2015年1月18日「すべてのことが許されていますが」Tコリント6:12〜20

序−何事でも、物事にはその背景というものがあります。コリント教会の問題も、コリントという背景がありました。それは、不品行の蔓延していた都会であり、哲学者の間違った自由の主張でした。しかし、それとの対比は、私たちに信仰生活の素晴らしい原理を教えています。
 
T−できることと有益でないこと−12 
 当時のギリシャ哲学には、精神を尊んで肉体を蔑み、肉体はどうでもよい、肉体の好きなようなさせろ、大事なのは精神の自由だ、という考えがありました。そのために、コリント教会にも、精神だけ重要だ、肉体は好きなようにする、と不品行に無頓着な人がいたようです。クリスチャンの自由を哲学者の言う自由と同じと思いました。しかし、そうした罪に対する無頓着が他の聖徒たちにも悪影響を与え、教会を害していました。
 そこで、使徒パウロは、クリスチャンの素晴らしい生活原理を教えています。12節。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません」とは、クリスチャンの自由の偉大な原理です。イエス様の救いを信じたなら、罪の奴隷から自由にされています。ローマ8:21。主の身代わりの十字架という尊い犠牲でもって勝ち取られた自由を大切にしなければなりません。ガラテヤ5:1。
 「私にはすべてのことが許されている」と、二度繰り返されています。どうやら、この言葉を哲学者やコリントの聖徒たちがよく言っていたようです。たとえば、感性を理性のくびきから解放し、強制力からも解放されようとしたエピクロス派は、「すべてのことが許されている。抑制したり禁止したりするな。自分自身を表明せよ」と解きました。それをいいことに、コリントの聖徒たちは、精神さえしっかりしていれば酒に酔ってもいい、精神さえしっかりしていれば不品行をしてもいい、考えたのです。こういう考え方は、今日でもクリスチャンの中にあります。聖書は、酒に酔ってはいけないと言っても酒を飲むなと言っていない、酔わない自信さえあればいい、というようにです。
 確かに、クリスチャンは人が持っているどんなことも許されています。クリスチャンの生活は、不自然なものではありません。クリスチャンは、自分の持っている自然な能力について、すべてが自由です。「しかし、すべてが益になるわけではありません」と言う一言が光ります。自由だから何でも勝手気ままにするとなれば、人はたがが外れ暴走します。「益」と訳されたスンフェローとは、「一緒に持つ、共に担う」という意味です。すべては許されています。しかし、すべてのことが一緒に担うのに適しているとは限らないのです。
 私たちは、自分だけのために生きるのではありません。自分に許されていることでも、周りの人には役に立たず、害を及ぼすこともあるから、すべてのことが益となるわけではありません。「互いの重荷を負い合う」のに適していないことも多いのです。ガラテヤ6:2。自分と他の人との関係における責任を示しています。すべてのことは許されているのに、なぜしないのか。益にならないからです。クリスチャンの明快な制限です。
 もう一つの制限は、自分自身に対してです。「私はどんなことにも支配されはしません」と言います。自分に許されていることが、自分を支配するかもしれません。人は、自由なはずなのに、自由気ままに生きて行くならば、罪の奴隷になってしまいます。何か罪と欲の奴隷になると、それが自分を滅ぼすことになります。主の支配を否定してしまうからです。
 ルターは、「キリスト者の自由」という本の冒頭で、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」と「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」という命題を掲げています。Tコリント9:19,Tペテロ2:16。精神は自由であるが、身体は隣人愛を実践するために万人に奉仕するべきである、というのです。Tコリント10:23〜24。何と気高い自由でしょうか。ここに、キリスト教信仰の真髄の一つがあります。人がなぜ生まれて生きるか、人はどのようにして社会で生きていくのか。ここに答えがあります。

