2015年1月11日「以前はそのような者でしたが」Tコリント6:1〜11

序−人がいれば争いは起きるものです。コリント教会の問題は、まさに妬みと争いでした。そして、私たちも様々な争いに巻き込まれるものです。そうであるならば、私たちは、どうしたら争いに巻き込まれないか、どう争いを見て、受け止め、対処するのか、ここから学びます。
 
T−争いが起こったら、聖徒こそ世をさばく者−1〜3
 無念で憂うつな問題があった時、どんな解決の方法を取るでしょうか。互いに争っていたコリントの人たちが、法廷に訴え出るという事態が生じました。1節。訴えた事件については明らかにされていませんが、聖徒たちの間にあった紛争を法廷に持ち出したのでしょう。使徒パウロは、なぜこのような問題を聖徒たちで解決しないで、あえて法廷まで持っていったのか、と責めています。そこまでするのか、と驚いています。
 コリントの聖徒たちだって、世の法廷を用いていたでしょう。事業をしていれば、商売上の紛争解決のために法廷を利用することは、有益なことでした。しかし、恥ずかしいことに、彼らは自分たち聖徒同士の争いを法廷まで持ち込んだのです。そもそも、なぜ彼らは法廷で解決しようとしたのでしょうか。いくら個人的に話しても、互いに自分の主張を繰り返すばかりで相手のことを聞こうとしないか、どうにもすることができなくて、そうしたのでしょう。自分が正しいと確信するならば、相手は間違っているとするからです。
 法廷に訴えること自体は、市民としての権利ですし、それ自体が間違っていることではありません。なぜ、パウロは嘆いているのでしょうか。彼らが、教会がどんなところであるかまったく考えることをしないで、欲心に陥って、教会に傷を与えていたからです。教会とはどんな所だと言っていますか。2~3節。教会は世にあって、罪を赦された者が集まるところであっても、神様の教会です。神の子、神の民とされた者の集まりです。世の終わりの時には、聖徒たちが主と共に審判席につくからです。聖徒たちこそ世をさばく者だというのです。
 1節で、世の裁判官について、「正しくない人たちに訴え出る」と言っているのも、パウロが世の法廷の権威を否定したり、世の裁判官がみな悪い人だと言っているわけではありません。教会の聖さを考えたとき、世の法廷がどんなに権威あるところだとしても、人のするところだと言っているのです。本当に正しく裁かれるのは、神様だけです。ヤコブ4:12。主の御手の中で養われ導かれる聖徒たちが、主に祈り、御言葉に聞き従うことがどんなに霊的な判断へ導かれることでしょうか。聖書的な真理で判断しなければならないということです。人が行動するのに、ある原理に従って行動します。そうするには、必ず理由があります。罪の原理が働きます。自分の肉の思いを満足させたい、自分の主張を止めたくないから、争わないでいられないのです。そこで世の法廷に持って行きます。

U−訴え合うことが、すでに敗北−4〜7
 では、世の法廷で判断できることは、何でしょうか。いわゆる民亊のことです。両者の間の争いにおいて、どちらがより権利があるかを調べるということ、発生した損害をどちらに回すかということです。それ以上のことはありません。そういう法廷に自分たちの争いを持ち出して、どうなるのでしょうか。4〜6節。ところが、教会の役割は、福音と御言葉によって人を救い、人を愛して、直して、治療することです。そして、新しい人として立てることです。それは、到底法廷ではできないことです。
 「無視される人」というのは、判事や弁護士などがよくない人だから無視されていると言うのではありません。実際優れた人々が多かったでしょう。でも、聖徒たちは、人を正しく裁くことのできる神様だけだと知っているからです。神様の偉大な権能、神様から与えられている教会の偉大な権能に比べれば、無に等しいということです。裁判官という世の権威者も、神様からその権威を委ねられているに過ぎない、というのが聖書の教えです。ローマ13:1。実際、その役割も限られたものであり、誰がより間違っているか、誰の責任がもっと大きいか、ということを決定するだけの働きです。
 ですから、教会の働きに比べれば、小さい者だということです。教会では、どれほど人を愛して、受け入れてあげて、人を立ててあげるという人が大きな人です。教会の中で重要なことは、間違いを問いただすことではなく、不足した人をどれほど認めてあげて、整えて、待ってあげて、どれほど自信を持たせてあげるかということです。聖徒は、問題が生じた時、人を恨み、人を訴えるのではなく、神様に委ね、助けを求め、その苦難を通して聖化され、その経験が霊的成熟に導きます。
 ですから、クリスチャンは、自分がどんなに悔しいことがあったとしても、それを通して神様の導きが示されたとしたら、もうそれ以上その問題を持って、あれこれ言い立てることはだめです。クリスチャンにとって最も悪いことは、必ず勝たなければ、という思いです。法廷には勝たなければ、賠償金を支払い、弁護士も成功報酬がもらえません。そこには、人を変える、育成するというような人格的な要因はありません。
 聖書は、こう勧めています。7節。これは、クリスチャンが無条件に損害を受け、騙されて生きろ、という意味ではありません。イエス様が、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)も、いつも叩かれながら生きろというのではなく、クリスチャンは、必ず勝たなければとは思うなということです。クリスチャンは、正しいか間違っているかは明らかにしなければなりませんが、必ず勝とうとしてはいけません。相手が間違っていると分かっても、どうにも相手は理解せず押し通そうとするなら、手でも、言葉でも、甘んじて叩かれよというのです。
 勝たなければと思う時、執着心が起こり、心の中で憎しみや怒りが支配するようになり、罪の言動に及びます。聖霊の感動がなくなり、喜びが奪われるようになります。だからと言って、我慢して、忍耐してということでは、続きません。これは、無理をしてではありません。信仰によって、「むしろ害を甘んじて受け、むしろ罵りを甘んじて受ける」ことができるように、ということです。クリスチャンの崇高な姿です。
 クリスチャンの中にも論争好きな人がいます。肉のプライドを押し立てて人と対峙する人がいます。人の話しを聞かないで自分の固執したことを押し立てる人がいます。必ず勝とうとします。必ずプライドを満足させようとします。そのような人は、豊かな人生を生きることはできません。信仰に熱心だとしても、怒りがあらわれ、独善と自己執着に陥ります。その信仰は空しいものとなります。

