2015年2月8日「召されたときのままで」Tコリント7:17〜24

序−人は現実をどのように考えるのでしょうか。何事も運命だといって諦めるのでしょうか。これは本当ではないと現実逃避を思い描くのでしょうか。イエス様を信じて救われた私たちは、どう考えるのでしょうか。
 
T−神様が分け与えてくださった多様な人生−17
 現代社会を説明する一つのキーワードが、「格差」ということばです。格差社会だ、世界中で格差が広がっているという考えです。確かに、急速にそうなっているようです。ですから、多くの人々が社会で生きながら感じることは、世が不公平だということです。身分や財産、教育や職業を通して、ますます格差は広がって行くと経済学者は予測します。
 人々は世の不公平に不満を言いながら、自分だけは上昇しようと願います。人は、自分の立場や環境が変わって、もっと豊かな生活をすることを求めます。そのために、就職や結婚の条件がよければ、幸福が得られると考える人々も多いです。人は誰も、世でもっと良い生活をしたいという欲求を持っています。ところが、聖書はこのように教えています。17節。世の人々のように求めていたクリスチャンが、思わず「そんな」と言ってしまうでしょう。「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべき」だというのです。
 それなら、何も努力する必要がないのでしょうか。苦しい生活のままでいいと言うのでしょうか。人生を生き抜くのは大変ですが、神様が私の状況を良く知っておられ、私を導いてくださるという信仰が大切です。いたずらに自分の欲と力でどうこうしようとするなら、罠にかかった獣のようになるかもしれません。自分の思いでもがけばもがくほど罠がしまり、疲れ果て、倒れます。
 私たちの立場や環境は、神の摂理にあります。クリスチャンになった時,その環境にできる限り適応して、努力しなさいということです。その状態を外的に変えることに集中することより、まずその制約の中で主中心に生きることをするのです。そうして行くうちに、その状態に耐えることができるようになり、あるいは主が導く道を見出していくようになるのです。これはすべての人に適用されることです。苦しければ脱出を求め、嫌だと思えば新しい生活を考えるのではなく、古い生活を新しくすることを主に求めて行くのです。イエス様に救われ、新しい命をいただいたのは、そういうことです。Uコリント5:17。
 神様は私の必要を知っておられます。マタイ6:8。私が右往左往してじたばたする必要はありません。そうであるなら、私たちがそこでしなければならないことは何でしょう。私たちの心が主の恵みで満たされることです。御霊に満たされて生活することです。神様は、私たちにそれぞれ多様な人生を与えられました。それぞれ置かれた立場や環境で生きるようにしてくださいます。確かに、世的に見れば、不公平かもしれません。でも、信仰の目で見れば、必ずしも不公平ということではありません。
 なぜ、私たちは自分の立場や状況を認めることができなくて、恨んだり不公平を叫んだり、現実から逃避しようとしたりするのでしょうか。神様が私にくださろうとしていることが分からないからです。主の民となった者がいたずらに自分の状況や立場を否定して、恨んで、動き回るならば、主のくださる尊いものを失うことになるでしょう。イエス様を信じて、神の子とされたのですから、神様を信頼することです。

U−姿形でなく、信仰の恵みに生きること−18〜19
 「おのおの信じたときままの状態で歩むべきだ」ということで、当時具体的な問題が起こっていました。18〜19節。当時、クリスチャンになった人々には、ユダヤ人が多くいました。彼らは、体に割礼のしるしを持っていました。当然、ユダヤ人以外のクリスチャンは、はじめから割礼のしるしは持っていません。信仰の基本が良く分からない人々の中には、律法に熱心なユダヤ人の割礼が信仰の敬虔のしるしであるかのように思う人々がいました。また、そういうしるしや律法を要求する人々もいました。そして、割礼を受けなければならないと考えたのです。
 それで、使徒パウロは、割礼を受けているかいないかは問題ではなく、大事なのは信仰的にどんな状態かということだと言いました。大切なのは、神様の御言葉を守って生きることです。ガラテヤ5:6。ある人々は、自分の力で律法を守ろうとしました。それが、信仰だと思ったからです。しかし、どんなに努力をしても、心に平安がありませんでした。一つのことを良くできても他のことは失敗するからです。こういうのを律法的信仰といいます。やっかいのは、少し守れた時、そうしていない人を批判することです。奉仕や伝道が良くできた時、自分を誇り、人を批判するのです。そこに信仰はありません。あるのは、自己満足や評価という一種の偶像です。
 信仰は、イエス様に救われたその救いの恵みに生きることです。奉仕も伝道も救いの恵みを覚えてすることです。他の人がしょうがしまいが関係ありません。本当にイエス様の十字架の血潮が、そんな偶像に囚われていた自分の罪も聖めてくださったと分かった時、自己満足や評価という偶像から解放されて、救われていることの喜びと感謝に溢れるのです。そこから、新しい信仰生活が始まります。おかしな話ですが、本当に福音を信じる時が必要です。
 私たちは、懸命に信仰に生きようとしていながら、葛藤を覚え、平安がなく、不平不満を抱き、倦み疲れてしまう時があります。その時、イエス様と個人的に出会い、自分のための十字架の犠牲に涙し、赦しと救いの恵みを体験するチャンスです。外見や行いを変えようとするよりも、本当に福音中心の信仰に生きることを求めるのです。

