2015年3月8日「恵みの後の試練」Tコリント10:1〜13

序−歴史を学ぶと我々が歴史から学んでいないことが分かる、とかの有名な哲学者は言っています。過去の出来事は、現代に教訓や助けを与えてくれます。でも、歴史を忘れた人々は、同じ過ちを繰り返す傾向があります。使徒パウロは、思い違いをしていたコリントの聖徒たちに、出エジプトの民の例を引きながら、そこから学ぶようにさせています。

T−奴隷からの解放と恵みの体験−1〜4
 コリントの人々の思い違いとは、洗礼を受け、聖餐に与っていることが、罪の誘惑や患難から免れるだろうと考えていた点です。ちょうど予防注射をした人々が感染の心配をしないようなものです。そこで、パウロは、イスラエルの歴史を引用しています。原文の1節には、訳されていない「ガル(というのは)」という言葉があります。9:26〜27の「決勝点がわからないような走り方、自分自身が失格者」の説明となっています。
 出エジプトの民の姿は、私たちに大切な忠告と教訓を与えてくれます。1〜4節。出エジプトの特筆すべきことは、エジプトでの奴隷状態から神様によって奇跡的に助け出されたということです。私たちにすれば、罪の奴隷からイエス様の十字架によって救い出されたということです。洗礼を受け、聖餐に与っているという儀式が、あたかも罪の誘惑や患難から免れるかのように思い違いをしていたコリントの聖徒たちに類似させています。
 出エジプトの民は、雲の柱に導かれ、紅海を渡って救い出されました。それをイエス様の救いになぞらえて、「雲と海とで、モーセにつくバプテスマ」と言っているわけです。私たちがイエス様の十字架によって救われたということは、その奇跡のような出来事なのです。出エジプトの民が、天より与えられたマナを食べ、岩から出された水を飲んで助けられたという奇跡を、イエス様によって救われた者がする聖餐に擬しています。
 エジプトで奴隷状態であった者が、解放されて、自由にされたことを思い出させてしています。脱出も、食物も水もすべて神様から来たものであり、彼ら自身から出たものは何ひとつありませんでした。彼ら自身の努力の成果は何もありませんでした。神様の一方的な恵みであることが強調されています。まさに、私たちクリスチャンが、イエス様の十字架を信じて救われたことそのものです。救いの御業は、すべて神様からです。私たちの業は何一つありません。ただ罪の奴隷となって滅び行く者をあわれんでくださり、イエス様の十字架のゆえに救ってくださいました。神様の一方的な恵みに他なりません。エペソ2:8,Tコリント15:10。 
 私たちは、救われた恵みを感謝しているでしょうか。日々神様のあわれみを受け、守られ、導かれているのを覚えているでしょうか。「どう歩んでいけばいいか分からすに彷徨っていたな、憎しみやねたみに囚われていたな、不安や恐れで心がいっぱいだったな、そこから解放されて、救われて本当に良かった」と思い返すなら、感謝に溢れるでしょう。そして、恵みを覚えていれば、恵みに応えて主の御旨をなして生きよう、霊的成熟の歩みを求めて歩もうとして行くようになるでしょう。
 しかし、恵みも奇跡も過ぎてしまえば、意識しなくなります。自分の努力で歩んで来たかのように、元々自分はできた人間であるかのように自信過剰になります。出エジプトの民が、そうでした。その得られた自由も恵みも、試みや患難に出会った時、揺さぶられることになります。

U−患難の中で恵みを忘れて−5〜9
 出エジプトの民は、解放された恵みも忘れ、救い出されたことを当然と思い、荒野での困難の中で、彼らの罪性はあらわとなりました。そして、約束の地に入ることができませんでした。5節。約束の地に入ることができたのは、カレブとヨシュアの二人を除く、第二世代以後の民だけでした。その理由が、6〜9節に記されています。みな私たちへの戒めです。
 まず「むさぼり」です。6節。これは、神様が用意してくださったもの以外に対する貪欲です。必要なものを求めるのとは違います。彼らは、神様が彼らのために用意されたものでないあらゆるものを求めました。民数記11章。私たちは、様々なものを求めます。私には無いと不満に思います。でも、何も与えられなかったわけのではありません。与えられたことの恵み、感謝を忘れて、何もないかのように、与えられている以上に貪るのです。神様を信頼しないのです。そして、悪いものまで求めます。
 「偶像崇拝」7節。山に登ったモーセが、中々降りて来ないと、民は不安になり、金の子牛の像を作り、拝みました。出エジプト32章。何かを神様の代わりにしようとした行為です。刻んだ像を拝むことだけが偶像ではありません。神の代わりに自分の心の拠り所するものがすべて偶像になります。金銭、権力、人の評価、肉の満足等々です。解放された民なのに、自分たちの救い主に拠り頼まないで、神の命令に違反したのです。
 「姦淫」8節。民は与えられた自由を乱用し、自由を忠実に守ることを怠り、肉の働く機会としてしまったのです。ガラテヤ5:13。民の不品行は、偶像礼拝と連動していました。民数記25章。神様に従うことをやめ、偶像に心寄せることは、霊的な姦淫であり、人への姦淫もそこから生じます。神の御前での結婚の誓いを忘れてはなりません。
 「主を試みること」9節。民は荒野を歩む中で、マナにあきて、神に逆らって「なぜ、私たちをエジプトから連れ上って、荒野で殺そうとするのか」と言いました。民数記21章。私たちが理解できない問題に出会う時、我慢できず、気落ちして、神を批判する者となります。神を信頼せず、神を試みるのは虚しいことです。祈ってはいても、悔い改めることなく、ただ要求するだけです。私たちをねたむほどに愛される神様は、私たちを罪から守るために、私たちに対してまったき忠誠を求めます。
 「つぶやき」10節。民は、荒野での困難に会った時、神様に向かってつぶやきました。民数記11章。主を試みることとつぶやきは連動しています。本当の問題は、神の前に立つ時、世界を支配される神様に膝を屈めようとしないことです。私たちはどんな時つぶやくでしょうか。物事が自分の思うように行かない時、患難に出会った時です。神を信頼できずに呟きます。