U−食欲と性欲−13〜16
 次に、この自由の原理の適用として、実例があげられています。13節。食べることは、ただ腹とだけ関係があります。確かに、食物の消化のためには腹が必要であり、肉体の維持のためには、食物が必要です。けれども、それだけだったら、はかなく過ぎ去るものです。つまり、ただ何を食べるか、どう満足するかが重要ではないということです。重要なことは、食べた体で何をするかということです。私たちは、体の状態がどうであるか関心が大きいです。多くの健康食品やタブレット、健康器具が出回っています。健康は大切ですが、その体で何をするか、どのようにその体を用いるかということがもっと大切です。
 世には、人間は性のために生きているという人もいますが、クリスチャンの体は、もっとそれ以上のために存在しているというのです。「からだは、主のため」にあるというのは、体を用いて主の御心をなすということです。主は、私たちが自分の体を御国のために用いることを願われます。そこに、私たちが救われて新しい命が与えられた意味があります。あまりにも自己中心的になって、壊れていた体が信仰によって生かされて、他の人の幸いのために用いられるようになります。これが、イエス様の復活の力なのです。
 「からだ」と言って、肉とは言っていません。悪い意味で使われている肉サルクスとは違う、ソーマという言葉が使われています。これは、「健全な体」と言う意味で使われています。救われたことにより新しい体になっているのです。15〜16節。イエス様の復活を通して、「キリストのからだの一部」となった私たちの体は、単に肉体的な食欲を満たすより、もっと高いミッションを持っています。この尊いからだを用いて、人を助け、救う尊い働きをすることができるようになったのです。
 ところが、不品行や罪に用いてしまったら、どうなるのでしょうか。それは、単純に肉体を使うだけで終わるのではなく、そのような生活を愛し、心が囚われてしまい、精神に影響を及ぼします。不品行に無頓着なコリント人は、肉体だけでなく、その心も不品行の奴隷となって、退廃的な精神となっていたのです。自分の罪に気付いて、主の御前に悔い改めるまでは、主の御心に用いられません。

V−神様がくださる最も尊い贈り物−17〜20
 イエス様に救われて新しい命に与った者は、新しいからだを贈り物としていただいたようなものです。それなのに、コリントの聖徒の中には、自分のからだの尊さを知らずに、そのからだに酒を注ぎ、情欲で満たしていた人々もいたのです。17〜18節。コリント人は、不品行を、腹が減って食べ物を食べるようだ、と言っていたそうです。精神を尊んで肉体を蔑み、肉体はどうでもよいとしていました。ところが、不品行は、精神までむしばみ、人格の破壊に繋がっていました。性を軽んじ、破壊することは恐ろしい罪です。体も性も大切です。
 現代社会の価値観も、昔のコリントとあまり違わないようです。これは、恐ろしいサタンの仕業です。このために現代社会がどんなに病んでいることでしょうか。その中で生きて来た私たちは、クリスチャンとなっても、一瞬に罪の習慣や価値観がなくなるわけではありません。ですから、信じて救われた者のからだには、どんな変化が起こっているかを知って、意識して生きて行くことが必要です。
 救われた時、私たちの内にどんな変化が起こったのでしょうか。19〜20節。私たちの体は、生きている神殿、聖霊の住む宮だというのです。消極的には、このからだを悪いことに使うな、ということです。肉の欲に倒されて、罪を犯すことに用いてはいけない、ということです。私たちの内にある肉の欲は、神様の導きの中で解決されなければなりません。神様が喜ばれない方法で欲を満たそうとすれば、どうなりますか。内住される聖霊が悲しみ、心に喜びがなくなります。時には、神様が私たちを戒めます。苦しむことにもなります。私たちのからだを神様の定める方法で用いることがよいのです。
 積極的には、私たちのからだを神様の喜ばれる目的のために用いることです。からだは、天国へ行くまで積極的に用いることが大切です。神様が新しい命としてくださり、聖霊の宮としてくださった私たちのからだ、この大切な体を積極的に人々のために用いなければなりません。神様が私たちを救ってくださったのは、その体を用いて人を助けなさい、ということです。与えられた自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えることが、主が望まれる私たちの生き方です。ガラテヤ5:13。
 すでに、私たちのからだは私たちのものではありません。もう私たちの勝手には使えません。イエス様の尊い犠牲、主の血潮という代価をもって買い取られたものだからです。ですから、自分のからだをもって、積極的に神の栄光を現して生きて行くのです。もう自分の肉の思いと欲を満たすことで生きるのではなく、どうすれば、「自分のからだをもって、神の栄光を現せるか」を考えて生きるのです。



Tコリント
6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。
6:13 食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
6:14 神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。



ローマ8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

Tコリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

Tペテロ2:16 あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。

ガラテヤ6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

Tコリント10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
10:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

ガラテヤ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

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