V−現実的な状態について−20〜24
 コリント教会には、様々な階層、職業の人々がいましたが、中でも、奴隷階級の人々が多くいたようです。奴隷は、しばしば拘束されたり、殴られたり、主人の気に入らなければ売られたりしました。人格的な扱いではありませんでした。当然、奴隷の願うことは、自由になることです。クリスチャンになったら、奴隷状態から抜け出せるだろうかと期待し、変化を願いました。私たちも、クリスチャンになったら、自分が望むような状況や環境に変わるのではないかと期待したのでしょう。
 ところが、使徒パウロのいうのは、逆のことです。20~22節。奴隷の幸福は奴隷状態からの解放です。ところが、奴隷状態にあるクリスチャンたちに、無理に自由になろうとしないようにというのです。自由になれれば自由になり、奴隷の身分を気にしなくていい、その状態にとどまっていなさいというのです。もし、あるクリスチャンの奴隷が、なまじっか自由を得ようと暴動を起こすならば、彼の命が失われるだけでなく、他のクリスチャン奴隷たちも信仰を妨げられ、命の危険に晒されるでしょう。軽はずみな行動は、回避されなければなりません。
 必要なのは、奴隷身分からの解放よりも、魂の解放です。22節, ローマ8:2。イエス様に救われて、罪赦された者は、罪の奴隷から解放されて、本当の自由を得ています。ガラテヤ5:1。ですから、身分上は奴隷であっても、主にあって召された者は、主に属する自由人となったのです。自由の身になれるなら自由になればいいと言っていますが、奴隷でも奴隷でなくても、重要なのは、罪の奴隷からの解放、たましいの解放だということです。あなたは、たましいが解放されていますか。心の自由がありますか。
 現実を否定して、現実から逃避して空想の世界に生きようとする人がいます。私が生きるのはこんな世界ではないと、現実を現実として認めようとしない人々がいます。それでは、現実は変わらず、しっかり生きることはできません。ところが、クリスチャンは、どこにいたとしても、主が一緒ですから、奴隷の身分であったとしても、主にあって心は自由なのです。このように生きるならば、実際の生活も全然違って来ます。
 まず、現実を認めなければなりません。そこから、前進と変化が始まります。空想も理想も良いでしょうが、そればかりだと現実に適応できなくなります。私たちは、一人一人置かれた立場や環境において最善を尽くし、生きなければなりません。私たちが生まれた家庭も、私たちが生きて来た環境も、変えることはできません。空想しても、はじまりません。しかし、今現実の中でしっかり信仰で生きて行くなら、現実は変化して行きます。現実は、主の祝福と恵みがあらわれる所となります。
 今日のポイントは、クリスチャンは立場や環境は問題ではないということです。23節。私たちは、イエス様の十字架の犠牲という「代価をもって買い取られた」存在です。本当に重要なことばです。買い取られたのですから、今私たちは主によって用いられるイエス様の僕です。世からは自由です。身分的には奴隷であっても、心は「人の奴隷になるな」と言われています。こんなこと言われた、あんなことされたと囚われているなら、人の奴隷です。救われたなら、そんなことからも自由されます。
 肝心なのは、どういうことをしていても、その立場、環境でイエス様に仕えて生きるということです。クリスチャンは一人一人立場や環境が違いますが、共通していることは、イエス様の十字架という代価をもって買い取られた存在だということです。大事なのは新しい創造です。ガラテヤ6:15。キリストの召しに、私たちは生きる意味を見出します。



Tコリント
7:17 ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。
7:18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
7:19 割礼は取るに足らぬこと、無割礼も取るに足らぬことです。重要なのは神の命令を守ることです。
7:20 おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
7:21 奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。
7:22 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
7:23 あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。



Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

マタイ6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

ガラテヤ5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

ローマ8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

ガラテヤ6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

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