2015年2月22日「愛は人の徳を建てる」Tコリン8:1〜13

序−今日の箇所は、クリスチャンのセミナーや分科会の題名にしたら、「信仰生活のグレーエリアについて」とか「人の躓きの石とならないように」とかなるでしょう。ここから私たちが学ぶことは、御言葉を知っているだけでなく、福音によってどう適用して行くかということです。
 
T−知識は人を高ぶらせ−1〜2 
 この章で扱う問題は、「偶像にささげた肉」についてです。1節。誰かの家に食事に誘われて、肉料理が出て来たとします。その肉は市場で買った肉だけれども、偶像にささげた後市場で売られていた肉ではないかということが問題になったということです。「偶像にささげた肉」を食べてもよいのですかということです。当時コリントで売られていた肉類のほとんどは、偶像の神殿から流れて来たものであったようです。
 ある人々は、偶像崇拝の背景はあったとしても、ほとんどそれに囚われることなく、イエス様を信じた後、神はお一人だけで、偶像は本当にはいないという信仰をしっかり持っていました。偶像にささげた肉での気にせずに食べました。しかし、別な人々は、偶像崇拝を懸命に行って、それに囚われた習慣の中で生きて来たので、クリスチャンになった後でも、その習慣からは、中々自由になれませんでした。書の真理を理解してはいても、偶像にささげた肉の取り扱いが困難でした。
 ここで問題になるのは、偶像崇拝の習慣から自由になれない、聖書の知識の少ない人ではありません。御言葉の知識をしっかり持っていた人々です。自分の信仰の強さや聖書の知識に立つ人は、高慢になり易く、人を裁き易いものです。それが、「知識は人を高ぶらせる」と言われています。知識があることが悪いことでありません。よいことです。しかし、御言葉の知識が、信仰的に生かされておらず、かえって知識があることが、霊的には妨げになっているということです。
 当時、偶像信仰からやっと抜け出て来た人々の情緒をまったく配慮しないことで起こってきた問題でした。偶像信仰から抜け出て来た人々にとっては、偶像にささげた肉を食べることは、偶像礼拝につながっているように思われたのです。私の信仰は強いと思っている人のように、肉はただの肉、偶像なんて実際にはいないのだから、とばっさりとはまだできない人でした。このような事情をまったく考慮しないで、自分の知識や律法を主張する人は、福音を知らない幼稚な人です。
 聖書で教えられていることは原則です。それを適用する聖徒たちの現場はいろいろな状況の中にあります。重要なことは、御言葉の真理を他の人の状況に合わせて、用いていくことができるかということです。それを知らないでいるなら、「知らなければならないほどのことも知ってはいない」ことになります。2節。私たちの真理の知識を動かすには、福音が必要です。私たちはイエス様の十字架のゆえに罪赦された者です。一方的に神様に愛された者です。Tヨハネ4:10。イエス様が、イエス様を信じる小さい者を躓かせたり、見下げたりしてはならない、と言われました。マタイ18:6,10。自分が裁く福音を知らないその人のためにも、イエス様は十字架に苦しみ、死なれたのです。ですから、一人一人を真心で愛して対するなら、知識のない人、信仰のない人を簡単に扱ったりはできません。
 自分に知識がある、信仰がしっかりしていると思う方は、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」ということに心を向けなければなりません。これは、どちらが正しいかという問題ではなく、配慮の問題、愛の問題です。子どもや生徒にとって重要なことは、先生や親がどれほど正しいかということではなく、自分に関心を持っていてくれるか、自分を受け入れてくれるかどうかということです。どの人間関係も同じでしょう。強い信仰と十分な知識を持っていると思う者は、知識も信仰も十分でない者の良心を傷つけたり、混乱させたりしてはなりません。弱い器、小さい者、福音を知らない者に対して愛の配慮を望みます。

