2014年12月14日「私にならう者となってください」Tコリント4:14-21

序−今日の箇所には、本当に羨ましく、あまりにも気高く感じてしまう一言があります。互いに妬み、争い、使徒を裁く高慢なコリントの人々に対して持っているパウロの思い、姿勢です。信仰者として人に仕えて、人を助ける私たちに何が必要なのか、ここから大切なものを学びます。
 
T−愛する私の子どもとして−14〜15
 王さまと見世物の譬えは、気付く人には、恥ずかしさを覚えさせるものだったでしょう。パウロにそのような酷いことをしてしまって、申し訳ないという思いへ導かれた人もいたでしょう。だからと言って、彼らを責めて、ごめんなさいさせることを目的としてのではないと言います。14節。「愛する私の子どもとしてさとすため」と言っています。親ならば、子どもをはずかしめようとは思いません。「さとす」という言葉自体、父親が子どもたちに与える注意や忠告をあらわす言葉が使われています。パウロは、愛する子どもを訓戒するような気持ちで書いているというのです。いわゆる「信仰上の親」として、この手紙を書いているというのです。
 人々をキリストに導くことになった人と導かれる人々との間には、特別の関係が生じます。15節。「養育係」という見慣れない言葉が記されていますが、当時裕福な家庭では、信頼のできる奴隷が、その家庭の子どもの家庭教師として、学びだけでなく生活全般まで教え、導いていました。謙遜に仕えて、教え、助けるという姿をイメージした時に思い浮かぶ人でした。しかし、パウロは、そんな養育係が多くいたとしても、そんなものじゃない、「親」だということです。
 なぜ養育係ではなく、親なのでしょう。「福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだ」と証ししています。パウロを気に入らないと高慢になっているコリントの人たちでも、彼らの救いのために、信仰の成長のために労苦したパウロにとっては、自分は彼らの「生みの親」なのです。ここに、他の人をイエス様に導くことに用いられた人と、導かれた人々との間にある霊的な関係が示されています。救いとは、福音に生きるとは、死から命へ移っているのですから、自分に福音を伝え、光をもたらしてくれた人のことを忘れることはできません。ヨハネ5:24。人々に福音を伝え、信仰生活に導く私たちも、「あなたがたを生んだ」ということを、覚えていなければなりません。
 ここで、注意しておかなければならないことは、「福音によって、キリスト・イエスにあって」ということです。子どもを生み育てる時に父母のように労苦するのですが、信仰の人が生まれ、成長する時、真に働かれるのは、神様だ、主だということです。人が救われ、霊的に造り変えられて行くのは、聖霊の働きです。ただそれでも、人が福音によって救われて、新しい命に生きて行くのに、労苦する人が必要です。ガラテヤ4:19。その人に「キリストが形造られるまで産みの苦しみをして」行くのが、私たちの働きです。そのように、子どものために、人の救いと信仰の成長のために労苦する私たちを通して、主が働かれるのです。
 その労苦の報いは、どうなのでしょうか。かわいい子どもの顔を見ただけで、成長した子どもの姿を見るだけで、親の労苦の報いがあると言われます。同じように、救われた人が新しい命に生きて行くこと、霊的に造り変えられて信仰の恵みを享受して行く姿が、そのために労苦する私たちへの「望み、喜び、誇りの冠」となります。Tテサロニケ2:19〜20。

