2015年2月1日「結婚の聖書的意味」Tコリント7:1〜16

序−結婚は、人生にとってとても大切なことです。神様が与えてくださった祝福です。ところが、世の結婚に関する見方や価値観は大変貧弱でひどいものが多いです。ですから、結婚について聖書からしっかり学ばなければなりません。使徒パウロは、コリントのクリスチャンに起こっていた結婚の問題を取り上げて、私たちに聖書の結婚観を教えています。
 
T−結婚は、神の創造の御業−1〜2
 この部分のすべては、ただ単に結婚についての教えではなくて、実際の問題があって、それを扱っているということです。ギリシャ哲学には、放縦を説く者もいれば、禁欲を説く者もいました。放縦のコリントにあって、教会の中には、それに反発的して、男女の性を低く見て、結婚を否定する者もあらわれて来たようです。
 そこで、彼らの言う「男が女に触れるべきでない」という言葉を用いて、不品行を避けるためにも、結婚するように言っています。1~2節。ここでは、「男が女に触れないのは良い」というのは、不品行を避けなさいということです。男女関係、結婚の価値観の崩れた現代社会も、古代コリントと同じように、性関係が乱れています。婚姻による性は神様から与えられた良いものですが、そうでない場合は罪と悲惨をもたらします。結婚が決まっていても、結婚するまでは、触れないのは良いことです。
 人は、男女が互いの性を求めるようにできているので、「不品行を避けるために」結婚するようにと勧めています。これは、ただ消極的に避けるためというのではありません。結婚するように造られているために、互いの性を求めるのです。積極的に信仰の問題として、結婚しなさいと勧められています。放縦が横行していたコリントにいたクリスチャンの中には、酷い結婚の状況を見て、むしろ結婚しない方がいいじゃないかと考えていた人がいたようです。そういう問題に対する教えです。Tテモテ4:3。
 結婚は、神様が造られた祝福であることを知らなければなりません。創世記2:18。創造の御業として、最も祝福されたものです。それを人間の罪が酷い状態にしていたのです。イエス様も、この御言葉を引用されて、結婚の素晴らしさを説き、カナの婚礼を通して、結婚を祝福してくださいました。マタイ19:4〜5,ヨハネ2:1〜11。
 結婚が神様の創造の御業、祝福であるということを知るならば、世の不品行や誤った習慣に左右されないように、ある程度の年齢になって来たら、結婚のことを具体的に準備します。若い世代は、この聖書的意味を知って、神様が与える性がどんなに尊いものであるかを悟り、祈り備えることが必要です。すでに結婚している世代は、大切な夫婦関係を福音によって新にし、このことを若い世代に伝えることが大切です。

U−結婚の義務と権利−3〜6
 放縦のコリントにあって性を卑しいものと見て、結婚はしても、性に関しては、罪意識を感じるというクリスチャンもいました。ただ子孫を持つために関係を持つという考えもしていたようです。
 そこで、彼らの言う「義務を果たす」という言葉を用いて、互いに夫婦の関係を大切にしなさいと勧めています。3〜4節。ここで「義務を果たしさい」と言うのは、自分の都合だけで相手を求めるのではなく、互いに愛し、睦み会うためにということです。「互いに自分のからだについての権利を持ってはいない」ということなのですから、自分勝手に関係や交わりを拒むというのもよくないということになります。
 これは、精神的に互いに対する貞潔の義務を果たすことでもあります。たとえば、結婚前に付き合っていた人と会うことは勿論まずいですが、その人の写真や手紙を持っていることも貞潔でないというということです。結婚した後、他の人と配偶者を比べることもいけません。
 男性が結婚する時には、女性のすべてを満たしてあげる義務があります。けちな男性が、女性の洋服や化粧が勿体無いなどと言うなら、結婚を再考しなさいということなります。結婚しようとするなら、ある程度の経済的な責任を持たなければならないでしょう。勿論、一時的に男性が女性に支えられる場合もあるでしょう。
 また、互いに対して健康の義務もあります。互いの体は自分のものではなく、相手に対して要求する権利があります。自分勝手に行動して疲れてしまうことを避け、相手の健康に気をつけてあげる義務があるということです。魅力を失わないように努力する義務もあるでしょう。体を整えることの多くは、自分がしなければなりません。また、体のことで言えば、特別な理由がない限り、部屋を別にしてはならないと言います。5〜6節。しばらくの祈りのために、やむを得ず部屋を別にするということがあったようです。当時の信仰者の熱心な祈りの生活が垣間見られます。私たちはどうでしょう。部屋を別にするのは、怒った時や会いたくない時ではないでしょうか。部屋を別々にするのは祈りの時だけとするなら、怒りで別々にいるというのはよくないということになります。いや、むしろとりなし慰めのため祈りなら、共に祈り、愛して励ましてあげることがよいでしょう。主の前に一人悔い改めるような時は、一人で祈ることもよいでしょう。
 とにかく、夫婦は一つ体でと誓約して結婚しているのですから、夫婦が長期間離れていることは避けなければなりません。