U−頭で分っていても、感情では割り切れない−3〜7
 知識のある人々の知識はこうです。4~6節。日本と同じように、古代のギリシャにも多くの偶像や神々が作られ、ささげ物がされていました。世に偶像というものは、実際には存在しません。木や石で刻んだものが、人の人生に影響を与えることはできません。人が作った神ではなく、人を造られた神、イエス様を与えてくださった唯一の神だけしかおられません。すべては、神によって作られており、神によって存在しています。
 これは、知識です。知識そのものが人を生かすわけではありません。この天地万物を造られた創造主が、私を愛して、罪と滅びのままにされないで、イエス様の十字架のゆえに罪を赦し、天国への命を与えてくださるということを信じます。そうして、罪から解放され、天国人として、神様を愛して、人を愛して生きる時、その人は新しい命で新しい人生を生きるようになります。ですから、「人が神を愛するなら、その人は神に知られている」ことになります。これが重要です。
 私たちがどんな状況にあろうとも、どんな絶望に陥ろうとも、私にイエス様を与えてくださった神様を愛する心だけ持っているなら、助けだされ、困難はなくなります。ただ、私たちがしばしば神様を疑ったり、神様を恨んだりしてしまうので、簡単にはいきません。きちんと神様についての知識を持っている者でも、困難が続いたり、うまく行かなかったりすれば、神様を疑い、神様に文句も言うのです。自分の心に様々な偶像を置いてしまうのです。
 ましてや、健全な信仰の知識がない者にとっては、偶像の問題は簡単ではありません。7節。クリスチャンなのですから、偶像は本当にはいない、唯一の神様だけがおられるという知識はあったでしょうが、行動や思いまでは自由ではありません。偶像にささげた肉を食べたら、何か影響を受けはしないか、罪を犯すことになるのではないかと心配する人々もいました。頭で信じていることは正しいのに、心にそれについていかなくて、迷い、葛藤することも多いのです。福音の真理を知って生きるなら、本当に自由になります。ヨハネ8:32。
 信仰というものを自分の感情の強さや律法の知識によっている人が多いのも確かです。信仰歴の長い人でも、本当に福音的信仰を持っているとはかぎりません。知識の足りない人を蔑んだり、はっきり行動できない人を裁いたりするのです。それは、福音の欠けた強さです。ピリピ2:4〜5。

V−つまずきとならないように−8〜13
 問題は、信仰の捉え方がしっかりしていない、まだ偶像礼拝の殻をかぶっている人ではありません。唯一の神だけがおられて偶像などはいない、偶像にささげた肉もただの肉だ、食べても何でもないという知識を確かに持っている人が問題だ、と言うのです。なぜでしょう。8〜9節。信仰が強いと言う人たちが、信仰が弱いという人々の前で、何も気にすることなく、偶像にささげた肉を食べたとします。そのことが、信仰の弱い人を試みに陥らせるとしたなら、それていいのでしょうか、と言っているのです。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。何かをするか食しいかが問題ではありません。ただ、自分のすることが、「弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい」と言うのです。
 自分の自由が他の人の信仰に悪い影響を与えるなら、それは罪を犯すことになりませんか、と言うのです。11〜12節。ある人がクリスチャンになって、以前の習慣から抜け出して、それまで囚われていた偶像や酒やギャンブルとの関わりを断ち切って、新しい人生を始めたとします。ところが、信仰が強いと言われる人々がそんなこと気兼ねすることなくしているのを見たら、それまで戦って来たことを止めて,昔の生活に戻ってしまうでしょう。それは、強い人の信仰が、弱い人を滅ぼすことにないはしないかと問うているのです。
 パウロは決心します。「偶像にささげた肉を食べることで試みを受ける人がいるならば、私は食べない。自分の権利を放棄し、自由も制限します」と。13節。これが愛です。クリスチャンの行動原理は、自分が持っている知識に基づくのではなく、福音によって与えられた愛に基づいて適用されるのです。自由に何でもできる、言えるとしても、それで人に躓かせることになるなら、私はしない、言わないと決心するのです。ローマ14:13。
 ですから、私たちは、自分の判断を行使する時、愛の支配が必要です。知識は私たちを迷わすこともあります。知識が私たちを誤らせて、知識を持っていない人を誤解させたり、躓かせたりするかもしれません。勿論、知識がなければ、混乱と放縦をもたらします。しかし、福音なき知識は、人を困らせ、躓かせるのです。私たち長老教会の信仰が、徹底して聖書信仰であり、かつ福音主義であることは、どんな恵みであることでしょうか。このことでも私たちを導いてくれます。
 自分には安全でも、他の人には危険なことがあります。何でも食べる権利を持っています。偶像や供え物はむなしいことも知っています。自分は強い感情と多く知識を持っているでしょう。でも、ちょっと待ってください。福音による愛は、私たちに権利と自由は後回しにすべきだというのです。すべてのことが徳を高めるとは限りません。Tコリント10:23。「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」ことを心に留めて人に対します。



Tコリント
8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。
8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。
8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。
8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。
8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。
8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。
8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。
8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。
8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。



マタイ18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。

ヨハネ8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ピリピ2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。

ローマ14:13 ですから、私たちは、もはや互いにさばき合うことのないようにしましょう。いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまずきになるものを置かないように決心しなさい。

Tコリント10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

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