2015年2月15日「もっと主に仕えるために」Tコリント7:25〜40

序−私たちは、モラルの不確かな時代に生きています。私たちも、コリントの聖徒たちと同じような結婚と家庭の危機の時代に生きています。急速な社会の変化が結婚観を変質させています。そして、多くの結婚の失敗が、若い世代に結婚に対する疑いを引き起こしています。コリントの聖徒たちに教えられている福音による新しい結婚観に学びましょう。
 
T−時は縮まっています−25〜31
 当時は、早婚や許婚の風習の中で、自分で結婚について考えて自分で決めるということは困難でした。そういう背景があって、「そのままの状態にとどまるのがよい」とアドバイスしています。25〜27節。つまり、すぐに結婚することはありません。独身のままでいなさいというのです。十分に大人になってから結婚するように、価値観と信仰を共にできる人と結婚するように、自分自身が結婚についてよく知ってから結婚するように、良い結婚のために労苦するように、そしてキリストと教会の繋がりの中で結婚を思い描くようにというアドバイスなのです。
 多くの人々が、独身でいることへの圧迫や結婚への強制の中にいました。酷い風習や家父長制の中で流される結婚は苦しく空しいものです。28節。当時の独身者たちは、自分が願おうが願うまいが関係なく、結婚させられたようでした。しかし、信仰や自分の人生の目標を犠牲にまですることはないと言うアドバイスです。そのためには、信仰や自分の召しのことをもって結婚を考え、祈り備えることです。ですから、確信のない結婚をしないように、信仰で結婚や夫婦間のことを考え、祈ることがまず大事だというのです。私たちは、聖書の結婚観で結婚のことを考え、祈っているでしょうか。イエス様が言われたように夫婦のことを考え、新しい関係を築こうとしているでしょうか。エペソ5:22〜28。
 私たちが人々との関係の中で注意しなければならないことは、自分も必ず高慢になり易い者であり、ひとりで勝手に惨めになる傾向があるということです。29〜31節。ですから、持っていても高慢にならないように、持っていなくても悲惨に思わないように、主の御前に信仰によって心豊かに美しく生きるようにと勧めています。そのように生きる秘訣は何でしょう。主が再臨されるという信仰です。Tテサロニケ3:13,4:15。ここで、「時は縮まっています」と「この世の有様は過ぎ去る」とは、そのことです。主の御前に生きるという姿勢が信仰生活を生きたものとします。私たちは、一所懸命世のことをしなければなりませんが、再臨の主にお会いする備えを持って生きることが大切です。私たちの仕事と家庭を整えてくれます。
 ここで、使徒パウロは、反対のことを言っています。その環境に囚われてしまうと、高慢になったり、悲嘆にくれるようになったりするからです。良いことが続くと高慢になり易いので、そうでない者のようにするのです。悲しむことがあっても、それで終わりのように思わないで、主に心向けるなら、慰めを受けます。とにかく、私たちは、主の前に生きることをしなければなりません。コロサイ3:23。

