2014年11月30日「キリストに仕える管理者」Tコリント4:1-5

序−私たちは、どう生きるのか、どう働くのか、聖書はどのように教えているのか、知らなければなりません。そのために、今日の箇所では、管理者への譬えで説明しています。「キリストに仕える管理者」と言います。

T−キリストに仕える管理者−1〜2
 パウロという人は、福音について自分が信じて、自分が体験し、消化したことを証ししています。どう働くか、どう生きるかについてもそうです。1〜2節。コリントの聖徒たちは、自分の肉のプライドで、パウロ派だ、アポロ派だと争っていましたが、主の働き人はみな「キリストに仕える管理者」だと言うのです。私たち聖徒たちすべてがそれぞれの人生の立場において、「キリストに仕える管理者」だという自覚があれば、何派だと争ったり、人と比べて妬んだりしません。人の声に左右されません。
 パウロは、「キリストのしもべだ」と考えてくださいと言っています。「しもべ」という原語ヒュペレテスを直訳すれば、「底で櫓を漕ぐ者」となります。ローマ時代、ガレー船の船倉で多くの人々が櫓を漕いで、船を走らせていました。号令一下、右へ左へと、速くしたり遅くしたり、他の漕ぎ手と合わせて漕ぎしました。漕ぐ人たちは、どこへ進んでいるか分からなくても、懸命に漕ぎました。
 つまり、「キリストのしもべ」とは、キリストの指令のもとに行動する者です。イエス様の導きに従って、他の者と合わせて行動します。Tペテロ4:10。イエス様の指令のもとに行動しようとするなら、イエス様と交わりを持たなければなりません。イエス様の御心を知らなければなりません。イエス様とともに歩むのです。主と交わりながら生きる者でなければなりません。私は、イエス様の漕ぎ手、イエス様に仕える者の一人です。私のすることはみな、イエス様が私に命じられたことであり、イエス様の御業です。それをなしたら、イエス様に報告するだけです。マタイ25:20,22。
 なんと言う素晴らしい立場でしょうか。その姿勢、光景は何と清々しいものでしょうか。私たちは、死に至るまでイエス様に仕える者であることを忘れてはなりません。主のしもべ、主に仕える者なのに、自分が中心で、自分の思い通りに神様にさせようとするなら、主に仕える者ではありません。イエス様に仕える者は、自分がどこへ行くかというより、船長であるイエス様に従って行くだけです。「これが、イエス様の御心か」と考えて進むのです。船底で櫓を漕ぐ者、これがイエス様に仕える者の姿と分かれば、どのように家庭や社会で生きるか、働くのか、導きがあるでしょう。
 また、主に仕える「管理者」に譬えられています。管理者と訳されていることばは、オイコノモス、オイコスが家でしたから、家の管理者ということです。主人から家のこと全般を委ねられた管理者のようだというのです。マタイ25:14~15。主婦が家族や家のあらゆることを管理するようなものです。その働きの権限は大きく、家族の人生に関わる責任は重大です。私たちは、職場、家庭等社会で様々な働きや責任を担っています。イエス様からその管理を委ねられた者だと考えるのです。
 とりわけ「神の奥義の管理者」と言われています。私たちには、福音が与えられ、御言葉の真理が託されています。聖霊の導きによって、主の御旨を知ることができます。主の御旨に叶う歩みをしようとするなら、知るようになります。霊的造り変えが進むなら、御言葉を通して主の御心、御言葉の真実を教えていただくようになります。
 ですから、主に仕える者は、忠実ででなければなりません。2節。忠実と訳されたことばは、信頼するという意味です。主人を信頼し、主人に信頼される管理者ということです。私たちがイエス様を信じた時、罪の赦しと天国への命を与えてくださっただけでなく、私たちを信頼してくださって、恵みの管理者として賜物をもって仕える者とされています。Tペテロ4:10。

