2015年1月4日「二つの国に生きる」Tコリント5:9〜13

序−私たちがこの世で生きるクリスチャンとして重要なことは、世をどのように見て生きるか、世とどんな関係で生きるかということです。時には、その間で葛藤し、悩むことがあります。いわば、私たちは、神の国とこの世という二つの国に生きているということです。
 
T−世捨て人になるのではない−9〜10
 パウロは、以前コリントの人々に宛てた手紙の中で、「不品行な者たちと交際しないように」と書いていたようです。9節。その言葉をコリント教会の人々が誤解して、もう世の人たちと付き合うな、という意味と受けたようです。確かに、不品行で有名なコリントに住んでおり、彼らの周囲にいる人々の多くが放縦な生活をしていたからです。クリスチャンになって、価値観が変わった聖徒たちには、そういう人々との関わりは厳しいものがあったことでしょう。やっぱり関わらないのがいいのかと思ったのです。
 でも、「不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないように」しようとしたら、もう世を離れるしかないと考えるのも、無理からぬことです。10節。人々には、少なからずそのような罪があらわれているからです。実際に、キリスト教の歴史の中では、人里離れたところに住んで、聖書を読み、祈りをする生活した修道院というものがありました。クリスチャンがみなそんなことしたら、社会を動かす者がいなくなってしまいます。福音を伝える者もいなくなります。
 確かに、不品行な友人と付き合っていたら、その罪の影響を受けるでしょう。同じようにならないぞと言っても、水は低きに流れるのです。だからと言って、そういう人がから離れ、世から離れて暮らすわけにはいきません。現実には、自分が選ばなくても、周りには品行な人も放縦な人はいるものです。貪欲は普通の人々の心にあり、みな偶像を拝む者でした。そのような人すべてを拒絶するには、それこそ修道院にでも行くほかありません。いや、世を離れて生活したとして、果たして聖い生活ができるのでしょうか。
 神様は、世にイエス様を信じる者を置かれたのは、世の人々と隔絶した生活をしろという意味ではありません。クリスチャンは、世の光であり、地の塩です。マタイ5:13〜14。私たちは、貪欲な者、略奪する者がいる世にいなければならないし、イエス様を知らない人々と付き合って行かなければなりません。偶像を拝む人の下で働かなければならない時もあります。前の手紙では、「不品行な者たち」だけでしたが、「不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者」まで拡大しています。こうなると、コリントの人というのでなく、世の中の人全部ということになるでしょう。人と付き合わないなら、「この世から出て行かなければならない」ことになるでしょう。
 あえて罪丸出しのひどい人と付き合う必要はありませんが、世の人々とまったく付き合うなということではない、と言っています。

U−付き合ってはいけない人々−11
 では、以前の手紙の中で、「不品行な者たちと交際しないように」と書いていたのは、どういう意味なのでしょうか。11節。ちょっとこの言葉を聞いても、よく分からないかもしれません。信じている者同士ならば、ちょっと間違ったことがあっても理解してあげるのがいいのではないですか、それなのに、罪を犯すなら、まったく付き合うな、食事まで一緒にするなとは、酷いじゃないですか。この箇所を読むなら、一見そんな印象を持つでしょう。そう言うのには、二つの意味があります。
 まず、クリスチャンといえどもみな罪性を持っているために、誰でもこのような罪に染まってしまう危険を持っているからです。正月に残った餅にカビが生えるなら、かびた部分を取ってしまわないでしょうか。そうしないなら、カビが広がり、全部捨てることになります。私たちは、聖徒の罪を見て衝撃を受け、自分にもそのような罪性があるということを認めて、自分が罪に染まらないようにするのです。自分は正しいと正当化して、罪を犯した聖徒をさばくだけでは危険です。罪に対しては、自分自身も同じ弱さを持っているので、このような問題に敏感に対処しなければなりません。
 また、罪を犯した兄弟姉妹が変わらない可能性があるためです。そのために、一時的に異邦人のように扱い、今までのようには付き合えないようになります。それでもって、彼らが罪を悟るようになるなら、悔い改めて新しい人になります。もし同じ信仰の者が偶像礼拝や不品行の罪に陥っても、そのままにしておくならば、その人を滅びに渡してしまうことにならないでしょうか。事実、他の人の目には罪に見えることも、自分では気付かないことが多いものです。人のことをあれこれ言ってもいても、自分が何をしているのか分からないのです。
 聖書的カウンセリングでは、ひどい罪に対しては「対決的カウンセリング」と言い方をします。その人を同信の者として愛しても、罪に対しては毅然として対決するというのです。「罪を憎んで、人を憎まず」ということです。罪に陥っている信仰の者を愛するならば、一時的に関係が断たれてもという覚悟をもって対処するというのです。罪をそのままにしないで、悔い改めを願って対処するのです。
 ここでは、不品行の他に、幾つかの罪の項目が挙げられています。10節と比べて、「人をそしる者、酒に酔う者」が追加されています。それらを罪だと思っていないことが多いからです。悪口を言う、悪い噂話をする、人をそしるというのは重罪だ、とイエス様は言われました。マタイ5:22。人格を否定し、魂を殺すようなものだからです。酒に酔えば、悪口雑言が出るし、不品行な言動に及ぶことになりやすいものです。そういうことから、「つきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない」と言っているのです。悲惨な教会というのは、変化しない教会、惨めなクリスチャンというのは、造り変えのないクリスチャンです。