V−私たちへの教訓、試練に際して−11〜13
 使徒パウロが神の民の歴史を引用したのは、「私たちへの戒め、教訓とするため」です。11節。神様の救いの歴史を理解するためです。救われた者が霊的に成熟し、福音に生きるためです。そして、救いを受けた後に、困難に出会ったらどうなるのかということです。聖書には、天地創造から初代教会にいたるまで、神様が私たちをどれほどあわれんで愛してくださり、救い続けてくださったかという救いの歴史が記されています。
 ところが、知識的な信仰であったコリントの聖徒たちは、自分たちには強い信仰がある、多くの知識という自信がありました。しかし、救いに対する感謝を忘れ、その恵みに応えることも考えませんでした。それでは、患難に出会い、困難に陥る時、ひとたまりもありません。出エジプトの民のように罪に翻弄され、罪過ちを犯すことになるでしょう。信仰の成長、霊的成熟はありません。私たちが信じるのは、イエス様の救いであり、神の愛とあわれみであり、自分自身ではありません。
 私たちは、救われるには自分があまりにも罪深く、救いのためには何もすることができないからこそ、イエス様を信じたのではないですか。聖霊の助けと神様のあわれみがなければ、私たちは少しも罪から守られることはできません。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と言うのは、倒れないように頑張れというのではなく、自分は倒れてしまうような者ですよ、だから全面的に主に信頼しますということです。
 滅びから救い出され、罪の奴隷から解放されたその恵みの後で、患難や問題に出会ったら、私たちはどう受け止めるのでしょう。救いの恵みを忘れて、自分の力、自分の思いで向かうなら、出エジプトの民のようになってしまいます。私たちは、弱くてもいい、不安であってもいい、ただイエス様の十字架に救われた恵みを忘れない、神様の愛とあわれみに信頼し続けることです。マタイ7:11。13節の恵みの言葉を覚えましょう。イエス様の十字架の救いのゆえに与えられている約束です。
 私たちの人生途上、クリスチャンとして歩む中で、様々な困難、難しい問題、耐えられそうもない苦しみに出会います。その時私たちは様々な誘惑と試みを受けます。そうした声に聞き従ってはいけません。誘惑の声を聞くなら、出エジプトの民のようになります。救いの恵みを覚えて、神様の約束に信頼するなら、13節の御言葉は私たちにも適用されます。
 まず、自分が会っている苦難は、まれな特別なものではない、誰もが出会う苦難であると受け止めることです。家庭や夫婦の問題、学校や勉強での試練、仕事や職場での苦難、そうしたことを幾多のクリスチャンの先輩たちが出会い、経験して来たことです。信仰者の歴史を学ぶと、ヒントと励ましを受けます。そうです。先人たちは、信仰のゆえに耐え、脱出の道を見出し、救い出されました。私たちが問題や苦しみでもがく時、神様は私たちに忠実であるということです。ですから、「主は耐えられないほどの試練に会わせない」という約束を握ることができます。
 人となって世に来られたイエス様は、私たちの苦しみを味わい、私たちの限界をご存知です。ヘブル2:17〜18。私たちが思ってもみない実際的な助けを導いてくださいます。救いの恵みを感謝して、主をほめたたえます。



Tコリント
10:1 そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの父祖たちはみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、
10:3 みな同じ御霊の食べ物を食べ、
10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。
10:5 にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。
10:6 これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。
10:7 あなたがたは、彼らの中のある人たちにならって、偶像崇拝者となってはいけません。聖書には、「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」と書いてあります。
10:8 また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫をしたのにならって姦淫をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫のゆえに一日に二万三千人死にました。
10:9 私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう。彼らは蛇に滅ぼされました。
10:10 また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。
10:12 ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。



エペソ2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

Tコリント15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。

ガラテヤ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

マタイ7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

ヘブル2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

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