のようになります。
 ですから、教会はどこまでも神様が中心です。神様がおられなければ、ただの建物です。教会に来るたびに神様に会うことが重要です。神様の言葉を聞く感激が必要です。それがなければ、ただ人の集まりにすぎません。パウロは、「賢い建築家のように土台を据えた」と言っています。10節。注意して、よく建てなければなりません。気をつけなさいと言っています。「賢い建築家」について調べてみましょう。教会を建てる時、神様は「神の協力者」を用いられました。9節。「神に仕える者」という意味です。
 仕える者を通して神様は働いてくださいます。ですから、そこには、いくつかのことが示されています。神様が用いるので、仕える者たちは建てることができるということです。そして、仕える者たちが互いに協力することが求められます。引き続きコリント教会を建てている、つまり教会を形成している聖徒たちが、主に用いられることを意識して、主の教会を建てているのだという栄誉を覚え、主に用いられる者同士協力して、主の教会を建てて行かなければなりません。マタイ12:25。
 私たちの家庭や私たちの人生という建物も同じです。私たちの人生や家庭も、神様のものです。Tコリント6:19〜20。私たちは、イエス様を信じた時から、神の聖霊の宮となりました。私たちは、イエス様の十字架の尊い犠牲という代価を払って買い取られた者です。ですから、私たちは、家庭や人生を神様のものとして建てなければなりません。神様のものですから、神様に用いられる、神の協力者なのです。仕事や様々な働きも、神様に用いられる思いですることが大事です。
 イエス様を信じた者は、主にあって生きようとする者は、神の賢い建築家とされたのです。どのように建てるかについて、注意しなければなりません。10節。私たちは、ただ流されて生きるのではなく、人生、家庭という神の建物を立てて行くのだという意識を持つことが大事です。そう思って歩み出す時、偉大な崇高な生涯が始まります。今幾つであってもです。

U−土台とはイエス・キリスト−10〜11
 どのように建てるか注意しなければならないのは、土台と土台を築く人の関係です。11節。土台とは基礎のことです。基礎と基礎工事は違います。堅固な岩があれば、それ自体が基礎です。そこに家を建てるのが、基礎工事ということができます。パウロは証ししています。「私は賢い建築家のように、土台を据えました。その土台とはイエス・キリストです」。10〜11節。私たちが土台を据える人であり、土台とはイエス様だというのです。これは、とても大事な証しです。パウロがコリント教会の礎となるのではなく、イエス様がその土台です。パウロは、その土台を据えたにすぎません。神の恵みによってできたのです。
 パウロは、アテネとコリントで、はじめどのような宣教をしていたかということを学びました。パウロは町の者たちと「論じ」たり、「承服させよう」としていました。使徒17:17〜18,18:4。その時パウロは苦しく、辛い時期でした。弱さや恐れも覚えました。しかし、幻を通して主の励ましを受けてからは、御霊に導かれて、福音を伝えました。そして、多くの人々が救われました。そうして「土台を据えられた」のです。キリストという土台に教会を建てて行くのに、紛争などありえない、同じ土台の上に協力して建てます。この原理をコリントの人々は見落としていたのです。
 そして、パウロは、「すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできない」と強く言っています。11節。これは一歩たりとも譲歩できない、絶対的教理だと強調しています。パウロたちが伝えた福音に反することを伝える者がいたなら、のろわれると言っています。ガラテヤ1:8〜9。福音の絶対性を言っています。「イエス様以外には、だれによっても救いはありません。イエス様の御名の他に、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」。使徒4:11〜12。人々を救いにはなく、滅びに向かわせることをしたら、主の前にどう申し開きできるのでしょうか。人の耳によく聞こえる宗教の多元化、相対化などはないのです。
 私たちは、どんなに謙遜であっても、この人生の土台についてだけは、譲れません。私たちの救いのために十字架にかかられたイエス様が土台です。ただイエス様によって、信じた者は罪の赦しを受けるのです。これが、真理であり、いのちです。決して譲歩できません。イエス様が私たちの救いの根本だからです。これが、パウロの信仰告白です。この福音の上に教会が建てられて行くのです。
 そして、私たちの家庭と人生にも、イエス・キリストという土台を据えなければなりません。イエス・キリストという土台の上に、家庭を人生を築いて行くのです。イエス様を家庭の土台に据える、これを私たちは、天に召されるまでし続けるのです。私たちの使命、世に生きた証し、何を遺せるのでしょうか。私たち自身、救い主イエス様を人生の土台として生きて、イエス様を家庭の土台と据えていくことです。