U−主のことに心を配ります−32〜35
 人生において最も大きな幸福は何かと言えば、結婚生活で与えられる恵みと喜びだと思います。ところが、一見すると、使徒パウロは、独身を推奨し、結婚生活について皮肉を言っているように見えます。32〜34節。そうではありません。まず、当時の社会慣習の中で圧迫を受け、責められていた独身者に対して、信仰的励ましを与えています。独身の良い理由を教えています。32,34節。「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配り、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配ります」。
 結婚して家庭を持っている人に比べれば、時間や持っているものを自由に使えます。主のために、信仰のために心を配ることが大いにできます。デボーションの時間も自由、礼拝出席も自由にでき、積極的に奉仕することができ、自分一人で決めて献げることができます。そうして、信仰の学びと体験が多く与えられ、恵みと祝福が増し加わり、霊的造り変えと成長が導かれます。家族や友人たちを助け、信仰に導く機会が多く与えられます。御言葉によって結婚を考え、主に祈りながら結婚に備えることが十分にできます。
 しかし、青年時代を顧みても、私たちはそうでなかったと省みます。勿体無かったなと今更ながら思います。コリントの独身者たちも同感だったと思います。主のことに専念するどころか、自分のことばかりに専念してしまうのも、若い時の特徴です。主のことを第一にするなら、自分のことが信仰中心になるだけでなく、家族や友人、社会への責任や重荷を覚えるでしょう。Tテモテ5:8。結婚にもしっかり備えるようになります。ですから、社会から受ける独身者としての圧迫や辛さを嘆くより、独身であることの恵みに目を留め、豊かな信仰生活をするように勧めているのです。
 よく世の人が言う、結婚自体が不幸だとか、夫婦は大変だというのは、人の罪と過ちのせいです。結婚は、神が定めた幸いの元です。結婚した者は、「どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります」と言っています。33,34節。そのように心を配るならば、どんなにか素晴らしい夫婦となることでしょう。これが、悪い原因になるはずはありません。
 夫婦関係がすべての人間関係の基本だと言われます。「どうしたら相手に喜ばれるかと、相手のことに心を配る」ことができたら、人間関係に問題が生ずるはずはありません。ピリピ2:4〜5。人は相手のことを考えると言っても、どうしても自分中心に考えるわけです。そうすると、そこに罪も思い違いも入って来ます。たとえ、相手のために自分なりによかれと思っても、相手は違うかもしれません。相手が望むからといって、そうしたとしても、相手のために益となるとは限りません。
 どこに問題があるのでしょう。独身者と対比していますから、既婚者は、独身者のように「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配る」のではないということです。これが問題です。パウロは、結婚している人々に対して、「夫や妻に喜ばれるようにするな、相手のことに心を配るな、主だけに心配れ」と言っているのではありません。結婚がかえって、人をキリストと教会に結びつけ、互いの信仰を高め合い、信仰に生きるようにさせます。「夫や妻にどうしたら主が喜んでくださるか、主が夫や妻にどうするように望んでいるか心配りなさい」と言っているようです。
 「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配る」ことが、夫婦関係の改善、家庭の幸福のために必要です。それがあって、「どうしたら相手に喜ばれるかと、相手のことに心を配る」ことが生かされます。ガラテヤ6:10。イエス様に救われたことは、私たちの思い、考えの中心が変わります。福音の恵みを通して、相手を見ます。夫や妻を赦せないと思うならば、イエス様の十字架のゆえに自分も赦されているというところに戻り、十字架を通して相手を考えるようになります。主に仕えるようにしたいと思いが増し加われば、共に人生を歩む、夫や妻に仕えたいという思いに導かれます。35節。「ひたすら主に奉仕できるため」に、家族や人に仕えることができなくなるわけではありません。主中心になることが家族を顧みないことではなくて、福音によって新しい関係に導かれるのです。
 「どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配る」ことは、夫婦間や人間関係だけではありません。仕事や奉仕おいても、同じです。仕事において主中心になることで、「成果や認められる」という偶像に囚われることから解放されます。苦しい中でも主に頼りながら、主の助けを感じながら、働くことができます。主の召しを覚えながら、社会に活躍するようになります。とりわけ、長老教会の信仰からすれば、仕事の責任を担い、社会の貢献することを通して主の栄光をあらわすことになります。

V−ただ主にあってのみ−36〜38
 最後の部分では、独身のまま主に仕える人や再婚に言及しています。36〜40節。「婚期も過ぎようとして」というのは、「最も盛んな時を過ぎる」と言う意味で、「若さの花を過ぎて」という英訳もあります。婚期という言葉ではありません。その人のちょうど良い時、主に導かれた時に結婚することがいい、しかし、何かを担うために、主の働きのために独身のままででいることもいいでしょう、と言うのです。独身のままに対する否定的な習慣に対して、「もっと良い」と言っているのであって、結婚しない方がいいと言っているのではありません。
 また、再婚についても、当時は否定的な見方が多かったようです。夫に死別した未亡人が家制度や慣習の犠牲になっていました。再婚するのもしないのも、どちらもいいのです。「ただ。主にあってのみ」ということです。これを外してしまうと、いろいろ問題が生じて来たからでしょう。信仰のある結婚が幸いでなかったのなら、再婚しようとは思わないでしょう。そうして、主にあって導かれれば、再婚したのです。
 本当に人生を美しく、幸いに生きようとするなら、すべてのことを「どうしたら主に喜ばれるかと考え、主のことに心を配る」ことです。すべてのことを「ただ、主にあって」して行くことです。そうすることで、結婚も家庭も仕事も、新しいイメージで見ることができ、新しい関係が与えられて取り組むようになり、恵みと導きを受けるようになります。コロサイ3:23。



Tコリント
7:25 処女のことについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみによって信頼できる者として、意見を述べます。
7:26 現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。
7:27 あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。
7:28 しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。
7:29 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のようにしていなさい。
7:30 泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。
7:31 世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。
7:32 あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。
7:33 しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、
7:34 心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。
7:35 ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。
7:36 もし、処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。
7:37 しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情

もなく、また自分の思うとおりに行うことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。
7:38 ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。
7:39 妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。
7:40 私の意見では、もしそのままにしていられたら、そのほうがもっと幸いです。私も、神の御霊をいただいていると思います

エペソ5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

コロサイ3:23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

Tテモテ 5:8 もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その

人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

ピリピ2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

ガラテヤ 6:10 ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

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