2014年12月7日「辱められる時にも祝福し」Tコリント4:6-13

序−ローマ帝国のカイザルは、「人は自分が見たいものしか見ようとしない」と言ったそうです。捏造記事も、読者が喜びそうな内容にしようとしてできるそうです。人は、相手に自分の肉の思いに合うような言動を求めるのです。そのために、私たちは葛藤し、翻弄されます。

T−高慢にならないため−6〜7
 パウロは、妬み、争うコリントの人たちに人に何と言っているのでしょうか。6節。「私たちの例によって」とは、「私たちがあなたがたの見本として自分たちを見せた」ということです。何を見せたのでしょう。
 人が向き合わなければならないのは、人の裁きではなくて、神の裁きであるということを学びました。そのことを思えば、私たちは、どれほど謙遜に謙虚にならなければならないことでしょうか。パウロ自身がその姿を見せています。主の前に生きるならば、謙遜にならざるを得ません。高慢になることもできません。人が人々を助け救おうとするなら、私たちは、人を裁くよりも、訴える態度を取るべきです。
 パウロは、御言葉に「書かれていることを越えない」ということをわきまえていました。パウロが伝えているのは、自分の考えを論じているのではなくて、神様の御言葉です。御言葉を曲げないで、御言葉のまま従いなさい、というのです。御言葉は、高慢の罪を繰り返し警告しています。Tテモテ6:4, 箴言18:12。謙虚に高慢になるな、という御言葉に聞き従うのです。
 「学んだ」と訳された言葉マセテとは、弟子のことです。弟子は、言葉だけ学ぶのではありません。手本として学び、行います。学んで、生活の中で実践します。人が互いに妬み、争う時は、必ず高慢になっています。ここで高慢と訳された言葉は、普通の高慢の言葉ではなくて、「うぬぼれて、心が膨らむ」という意味の絶妙な言葉が使われています。自分には知恵や力がある、と高慢になって、御言葉に聞き従わず、思い通りにならないパウロたちを裁き、互いに争いました。
 まず、私たち自身、高慢になっていないでしょうか。パウロの質問について考え、答えてみましょう。7節。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか」という質問です。みな挙って高く評価してくれるのですか。自分でうぬぼれるのですか。いいえ、ただイエス様に救われたゆでに、神様は私たちを高価で、尊いと言ってくださいます。
 そして、「何か、もらったものでないものがあるのですか」と質問します。自分に福音を伝えてくれた人がいて、自分に御言葉を教えてくれた人がいて、自分のために祈ってくれる人がいて、自分の信仰のために労する人がいて、自分が倒れた時起こしてくれた人がいて…、それで、今の自分がいます。それなのに、受けていないかのように、高慢になったのです。主のしもべパウロが、コリント教会の宣教と建て上げに労したにもかかわらず、自分たちの肉の思いに合わないと尊敬しませんでした。
 子どもは一人で大きくなるのでしょうか。私たちは一人で生きているのでしょうか。私たちは、持っている物、賜物すべて自分で生み出したものなのでしょうか。私たちは謙遜になって、人々に感謝の念を持たなければなりません。とりわけ、私たちクリスチャンは、すべて神様からいただいたものだと知っています。それを仕えるために用いるのです。Tペテロ4:10。