V−各人の働きの真価をためされる−12〜15
 「どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければならない」と言っています。10節。家は、どのように建てなければなりませんか。まず、土台が重要です。次に材料、何をもって建てるかが重要です。私たちの家庭、人生の土台はイエス様です。ですから、何をもって建てるか考えなければならないというのです。家を建てるのに、いろいろな材料があります。12節。木、草、わらで建てるのか、金、銀、宝石で建てるのかということです。尊いもので、残るもので人生を建てなさいということです。
 すべての人が、地上の生涯をかけて人生や家庭という家を建て上げます。とりわけ、私たちは信仰の人生という霊的な家を建てます。しかし、人はそのようなことを考えません。そうして、「なぜ、この家はこのようなのか」「どうして、私の人生はこんななのか」と言うのです。誰でも家を建てているのです。家庭を築き、家系を残します。このことを知らなければなりません。やがて、その建て方の結果が明らかになります。13節。「その日、各人の働きの真価をためされる」と言います。その日とは、キリストの日、イエス様が再臨され、終末の完成のときです。何で人生を建てて来たか、主の前で明らかにされるというのです。
 しかし、その日という終末を迎える時以前にも、患難や人生の嵐の中で明らかになります。お金、名誉、権力、これで人生建てられたと思っても、過ぎてしまえば、なくなってしまうもの、燃えて残らないものです。火で燃えないもの、つまり、患難や人生の嵐の中でも耐え、なくならないもので人生を建てなさいというのです。信仰で人生を建てるのです。福音の御言葉で家庭を築いて行かなければなりません。突然人生に嵐が吹き荒れる時、災害に出会う時でもなくならないもので家を建てるのです。
 本当に真実な信仰と希望と愛で建てられなければなりません。最後に重要となるのは、「働きの真価」です。13節。家庭や人生を建てる「働き」ということです。患難や人生の嵐の中で、その建築家としての働きの真価が問われ、世の終わりには、主の御前で、働き真価がためされるのです。今何を土台に家庭を築いていますか。イエス様が家庭の土台となっていなければ、その働きはむなしくなります。詩篇127:1。今何をもって人生を建てていますか。朽ちない御言葉で建てて行きます。
 私たちは、神の家を建てる者です。ですから、私たちは真実に信仰の生涯を生きなければなりません。いつか、今の生き方が明らかになる時が来るでしょう。今苦しくても、今うまく行かなくても、キリストの土台に建てているなら、残ります。14節。報いを受ける時が来ます。顧みてくださいます。今肉で生きてうまく生きたとしても、いつか真価が問われ、残らなくなります。15節。損害を受けるとは、報いを失うということです。マラキ4:1。イエス様を土台に据えなければ、人生の嵐の時に流されてしまします。マタイ7:26〜27。
 やがて、私たちはみな、各自の行為に応じて報いを受けると教えています。Uコリント5:10。恐ろしさを覚えますが、イエス様の救いを受けた者には、慰めに満ちたものです。「火の中をくぐるようにして助かる」というのは、危機一髪のところでも守られることです。火の中をのがれるようにして救われるという慰めです。ですから、今私たちは、新たな思いをもって、信仰の生涯を、家庭と教会を建てて行きます。Tペテロ2:4〜5。



Tコリント
3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。
3:10 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。
3:11 というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。
3:12 もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、
3:13 各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。
3:14 もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3:15 もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。



マタイ12:25 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。

Tコリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

ガラテヤ1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。

使徒4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

詩篇127:1 【主】が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。【主】が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

Uコリント5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

マタイ7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。

Tペテロ2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

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