2014年12月21日「生まれてよかった」イザヤ9:1〜7

序−今世相は大変生きにくい時代だと言われています。仕事も、家庭も、学校も先の見えない、混沌の中にあります。この箇所は、昔々国の分裂や他国の攻撃で暗く苦しみの中にあった人々に対するメッセージです。しかし、この箇所は救い主イエス様の予言として有名なところです。そこにクリスマスとは私たちにとって何かということが示されています。

T−心の闇に光が照った−
 1-2節。「苦しみのあった所にやみ、闇の中を歩んでいた、死の陰の地に住んでいた」とありますが、苦しみや不安でいっぱいだった民の心が「闇や陰の中」のようだと言われます。神様を知らずに、背を向けて歩んでいた人の心は、太陽に背を向けていると自分の前に影ができるようだお言われます。
 どんな陰、闇があるのでしょうか。たとえば孤独感だったり、劣等感だったり、自己嫌悪感だったりします。過ちや癒されていない過去の傷だったり、性格上の悩みだったり、罪責感だったり、失敗や挫折感だったりします。また、家庭の歪みや混乱した家庭生活もあります。どんな家庭にも問題があります。多くの人々が、問題を抱えて悩み、苦しんでいます。様々な人間関係を通して悲しみ、傷を受け、怒り、憎みます。恐れや不安感も抱きながら生きています。評価や責任の重荷の中で働いています。人生が楽しいように思えない、一生懸命生きて何かいいことあるのか、勉強したって、意味があるのか等と、空しさのために心に穴が空いているような思いもします。
 人には、何かが偶像になっています。人の評価、業績、お金、権力、自分の肉の思い等々、それ自体悪いことではないかもしれませんが、それが中心になり、囚われ、動かされていると、偶像になっています。これが、大きな心の闇、陰となります。どこをどう歩んでいるか、分かりません。
 そういう生い立ちの傷や心の病んだ部分が、ずっと生涯その人を捕らえて、人生に悪影響を及ぼします。このような心の陰や闇を抱えて生きるのは辛いし、空しいです。時々何かの時に現れて、問題を引き起こしたりします。皆さんはどんな傷や悲しみ、憎しみや怒り、不安や失意を抱いておられますか。
 そんな私たちの心に、救い主が来られたのです。「しかし、苦しみのあった所に、闇の中を歩んでいた者たちの上に光が照った」のです。1〜2節。救い主イエス様が来られたからです。ヨハネ1:4〜5。救いの光です。イエス様は、私たちを心の闇から解放するために十字架にかかられました。ですから、イエス様が来られたことは、心の傷や悲しみ、憎しみや怒り、不安や空しさでいっぱいの人生に、救いの光として輝いたということです。イエス様の光は、私たちの罪を赦し、心の傷を癒します。イザヤ 58:8。救い主イエス様が来られたことは、私たちの人生に光が注いだということです。どうしてクリスマスというと、光のイルミネーションだらけなのか、これでもかとことさら明るくしています。心の闇が光を求めているのです。
 救い主イエス様という光を心に受けて下さい。ヨハネ12:35〜36。イエス様を自分の人生の救い主として迎えた時から、心の癒しと命の回復が始まります。人生の意味と目的が分かり、人生が整えられて行きます。私たちは自分で、心の闇を消し去ることができません。罪を無くすことができません。命をどうすることもできません。しかし、イエス様が救い主として来られ、私たちの罪を背負い、悲しみ、苦しみ、恐れを代わりに負ってくださしました。天国へ行ける命を与えてくれました。これを信じるなら、心の闇から解放されます。イエス様と共に歩む人生は、光り輝いて来ます。ピリピ2:15〜16。

