2014年12月28日「肉が滅ぼされ、霊が救われる」Tコリント5:1〜8

序−現代社会は、混乱の時代、喪失の時代と言われます。とりわけ倫理観の喪失が顕著です。人々は、今こそ大切なものは何か、自分が寄って立つべき揺るぎないもの何か、と探し求めています。そのような世に生きる私たちは、自分自身がしっかり福音に立って、聖書的価値観を持って生きて、それを証しして行くことが大事です。

T−罪の中に生きていたから−1〜2
 使徒パウロは、妬み、争うコリント教会の人々に対して、一つの事件を通して、自らを省みるようにさせています。教会に集まっている聖徒たちは、天使ではありません。私たちの内には、まだ恐ろしい罪の火種が残っています。きっかけがあればいつでも、罪が燃え上がります。妬みと争いの中にあったコリント教会の人々も、色々な事に熱心だし、多くのことを知っていました。しかし、彼らは、罪には鈍く、心新たにされていませんでした。1節。「父の妻」を直訳すれば、「父の女」です。そういう女性と父の死後関係していた人がいたというスキャンダルです。
 問題は、コリント教会の人々が深刻には考えなかったことです。2節。なぜでしょう。「人は環境の子」と言われます。人は環境に大きく影響されるものだということです。コリントという都市自体、道徳的に堕落しており、「コリント人」という言葉自体、不品行な人という表現に使われていたくらいです。商業都市、軍港都市として繁栄しており、大勢の人々が集まって来て、人の肉の思いを満足させるものがそろっていました。そういう文化の中に暮らしていたために、染まってしまうことが多かったようです。現代の大都市と同じです。
 よく誤解されるのですが、「教会は聖い人が行く所でしょう。私なんかとても」と言う人がいます。「いいえ、教会は自分には罪があると分かった人が集まっている所ですよ」と答えます。教会は、以前は分からないで罪で生きていたけれども、イエス様の十字架の福音を信じて罪の赦しを受け、新しい人とされた者の集まりです。罪を捨てて、聖書の価値観で生きる人になろうとしている人々です。もう過去の罪に囚われないで、新しい人として生きている人々です。それだけの違いです。
 ところが、この恵みを忘れてしまったのです。なぜ「誇り高ぶっている」と言うのでしょうか。コリント教会の人々が派閥争い、議論にうつつを抜かし、この事件を気に留めなかったようです。それは、彼ら自身が罪の習慣の中にあったということであり、その自分たちの罪、肉の思いに無頓着だったのです。互いに「妬み、争っていた」彼らは、自分たちが妬みや争いという罪を犯していたことをまったく自覚していませんでした。それは、「高慢」の何ものでもありません。
 そのようなことを知っても、「悲しむこともなかった」のです。聖徒たちといえども、罪赦された元罪人に過ぎません。自分の罪性には敏感でなければなりません。罪をただ批判し、非難すればよいということではありません。人の罪を見て、愕然として心痛め、みずからを省みるべきものなのです。パウロは、彼らがその事件を通して自分たちの罪の状態に気付き、悲しむことを願ったのです。マタイ5:4。イエス様を十字架にかけたのは、私たちの罪であり、イエス・キリストが十字架に死なれたのは、人々を罪から解放するためでした。ローマ6:6。
 コリントという罪と肉の欲にあふれた社会の中に生きていた彼らは、その影響を受け、その文化に染まっていたために、平気で互いに妬み、争っていたのです。不品行にも鈍感になっていたのです。周りの人々がそうしていれば、気付かなくなるものです。私たちも、気にもせず噂話をして、悪態をついてしまうことがないでしょうか。その危険性は、私たちもまったく同じです。私たちは、退廃した文化と自分勝手な価値観に瀕している現代社会、混乱と喪失の時代に生きているのですから。