U−私を裁くのは、人でも自分でもありません−3〜4
 私たちが人々の中で働いて、生きる時、問題になるのが、人の評価です。職場や家庭や社会ではもちろん、教会においても、人にどう見られているかが気になります。このことが、コリント教会での妬みや争いの原因になっていたようです。3〜4節前半で繰り返し出て来る表現に目をとめてください。「判定」「判決を受ける」「さばくこと」「無罪とされる」「さばく方」という言葉が繰り返し出て来ます。評価というより、人を裁くという思いが、一部の聖徒たちを妬みや争いへ引いて行ったようです。人が肉の思いになる時あらわれる罪が、この人を裁くということです。私たちも例外ではありません。互いに人を裁き、自分も人の評価を気にしているのではないでしょうか。私たちが福音によってここから脱却しなければ、私たちもまた、妬みや争いに引かれ続けるでしょう。
 三つのさばきについて語られています。一つは、「あなたがたによる判定、人間による判決」です。つまり、「他の人からのさばき」です。他の人から評価され、評判を聞くことは、大切です。他人の判断は、自分が自分のことを考えるよりも結構的を射ているものです。「自分に真実を言ってくれるのは、ひどく腹を立てた敵と自分を愛してくれる友の二人だけだ」とも言われます。聞く耳を持たなければなりません。
 しかし、使徒は何と言っているでしょう。「非常に小さなことです」と言っていうのです。コリント教会の中で、自分の肉の思いを満足させたい人々は、パウロが気に入らないと、パウロを裁いていました。しかし、キリスト中心、十字架の福音に仕えるパウロは、そのようなものに煩わされませんでした。人のさばきなどから超然としていられることが、忠実に主に仕える人の強みです。人にどう見られているか、人の評価が気になって仕方がないという人がいます。人の顔色を見てがっかりしたり、プライドが傷ついたと怒ったりします。それで人生を翻弄される人が多いです。人の勝手な判断、悪意のさばきなどで、自分を造っていいのですか。
 人からさばかれるだけでなく、人は、「自分をさばく」こともします。それは、それでよい面もあります。悔い改め、成長することができます。しかし、自己評価は、罪と肉の思いでずいぶんと曇らされてしまいます。独善的になったり、自己否定にもなったりします。人間の特性は、「自分と仲良く暮らせる能力」だとも言います。人がどうしても逃れることのできない人間は、自分自身です。自分自身と暮らさないわけには行きません。ですから、自尊心を失い、自分をまっすぐ見つめることができなくなった時、人生は耐えがたいものになります。
 パウロは、何と証ししているでしょう。「自分で自分をさばくことさえしません」と言うのです。噂話や悪態をついても、妬み争っても、反省しない、と言っているのではありません。「私にはやましいことは少しもありませんが」と誠実に証ししています。私たちは、とてもこんなことは言えません。やましい所も責められる所もいっぱいあります。続けてパウロは「だからといって、それで無罪とされるのではありません」と証ししています。罪無しと認められたのは、ただイエス様の十字架の犠牲のゆえです。ローマ4:25。この救いの原理に立つ時、私たちは他人の判定からも、自分のさばきからも自由にされているのです。そして、この救いの恵み応答して忠実な管理者として働き、クリスチャンとして良い行いをして生きて行くのです。エペソ2:8〜10。

V−私を評されるのは主です−4〜5
 パウロは、自分たちを管理者に譬えて、話しています。管理者を判断し、裁くのは誰でしょう。管理を委ねた主人です。つまり、私たちにとっては、主キリストです。4節後半。パウロは、「私をさばく方は主です」と告白しています。私の主であるイエス様が、私をどう見ておられるのか、どう判断されているのか、これが健全な信仰者の姿です。
 ですから、人のさばきや自分の判断に揺さぶられてはならないというのです。5節。なぜでしょう。「主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされ」るからです。神様は、すべてのことをご存知です。私たちが、不用意に言った噂話、気にも留めない悪口雑言ばかりでなく、心の中で抱いた憎しみや怒りまで、主の前には明らかなのです。いや、人の知るところともなります。ルカ12:3。主だけが本当に知っておられ、裁くことができます。私たちは、やたら裁きますが、何も知ってはいません。むしろ、口を閉じていた方がよいでしょう。
 妬み争い、心に怒りや憎しみを持つ私たちが、たとい人の裁きを免れても、神様の裁きから免れることはできません。人に痛みや悲しみを与えままにせず、裁かれないうちに悔い改め、福音によって変えられなければなりません。神様が人を裁くのですから、私たちは誰も裁かないようにしましょう。ヤコブ4:12。「隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」。
 主の忠実な管理者として働きたい、救いの恵みの応えて生きたい、と願う者には報いがあります。「神から称賛が届く」というのです。不当な裁きを受けている人々にとって、大きな慰めであり、希望です。ですから、人の悪口や批判に打ちひしがれ、倒れてはいけません。主の管理者として、家庭、社会、教会に仕え、家族や人々に仕えて行く私たちを評価し、称賛してくださるのは、イエス様です。忠実な主のしもべとして働き、生きるのです。やがて、天に召される時、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言っていただけるように生きましょう。マタイ25:21。



Tコリント
4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。
4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。
4:5 ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。



Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

マタイ25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

ローマ4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

ヤコブ4:11 兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
4:12 律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

マタイ25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

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