V−洗われ、聖なる者とされ、義と認められた−8〜11
 聖書は、いろいろな問題を取り上げながら、いつも私たちに自分自身の姿を省みさせ、信仰の原点に立ち返らせています。聖徒にも罪の火種は残っています。いざとなったら、恐ろしい罪に陥る可能性があります。8〜10節。「互いに訴え合うことがすでに敗北」でした。彼らは、互いに罪を犯していたのです。訴え合うよりも、互いに罪を自覚して、悔い改めなければなりませんでした。マタイ18:3。「正しくない者は神の国を相続できない」と言っているのは、一度でも悪いことをしたら、天国へ行けない、と言っているのではありません。でも、そのような罪の生活、罪の生き方を続けたままで天国へ行けるのですか、ということです。
 占いをしながら天国へ入ろうとするのでしょうか。人をそしりながらイエス様に会えるのでしょうか。肉のプライドで怒っている姿をイエス様はご覧になられていないのでしょうか。互いに訴え合うなど、とてもできなくなります。教会は神の臨在の中で人を悔い改めさせ、聖めてくれます。Uペテロ3:9。御言葉は、自分の罪の姿を気付かせ、御言葉の原理に戻してくれます。そうして、私たちがどんな存在であるか、という所に導いてくれます。11節。「あなたがたの中のある人たちは」と言っていますが、主の御前には五十歩百歩、みな「以前はそのような者」だったのです。
 テトス3:3、「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした」という証しに、自分は入っていなかったとは言えません。「以前はそのような者」でもいいのです。「それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです」Tテモテ1:13。しかし、今は「主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、私たちは洗われ、聖なる者とされ、義と認められ」天国への命を与えられた、という救いの原点を忘れてはなりません。
 イエス様の十字架によって、イエス様の御名によって解決されない罪はありません。福音を信じて洗礼を受けたなら、罪の生涯は洗われ、聖められました。御言葉に造り変えられ、主と共に歩むならば、罪の生活に戻ってしまうことはありません。罪を犯し、失敗する度に悔い改め、立ち返ることが大事です。まだ争っているなら、まだ我に執着しているならば、重大な逆行をしている、救いの恵みを忘れた者だと言わざるを得ません。
 以前は、私たちは醜かった、悪事を行っていた、罪の奴隷だった、滅びに向かっていた、そのような者でした。しかし、イエス様を十字架によって、救われ、罪赦され、新しい命を与えられました。テトス3:4〜5。これが、私たちです。その資格の通り生きるのが、私たちの栄光です。



Tコリント
6:1 あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。
6:2 あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
6:3 私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。
6:4 それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。
6:5 私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。
6:6 それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。
6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。
6:8 ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行う、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。
6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。




ヤコブ4:12 律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

ローマ13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

マタイ5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

マタイ18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

Uペテロ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

Tテモテ1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

テトス3:3 私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
3:4 しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、
3:5 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

エペソ2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──

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