U−凱旋行列の王様と見せ物となった捕虜 −8〜10
 では、次に、高慢な人から裁きや批判にさらされる場合について学びましょう。高慢な人々がパウロに対する態度をどのように表現されていますか。やや風刺的に描かれています。8節。高慢になって、自分をすぐれた者と思い、自分の力ですべてを得ていると思い込んでいる人、自己中心になって、相手に自分の肉の思いに合うような言動を要求する人がいます。そのような人を何と言っていますか。
 「王さま」です。気にいらなければ、人を批判し、裁き、怒りをぶつけます。周りの者が自分の思うように振る舞うことを求め、文句を言います。パウロを裁く人々は、まさに「王様になって」います。まず、私たち自身王さまのようになっていないか、省みることをしましょう。肉の原理で生きる者となっている時には、私たちも王さまなのです。直接批判するより、このような風刺的に表現して、彼ら自身に気付いてほしいのです。
 妬み争い、パウロを悪く言う人々に対して、パウロは仕え続けました。王さまと仕える者の譬えは、読む者に心の痛みさえ覚えさせるものです。9節。「死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出され…見せ物になった」というのは、ローマ帝国の凱旋将軍の行列をイメージしているようです。勝利をおさめた将軍がローマに凱旋する時、兵士たちを引き連れ、戦利品を携えて、勝利と手柄を見せるパレードをしました。
 その行列の最後に捕虜たちの一群が見世物として連行されます。彼らは、しばしば競技場に連れて行かれて、野獣と戦い、死ぬ定めになっていました。まったく悪く言われる理由もないのに、批判にさらされ、とてもやりきれない思いになる場合があるでしょう。そのような状況がこれです。でも、「神が、…引き出され」と言うのです。私たちは、王さまのような人に接した時に、憤慨したり、悩んだりします。しかし、悲しまないでください。神様がそこの臨まれている、と信仰的に受け止めるのです。私たちは、批判や裁きを受けたとしても、人から受けたと考えないようにしましょう。神様がそれを通して働かれることを思いましょう。
 自分を誇示し、高慢になってパウロを批判した人々は、王さまのようになっていました。王さまに弁明し、理解を求めることは難しいものです。パウロにできることは、謙遜に仕え続け、キリストのために死ぬことでした。肉の思い、自我に死んでしまえば、王さまたちに仕え続けることができます。私たちの肉のプライドが、王様のような人に対して怒りを抱かせ、自分を痛めつけ、憂うつな心に陥るのです。見世物になりきれば、無念さもなくなります。
 私たちも、イエス様を信じた時、イエス様の十字架と共に、古い自分も死んだのです。ガラテヤ2:20。信仰的な人は、蔑まれることに耐えることができ、それによって神の知恵と恵みの力が示されます。王さまの前には、主にあって愚かな者、弱い者、卑しい者となればいいのです。

V−はずかしめられるときにも祝福し−11〜13
 使徒パウロは、自分たちが経験したことを記しています。10〜11節。ここに、この世の知恵に惑わされて、妬み、争っていた高慢な人々と、謙遜に人に仕え、労苦し、福音に生きて十字架の救いを証しした人々との姿が、対照的に描かれています。パウロは人一倍多くの苦難や迫害を受けた人でした。Tコリント11:24〜27。私たちは、これほどまでではないにせよ、不当な扱いを受け、謂れのない批判を浴び、労苦しても評価されないことがあるでしょう。でも、使徒たちはどうしたのですか。迫害を受けた聖徒たちはどうしたのですか。
 驚くばかりの証しです。12〜13節。「はずかしめられるときにも祝福し」たというのです。「迫害されるときにも耐え忍」びました。「ののしられるときには、慰めのことばをかけ」ました。なぜでしょう。批判し、裁く者たちをあわれんだからです。彼らは、そのような言動が主を悲しませ、主の働き人を痛めつけていることを知らなかった、自分の肉の思いを満足させるのに躍起で、自分たちが何をしているか分からなかったのです。イエス様は、十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」祈られました。ルカ23:34。私たちに悪態をつき、私たちの心を傷つける人々もそうなのです。それを思えば、そんな人をあわれんで受け止め、辱められても祝福し、罵られても慰めるようになるのです。
 主に仕える者は、自分たちを「私たちはこの世のちり、あらゆるもののかす」だと証ししています。13節。素晴らしい福音と十字架の救いに反して、互いに争い、うぬぼれる者たちの姿と、徹底的に低くなって仕え、人々のために労苦する主のしもべの姿が、対比されています。卑屈ではなく、崇高な姿です。あなたは、どちらを取るのですか。パウロのようにしたら、自分がなくなりますか。損な役割だと心配ですか。
 自分たちを見本としてほしいという使徒パウロ自身、「私がキリストを見ならっているように」と証ししています。Tコリント11:1。イエス様は、十字架に至るまで低くなられましたが、すべてにまさる栄光を受けられました。ピリピ2:8〜9。イエス様は、私たちのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。Tペテロ2:23〜24。罵られても罵り返さないという模範です。私たちの罪と苦しみを負って、十字架にかかられました。それによって私たちの傷を癒してくださいます。パウロはイエス様にならい、自分を批判する者に仕え、あわれみ、祝福しました。そして、歴史の残る人となりました。私たちも、辱められても祝福し、罵られても慰めのことばをかけます。そのように歩み、天国へ召される時、「よくやった。忠実なしもべだ」と称賛されたいのです。



Tコリント
4:6 さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。
4:7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。
4:8 あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。いっそのこと、あなたがたがほんとうに王さまになっていたらよかったのです。そうすれば、私たちも、あなたがたといっしょに王になれたでしょうに。
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
4:11 今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。



箴言18:12 人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。

Tテモテ6:4 その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ルカ23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

Tコリント11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

Tペテロ2:21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
りなさい。

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