U−赤ちゃんとして来られた救い主−
 私たちの救いのために来られる救い主は、「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」と告げられました。6節,7:14。そして、預言通り、イエス様がお生まれたのが、クリスマスです。ルカ2:8〜12。なぜ、イエス様は赤ちゃんとしてこの世に来られたのでしょう。多くの軍勢を従えた王様のような姿の方が自然でしょう。それなのに、何もできない赤ちゃんとして、それも、家畜小屋で誕生し飼い葉桶がベットでした。そして、人として貧しい、苦しい生活を味わわれました。労働の苦しみ、空腹も経験されました。人の無力さに悲しみ、涙を流されました。心の葛藤、試みも経験されました。気に入らないと人々から嫌われ、憎まれ、蔑まれにしました。イザヤ53章。人が味わい、経験する闇や陰のようなものをすべて受けられ、負われたのです。
 人は赤ちゃんとして世に生まれた時から、人の闇や陰の影響を受けながら育ちます。父母の心の痛みの中で生まれて来たり、疎まれたりします。家庭の歪や混乱を身に受けて育つこともあります。生きることの意味、目的が分からず、人生の空しさ、生きることの辛さを味わいます。人間関係にも苦しみます。嫌われ、憎まれ、蔑まれることもあります。不安や恐れ、失望や落胆に苛まれたりします。しかし、イエス様は、赤ちゃんとして世に来られました。その私たちの人生のすべてを経験され、ご存知です。イエス様自身、私たちが経験する以上のことをその身に受けられました。私たちの心の闇、空しさや苦しみのすべてをその身に、十字架で負われました。私たちを心の闇から解放し、生きる意味を見出し、生きる幸い喜びを持つためです。イエス様を救い主として、あなたの心に迎えて下さい。
 私たちの自己像を傷つけてしまう原因の一つに、否定の評価があります。愛されていない、受け入れてもらえない、という人から受ける拒絶感が、やがて自分自身による自己否定になり、自分を傷つけ、束縛するようになります。そして、その痛みを背負い、存在の否定、拒絶というメッセージを次の世代に受け継いで行きます。脳科学が言うのに、脳は一人称で受け止めるという言い方があります。聞くことすべて、自分に言われていると認識するというのです。自分で人の悪口を言ったり、自分で悲観的に嘆いたりするのも、みな自分に言われていると聞くのです。
 赤ちゃんとは何でしょう。「何もできない者、ただ愛される存在」です。「あなたは生まれた時から愛されている。救い主イエス様を信じなさい。」というのが、聖書のメッセージです。あなたが赤ちゃんの時から、イエス様はあなたの救い主です。生まれたその時から、あなたの罪も傷も負って下さいました。誰でも「おいたちの傷」があります。歪んだ自己像があります。いつもその人の人生に関わって、表面に出て来るおいたちの傷があれば、普段は隠されていて、何かの時突然出て来るものもあります。
 闇や陰のところにイエス様に来てもらいましょう。その時の痛みも、その時の悲しみも、その時の罪責感もみなイエス様は負って下さったのです。イザヤ53:5〜6。「大丈夫だよ。わたしがその時の傷や痛みを受けたよ。その時あなたを愛したよ。あなたは赦されているよ」とおっしゃって下さるのです。

V−生まれて来てよかった−
 ここで、イエス様のことを「不思議な助言者」と言っています。カウンセラーということです。困った時悩んだ時、イエス様に相談しながら人生を生きて行けるということです。聖書を読んだり、メッセージを聞くということも、イエス様の助言を聞くようなものです。神様が私を世に生まれさせた、意味があって生まれている、生かされている目的がある、神様はイエス様を十字架の渡されるほど私を愛している、そう分かって来ると、生きる希望、力がわいて来ます。勉強する意味、働く目的も教えてもらえます。どんなことに私を用いてくれるのか、そのためにどんな賜物を私に与えてくれるのか、と思うと楽しくなります。生きて行く力も与えてくださるのです。
 たまたま生まれて来たのではなくて、大切な存在として世に生まれて来たのです。親も子どもを自分が生んだと思わないでください。子どもは天からの授かりもの、つまり神様から預かったものですから、神様の助けを求めながら育てるのです。自分の思うように育てようとするから大変になります。闇や陰が影響します。聖書から多くの助けが学べます。神様により頼むなら、責任だって取ってくださいます。
 神様は、私たちの罪を取り除き、心の闇、陰の束縛から私たちを解放するために、御子イエス様を世に送り、やがて十字架にまで渡されたのです。これほどまでに、私たちを愛していて下さったのです。ヨハネ3:16。神様は、私たちとの交わりを回復させ、私たちが神様の愛によって癒され、愛の中で育まれ、幸いな、素晴らしい人生を送ることができるようにして下さったのです。どうぞ、この聖書のメッセージを受けて下さい。
 救われるということは、私たちも神様の愛される子供となるということです。素晴らしい特権です。ヨハネ1:12。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と愛し、認めて下さいました。イザヤ43:4。この救いの原則をキャッチした時、私たちははじめて、「自分は愛される価値がある者だ」と心が健康になれるのです。人の評価を気にし、他人との比較することが、劣等感に陥らせ、高慢にし、不健康にします。誰かが自分を愛してくれ、誰かが認めてくれればと思っても、人は当てにできません。人の心の闇が自分を否定したり、拒絶したりするからです
 イエス様を信じて生きるということは、新しい命に生きることです。人生は変わります。決め付けないでください。自分の予想もしない人生がイエス様と共に歩む人生に用意されています。愛された存在として生きるのですから、自分がどのようになるのか、先は楽しみです。ですから、生かされていることは、恵みです。生まれたことはつまらないのではなくて、生まれて来て良かった、のです。生まれて来たことは、感謝です。感謝して、イエス様と共に人生を生きましょう。ヨハネ12:35〜6。



イザヤ
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。
9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。
9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。



ヨハネ 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった

ヨハネ 12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。
12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。

イザヤ 58:8 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、【主】の栄光が、あなたのしんがりとなられる。

Tペテロ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

イザヤ7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イザヤ43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

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