V−世でのクリスチャンの役割−12〜13
 罪に陥っている聖徒たちを戒めなさい、とパウロが言っていたのは、あくまでも彼らが立ち返って来る可能性があるためです。それなのに、世のことばかりさばいて、クリスチャンの罪を、自分を含めてそのままにしておいていいのですか、と言っています。12〜13節。内部の人たち、クリスチャンの悔い改めを求めなければなりません。汚れた霊が、元いた家に戻るときれいに掃除してあったので、多くの悪霊を連れて来て住むようになったという譬え話があります。ルカ11:24〜26。イエス様を信じた後でも、自分自身の考え中心、罪の支配のままなら、以前よりももっと酷くなるという話しです。信じた後変わらなければ、以前よりも悪くなる可能性があります。なによりも、私たち自身の人生から、「不品行、貪欲、偶像、人をそしること、酒に酔うこと、略奪」の支配を追い出すことです。これが、私たちの人生にイエス様の統治を実現させることです。
 それなのに、クリスチャンは、「外部の人たちをさばくこと」をしています。世を責めています。まだ信じていない世の人たちの罪を裁くのは、私たちに関係のあることでしょうか。イエス様に出会っていない、聖書を読んでいないという世の人は、罪ということが分かりません。世の人の罪をさばいても、変わる可能性はありません。人が福音を聞いて、自分の罪の性質を知って、イエス様を自分の主とするまでは、罪の性質はそのままなのです。ローマ7:19〜20,24〜25。ですから、福音を伝えなければなりません。.
 キリスト教倫理を教えただけでは、世は変わりません。キリスト教を文化して受け止めても、人は変わりません。キリスト教美術や音楽も、人を救うことはできません。それらは、信仰の産物であり、信仰生活の実です。どんな人でも個人的に主に出会って、私の身代りに十字架にかかってくださったイエス様を自分の救い主と信じるまでは、根本的に変わることはないのです。Uコリント5:17。私たちがこの世の人々を助けてあげることができる唯一の道は、伝道して、クリスチャンとなるようにする道しかないということです。
 この世がどんなに悪くても、私たちは決してこの世を離れてはいけません。世に塩が必要なように、世にクリスチャンが必要です。私たちの国籍は天の御国ですが、この世に遣わされています。ピリピ3:20,Uコリント5:20。教会はキリストが治める国、世はサタンが治める国というように考える人々がいますが、復活されたイエス様は、すべての王、世の主人です。ピリピ2:9〜11。ですから、私たちクリスチャンは、懸命に信仰に生きて、証しして、世の人々の心にイエス様の主権が回復されるようにしなければなりません。私たちが神様に従い、礼拝しながら、社会の一員としてよく法を守り、責任を果たすことが大切です。社会制度の下に働く人々の尊び、祈ることも必要です。
 私たちが社会でできることは、人々と交わりながら、人々に仕え、人々をイエス様に導くことです。私たちの証しの生活を通して人々が福音に触れ、悔い改めに導かれるように助けてあげることが大切です。そして、重要なことは、人々が救われることによって、神様の支配に立ち返ることです。
 私たちは、教会とこの世、イエス様が支配される二つの国に生きています。日本とイエス様、二つのJに生きています。私たちは、もうこれ以上世に対して傍観者であってはいけません。世がどんなに腐敗していても、失望しません。積み上げたものが流されたとしても、再び始めます。周囲の人々に失望して、放棄してはなりません。また会って福音を証しします。継続して彼らを励まし、仕えるのです。私たちは、「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして」福音を証しして行くのです。コロサイ4:5。



Tコリント
5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
5:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。



マタイ5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

マタイ5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

ルカ11:25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。
11:26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、
みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。

Tテモテ3:7 また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

ローマ7:19 私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

ピリピ3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

Uコリント5:20 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。

コロサイ4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。

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