U−キリストに倣う私にならう者となって−16〜17
 子どもが成長して行くためには、当然必要なことがあります。教育と共に、見習う対象、ならうべき模範や手本です。弟子ならば師匠がいるようにです。パウロが、生みの親のような気持ちになって、コリントの人々にこうなってほしいと切に願うならば、そのモデルを示さなければなりません。そこで、パウロは驚くべきことを言っています。16節。
 「私にならう者となって」と、どこの親が、どんな人がこう言えるのでしょうか。でも、考えてみてください。子どもは、見習えと言われなくても、無意識に親にならっているものです。親のあんな所は嫌だ、ならいたくないと思いながら、見習ってしまうことも多いのです。親を見て育つからです。弟子が技術を習得する時、言葉だけでなく、実際に師がするのを見て習得するものです。躾けようといくら口で言ったところで、幼子は周りの人の姿をみならうのです。ですから、私たちは、生き方が問われるのです。私たちの生き様が子どもや人々に影響を与えているのです。
 もとより、「私にならうものになって」というパウロは、自負心からそう言っているわけではありません。純粋な気持ちから言っています。親は、子どもを生んだ時からすぐ、こうなってほしいという切なる願いを持ちます。願うだけでなく、子どもに本を読ませたり、映像を見せたりしますが、最も効果的なモデルは、親自身なのです。目標にもなり、反面教師ともなります。世の親のどれだけの人が、このことを意識していることでしょうか。私たちは、意識をして、一日一日を大切に生きたいのです。
 信仰の親も同じです。「私にならう者となってください」とは、当然なことです。さらに、彼らがパウロにならう者となる助けのために、同労者テモテを派遣すると言います。17節。パウロがコリントでした生活態度、言動、教えが、「キリストにある生き方」であり、「私にならう者となって」と言いうるようなものであったとは、驚くべきことです。私には無理だ、パウロだけだと言ってしまうのではなく、私たちもこのように言えるように心がけようという思いだけは持ちたいのです。
 ここで、コリントの聖徒たちに、「キリスト・イエスにある生き方を思い起こさせてくれる」と言っているところに注目しましょう。コリントの高慢な人々が互いに妬み争い、パウロを批判し裁くのは、故意に御言葉に反逆しているのではなく、大切な御言葉の適用、真実な御霊の原理による生き方を忘れているからだというのです。私たちも、人々に対してこのような思いやりを持ちたいものです。考えてみましょう。私たちも、イエス様に反逆しているわけではありませんが、イエス様のことをすっかり忘れていることがあります。御言葉の適用がまったく意識されていない場合も多いのではないでしょうか。
 私たちにとって必要なことは、イエス様の救いによって新しく生れたことを覚えて、イエス様と共に生きる熱い思いです。イエス様が「わたしをおぼえなさい」と言われたのは、聖餐式の時だけではなく、日々、生活の中で、人々との関わりの中でイエス様の救いを思い出すべきなのです。礼拝の生活や兄弟姉妹との信仰の交わりが、互いに「キリストにある生き方を思い起こさせる」ものとなりますように願います。
 パウロが「私にならう者となってください」と言っても、それは自分が完璧だからと言うのではありません。Tコリント11:1では、「 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください」と言っています。このパウロの姿勢において、私たちも、「私にならう者となってください」と言えるのです。いや、言わなければなりません。たとえはなはだ欠けや足らざることが多くても、失敗や間違いあっても、この信仰の姿勢は変わりません。イエス様にならう目標は変わりません。

V−神の国はことばにはなく、力にある(信仰の親の権威)−18〜21
 コリントの人々の中にいる「思い上がっている人たち」は、パウロがいないのをいいことに、人々を言葉巧みに扇動していたのです。18〜19節。ですから、パウロは、道が開かれれば、行きますよ、はっきり間違いを指摘しますよ、と言うのです。21節。きびしく戒めるために行くのと、愛の交わりのために行くのと、どちらを望みますか、問うています。これは、彼らの悔い改めの機会を待っているのです。キリストにある子どもたちに対するパウロの愛です。
 「あなたがたは王さまで、私たちは見世物の捕虜だ、あなたがたは賢く強いが、私たちは愚かで弱い者だ、世のちり、かすだ」と言っていたパウロが、どうしてこのような強さを見せているのでしょう。「キリストのために、弱い時にこそ強い」と言っています。Uコリント12:9〜10。「 私がキリストを見ならっているように」というところに、パウロの強さがありました。自分の肉の力や知恵を誇って、強くなっているのでは有りません。私たちも同じです。イエス様にあって強い、「イエス様を見ならっている」なら、私たちは確信を持って人に対するのです。
 信仰の親は、自分の肉の力によるのではなく、神の国の力に拠り頼みます。19節で「思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう」と言い、20節で「神の国はことばにはなく、力にあるのです」と宣言しています。肉の自分が王座を占める王国と福音が支配する神の国が対照されています。コリントの思いあがっている人々は、論争好きで論争のことばを自慢しました。それが、人々を争わせ、教会を混乱させていました。しかし、パウロは、イエス様の十字架が自分を救う力を体験し、御言葉が人々を造り変えて行く力を見ており、自分が伝える福音が人をキリストにある生活に導く力を確信していました。ですから、「 あなたがたも私を見ならってください」と言えたのです。Tコリント11:1。私たちの証しの生活が、人々をイエス様の救いに導き、その生き方や人生に大きな影響を与えることを覚えて、真摯に信仰に生きましょう。Tテサロニケ1:5〜6。



Tコリント
4:14 私がこう書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです。
4:15 たといあなたがたに、キリストにある養育係が一万人あろうとも、父は多くあるはずがありません。この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
4:16 ですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。
4:17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。
4:18 私があなたがたのところへ行くことはあるまいと、思い上がっている人たちがいます。
4:19 しかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして、思い上がっている人たちの、ことばではなく、力を見せてもらいましょう。
4:20 神の国はことばにはなく、力にあるのです。
4:21 あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。



ヨハネ5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

Tテサロニケ2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
2:20 あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです。

Tコリント11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。

Uコリント12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

エペソ6:4 父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。

Tテサロニケ1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。

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