2015年3月1日「すべてのことを福音のために」Tコリント9:1〜27

序−救われてクリスチャンになれば、成熟したクリスチャン、信仰の成長を望みます。でも、時が経てば成熟して来るのでしょうか。知識を増やせば、信仰が成長するのでしょうか。パウロの証しから学びましょう。
 
T−権利を脇に置く−15〜18
 使徒としての弁明から、どうしたら成熟したクリスチャンになるのか、福音宣教が進展するのかを証ししています。そこで、使徒であるために自分が持っている権利について列挙しています。1〜14節。しかし、ここでパウロが言いたいことは、その権利を要求しているのではなくて、権利を持っているということだけです。当然権利を持っていたけれども、「その権利を用いなかった」ということを強調しています。12,15節。
 なぜでしょう。「福音の妨げにならないため」でした。8章で「弱い人々の良心のために権利を用いなかった」というのと同じです。8:9,13。私たちは、どんな権利を持っているでしょうか。親や子としての権利、夫や妻としての権利、先生や学生としての権利、職場の職責の権利、住民としての権利等々、様々な権利を持っています。人が快適に生きたいと願うならば、その持っている権利を十分に使うことを考えます。人は、この自分の権利を互いに主張して、互いにぶつけ合い、争います。でも、福音のために、人々の救いのために、人の心のために、当然行使できる権利を用いないという考えもあるのです。そのたましいの救いのために、その心の癒しのために自分の権利を用いない、という権利です。
 権利を捨てるとか、諦めるというのは嫌でしょう。福音のために、人のたましいのために、一時期対象を限定して用いないということです。その状況に応じて「権利を脇に置く」のです。パウロは、福音の証しは「どうしてもしなければならないことだから」と証ししています。16〜18節。宣教できた誇りも評価の期待もありません。クリスチャンの心に間違った律法的考えがあると、酬いの望みか罰への恐れによって態度が左右されてしまいます。私たちは、イエス様の十字架のゆえに救われている者です。愛の神は、ただ罪のために滅び行く者をあわれんでくださり、イエス様をその身代わりにされました。その恵みに応えて、福音を証しします。
 パウロは、かつては神様に背を向け、クリスチャンを迫害していた者でした。でも知らない時信じていない時にしたことで、あわれみを受けました。そして、福音を伝える恵みをいただきました。Tテモテ1:12〜13。これは、使徒パウロだけでなく、私たちも同じです。かつては真の愛の神を知らず、主に背を向けて、罪と肉の思い中心に生きていました。でも、一方的に救ってくださって、救いの恵みのうちに生きるようにしてくださいました。どんなに大きな恵みでしょうか。そして、私たちにも、その素晴らしい福音を委ねてくださいました。Tペテロ2:9〜10, ローマ1:14。
 ですから、パウロは、「福音を伝えなかったら、私はわざわいだ」とさえ証ししています。これを律法的な信仰で聞くと、罰のように聞こえるかもしれません。「わざわい」と訳された言葉は、「悲しみ、悲痛」の意味です。福音を証ししなければ、悲しみ、心の痛みとなるというのです。だからどうしても証ししなければならないというのです。人々のたましいのために「自分の権利を脇に置く」人は、神様の祝福を受けるでしょう。