V−それぞれ信仰的に対処して−7〜16
 コリント教会にも、独身だったり、離婚していたり、色々な状況の人々がいました。このことに関しても、放縦のコリントの中で混乱していました。当時のコリントの教会では、女性よりも男性の方が多かったのか、仕事や軍隊の事情か、結婚していない男性が結構いたということです。そして、やもめとなって独身でいた女性が多くいました。使徒パウロは、自分のようにしていられるなら、独身のままいなさいと勧めています。8〜9節。
 なぜ、できるなら創造の祝福に従って結婚しなさい、と勧めないのでしょうか。おそらくは、当時のコリントで信仰的な結婚をすることがあまりできなかったようです。原則を実際に適用するには、状況に応じて行われます。身分的に自分の自由にできない人も多かったために、望まない結婚をするよりも、独身のままでいることも一つの選択だったということです。勿論、一人で生きることがとても耐えられないなら、自制することができなければ、結婚したほうがよいと勧めています。
 また、放縦のコリントで離婚している人々も多くいたようです。離婚については、事情に鑑みて、勧めています。10〜11節。「別れてはいけません」とは、「夫婦は一体となる」という創造の原理からです。いったん結婚したら、一つの体となるのですから、別れてはいけないと言われています。パリサイ人がイエス様に離婚についての質問をしている場面があります。マルコ10:2〜9。イエス様を罠にかけようと質問して来たのです。モーセの律法では「離婚状を書いて妻を離別することを許しました」が、離婚はだめなのですかと質問しています。それは、どこまでも女性を守るためのものであって、律法で離婚は絶対にだめだと言われていたら、女性はひどい状態のまま苦しむことになるからです。
 これを通して知ることができることは、結婚は神様が与えてくださった最高の贈り物であって、驚くべき祝福だから別れるべきでないけれども、現実には別れないことで、苦しみや犠牲を強いられる場合もあるということです。でも、別れたならそのままでいるか、事情が変わって一緒にいられるようなら一緒になりなさいと勧めています。やむを得ず離婚する場合、相手の不貞や暴力の理由があったようです。
 また、信じていない者と一緒にいるのは難しいのではないかと思っている人々に対しては、こう語っています。12~14節。信じていない相手が一緒にいることを願うなら、一緒に暮らし続けなさい、その信仰が相手を聖めることになると教えています。その祈りと信仰の証しの結果、悔い改めて、信じるようになる場合も多かったのです。Tペテロ3:1〜2。とりわけ、子どもたちがその信仰のゆえに成長していく恵みがありました。霊的感染力を私たちは信じて、熱心に祈って大胆に証しして行くことでなければ、この恵みも絵に描いた餅で終わってしまいます。それでも、相手が変わらずに離れて行くならば、縛られることはないとも言っています。15節。ただし、積極的に離れて行くようにしてはなりません。
 夫婦生活の大切なところは、互いに相手を建て上げて、成長させてあげることです。Tテサロニケ5:11。相手の信仰によってどれほど助けられ、成長させてもらえることでしょうか。多くの人々が、結婚の不幸の原因を相手のせいにしていますが、本来は結婚を通して互いに霊的に豊かにされるのです。互いを通して益を受けることも、結婚の祝福です。ローマ5:2。
 カルヴァンも言うように、「はじめに、神は結婚を祝福として定められたのに、結婚は人の罪のために腐敗し、不幸をもたらすことにもなって」しまうことがあります。しかし、結婚はイエス様と教会の霊的結合として深い奥義を持つものであり、そこに罪があるゆえに、イエス様の十字架による罪の赦しによって、創造の恵みと祝福が回復されるところとなっています。エペソ5:22〜27。律法的に考えるのではなく、創造の祝福と福音の恵みによって、それぞれの事情に取り組んで行きましょう。



Tコリント
7:1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。
7:2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。
7:3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。
7:4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。
7:5 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。
7:6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。
7:7 私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。
7:8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。
7:9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。
7:10 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。
7:11 ──もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい──また夫は妻を離別してはいけません。
7:12 次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。
7:13 また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。

7:14 なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。
7:15 しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。
7:16 なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。

Tテモテ4:3 結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

創世記2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

マタイ19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
19:5 『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。

マルコ10:2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。
10:3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」
10:4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」

10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。
10:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。
10:7 それゆえ、人はその父と母を離れ、
10:8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。
10:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

Tペテロ3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。
3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

ローマ5:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

Tテサロニケ5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

エペソ5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

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