U−罪を戒める目的は、救われ、聖められるため−3〜6
 手紙を書いた使徒パウロは、コンリトにいませんが、このように言っています。3~5節。自分の心はコリント教会にいるのと同然だと言っています。それは、コリント教会には、使徒の伝えた健全な信仰の根がおりている、ということです。それで、使徒がそこに行かなくても、手紙だけで悟ってくれる、私パウロがそこにいるようにしてくれると確信しているという意味です。私たちが自分の状況を理解し、どう対処すべきかという時、「イエス様ならどうされるか」(What would Jesus do?)と考えるようにと教えられています。これを思い出せは、助けられ、守られます。
 「さばきました。サタンに引き渡した」というのは、それをはっきり罪だとしたということです。罪は罪として認め、悔い改めようということです。罪を犯したらだめだとしたら、教会には誰もいなくなります。危険なのは、社会では普通じゃないか、誰でもしているじゃないか、皆言っているじゃないかと言って、自分もしてしまうことです。罪のまま放置したら、もっと酷いことになるからです。悔い改めが大切です。罪を悔い改めず、そのままだとしたら、それこそサタンの囚われ人になってしまい、滅びへと連れて行かれてしまうでしょう。
 罪を認め、悔い改めるということは、心の痛みを伴うことです。肉の思いとしては嫌なことです。自分は妬んでいた、人を憎んでいた、人ばかり責めていた、そんなふうに自分の肉の思いを素直に認めるのは、痛いことです。でもそれで、肉のプライドが死に、罪の価値観が滅び、古い自分が死ぬことになります。パウロのさばきの目的も、「彼の肉が滅ぼされ、彼の霊が救われるため」ということです。福音の目的もこれです。
 かつて肉のプライドに生きていたパウロは、自分がクリスチャンを捕まえることをユダヤ人が評価してくれるので、迫害しているとも思わず、高慢になって熱心に捕らえては牢に入れていました。追跡の途中、目が見えなくなった時イエス様の声を聞いて、悔い改めました。使徒26章。古いサウロは死んで、新しい使徒パウロとして生まれ変わり、宣教師となったのです。ローマ6:6〜8。イエス様の十字架が自分の罪の身代わりだと信じる時、古い自分も十字架につけられて滅び、罪から解放されるのです。
 私たちが気をつけなければならないことは、簡単に他の人を悪く言ったり、批判したりすることで、満足することです。人の罪を批判することで、自分がそのような罪に陥る可能性さえないような天使のような存在に思うことは、間違いです。私たち自身も、そのような罪に陥る危険があるからです。ですから、私たちは、人が罪に陥った時、深く憂い、悲しまなければなりません。そして、その人が悔い改めて、罪を捨てて、主に立ち返って来ることを願い、祈るのです。立ち返るために助けてあげることです。批判するばかりでは、たましいを死なせてしまいます。神様は滅びる者をあわれみ、愛して、イエス様を世に遣わしてくださいました。ヨハネ3:16。

V−新しい過ぎ越しの祭りを守る−7〜8
 パウロがここでこのような人の例をあげているのは、なぜでしょうか。私たち一人一人があまりにも罪に弱い存在だからです。6節。今彼ら自身、妬みや争いという罪にほんろうされていますが、やがて罪の影響をもっと受けて、もっと罪を犯し、悪くなってしまうでしょう。ここでいう「パン種」は、パン全体を腐らせてしまう菌のことです。日本の米?アスペルギルス・オリゼー菌は、美味しい味噌や醤油などを作りますが、近縁種のアスペルギルス・フラバス菌だと、人や家畜に癌を生じさせます。
 そのように、罪という悪いパン種は、多くの人々に悪影響を及ぼすのです。人に罪が生じると、それが周りの人々に広がります。「高慢」という罪は、悪い菌のようにその人の心に広がり、多くの罪を生じさせます。高慢は、他の人を蔑み、悪く言いながら、己の過ちや罪には無頓着です。悔い改めることをしません。コリント教会で混乱を生じさせていた人々は、まさにそういう人たちでした。
 「古いパン種、過越の小羊」というのは、過ぎ越しの祭りとその後に続く種入れぬパンの祭りのことです。7節。出エジプトの時、小羊の血を門に塗った民はさばきを過越してもらえ、救われました。その騒ぎに乗じて脱出したので、パン種を入れないで焼いたパンを食べました。出エジプト12章。その後続けられた除酵祭では、古いパン種を隈無く除いたそうです。それは、エジプトでの罪の生活方式、価値観を清算するということです。民の身代わりに過越しの子羊が屠られたように、私たちの罪と滅びの身代わりにイエス様が十字架にかかってくださいました。Tペテロ1:18〜19。
 最後に、新しい祭りをするように命じています。8節。彼らにも、イエス様を信じる以前の思考方式が残っていました。彼らの古いパン種は、「悪意と不正のパン種」でした。貿易と弁論で有名なコリント文化の悪影響です。悪意をもって相手を論破し、不正をして利益を得ることも多かったのでしょう。イエス様を信じるということは、それまでの古い自分が死んで、昔の罪の生活方式、肉の価値観を捨てて、新しくなる機会です。Uコリント5:17。
 イエス様の十字架が自分の罪と滅びの身代わりだと信じるなら、古い自分は死んで、新しい命に生まれ変わるのです。もうイエス様が自分のうちに生きておられます。イエス様の尊い犠牲によって救われているのでから、「いつも祭りをしているように」喜びと感謝して生きましょう。ガラテヤ2:20。肉の歩みを悔い改めて、新しい心となって新年を迎えましょう。



Tコリント
5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
5:2 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
5:3 私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。
5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。



ローマ 8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Tペテロ1:18 ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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