U−すべての人のしもべに−19〜23
 次に、パウロは、福音によってたましいが救われるために、自分はどのように人々に接しているか、ということを証ししています。19節。イエス様によって救われたことで、たましいの自由を得ています。ガラテヤ5:1,13。罪と肉の原理の支配から自由にされたことは、素晴らしい救いの恵みです。ローマ8:1〜2。パウロは、罪の支配と裁きから解放されると、人の見方や人との関係も変わります。目を気にする、人の評価を当てにするということから自由になります。人々の態度からも、自由にされます。
 しかし、人のたましいの救いのためには、「すべての人の奴隷となった」というのです。パウロは、彼の福音による自由を人々のしもべとして仕えるために用いることを決心しました。このパウロの「仕えるしもべ」のモデルは、私たちの救いのために贖いの代価として自分のいのちを与えてくださったイエス様です。マタイ20:27〜27。それは、苦難のしもべの予言の成就でもありました。イザヤ53章。そして、最後の晩餐の夜にも、イエス様は、弟子たちの足を洗い、しもべとしての姿を教えられました。ヨハネ13:1〜12。その仕えるしもべの極致が、十字架でした。ピリピ2:5〜8。
 そして、パウロ自身の人生が、私たちにとって「仕えるしもべ」のモデルとなっています。この「しもべの神学」を称賛することは簡単ですが、しもべとなることは簡単ではありません。ある人は、このことでもっとも悪いことは、すべての人があなたをしもべとして扱うことだ、と冗談を言ったそうです。もしそうされたら、どうでしょう。憤慨するでしょう。人のしもべとなることは、自分のプライド、エゴ、自己中心への挑戦です。難しいだからこそ、「何とかして、幾人かでも救うために」、私たちも救い主の姿を見て、するのです。
 この姿勢は、人々の中でも偉大なしなやかさと自己を保つことへ導きます。20~22節。これは、ユダヤ人の真似をしたりすることではありません。彼は、律法を学んだユダヤ人であり、異邦人の文化の中で育ち、失敗や疎外感を経験した人でした。だからこそ、ユダヤ人がそれに縛られていることをよく理解しました。偶像と迷信の文化の中にいた異邦人や様々な弱さを持った人々に対しても、彼らのその状況と心情を思いやることに心を注ぎました。文化や生い立ちの違いが、イエス様が彼らのために死んでくださったその人々と自分との間のバリヤーとならないように人々を愛したのです。Tコリント8:11。彼の主であるイエス様がされたように、自分と違う人々を愛し、思いやったのです。
 人間関係に苦しんでいる人なら、その苦しんでいる心を思いやるのです。仕事に倦み疲れている人には、その疲れの中にいることを察するのです。空しさの中にある人には、不満と不平の中にある人には、ねたみと憎しみの中にある人には、その思いを察し、その心に寄り添うのです。思いやりは、見返りを求めないし、相手の状況を考慮し、相手をじっくり考え、見守り、自分の霊的満たしも持ちながらすることです。
 このようなことを専門用語では、コンテキスチュアリゼーション「文脈化、文化への適用」と言います。語彙や文章を文脈の中で理解するように、その人をその状況や心情の中で理解しようとすることです。これをしないでただ自分の思いだけぶつけると、好意が拒絶された、福音を伝えない方がいいのでは、と思うようになります。私たちは、聖書の教えをその人の文化や生い立ち、心情に合わせて適用していくことが必要です。

V−朽ちない冠を受けるために−24〜27
 福音を証しし、たましいの救いに仕えるためには、言葉だけで伝えるのではなく、結局福音を証しする私たち自身が整えられることが必要です。それが、私たちを霊的に成熟させ、成長させます。パウロは、運動競技会をもって説明しています。24~27節。もし私たちがクリスチャン人生において勝利を望むなら、アスリートの原理を適用しなければなりません。レースで賞を受ける者は一人だけですが、クリスチャンすべてに、勝利の人生を送る可能性があります。パウロのアドバイスに耳を傾けましょう。
 まず、私たちは決心しなければなりません。24節。レースとしてのクリスチャン人生という考え方自体、とても魅力的なものです。イエス様に救われた時から新しい人生が始まって、クリスチャンというアスリートとしてエントリーされています。ただ、走る決心が必要です。永遠の報いという賞を受けるために走るという決心です。世の多くの人々が肉の欲の実現や物質的成功のために人生を費やして、それこそ走っています。主は、私たちに何を優先すべきか尋ねています。それは、私たちが主のことを願うということです。
 決心したならば、ひたむきに走ることです。25節。レースで走るという決心で十分ではありません。アスチートは何をしなければなりませんか。自制です。厳しい訓練や活発なトレーニングなしには、誰も競技に勝つことはできません。クリスチャンというアスリートには、霊的訓練なしの霊的成熟、信仰の成長などありません。勝利に到達するための習慣や行動を人生の中に根気良く打ち立てることを必要とします。世の人々が欲と罪翻弄されて闇雲に人生を走り、やがて疲れ果ててしまいます。私たちは、疲れ果てないように、イエス様を見上げ、信仰で走り続けます。ヘブル12:1〜3。
 走ることを決心して、ひたむきに走って、そして、じっくり考えなければなりません。26〜27節。人は、目的なしに考えることなしに人生を走っています。私たちは、ゴールについて考えながら走ります。フニッシュラインはどこかを知って、すべてがゴールに私たちを運ぶようにしなければなりません。ゴールは何ですか。勿論イエス様と天の御国です。
私たちは人生の輝かしいゴールを目指して、イエス様を思いながら、信仰の生涯を走り続けるのです。ヘブル12:1~2。主が用意されたゴールへ向かうライフスタイルですか。あなたの人生の最優先は何ですか。神の国にはリタイヤーしたクリスチャンはいません。信仰の生涯は、御国に入るまで走り続けます。Uテモテ4:7, 使徒20:24。



Tコリント
9:15 しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。
9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。
9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。
9:18 では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、──私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。



Tテモテ1:12 私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

Tペテロ2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

ローマ1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。

マタイ20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。

ピリピ2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

Tコリント8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。

ヘブル12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

Uテモテ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

使徒20:24 けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

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