2015年3月15日「何をするにも神の栄光のために」Tコリント10:14〜33

序−私たちは、この偶像の世界の中でクリスチャンとしてどのように生きるかということが、大きな課題の一つです。今朝の箇所を通して、とてもシンプルな規準が与えられています。偶像にささげた肉の例をもって、他者への配慮と自分自身を省みることが教えられています。

T−偶像を避けなさい、自分のために−14〜22
 人は、けっこう右に左に極端に振れものです。これは偶像にささげた肉だよね…と心配する聖徒たちだけ問題なのではなく、偶像にささげた肉なんてなんでもないよ…とまったく気にしなすぎる人も問題です。極端な話し、コリントの聖徒たちの中には、偶像の宮で偶像礼拝者とささげた肉を一緒に食べる者もいたようです。色々な歴史的建造物は、偶像礼拝と関係するものが多いですが、その建物を観光するのとはわけが違います。偶像礼拝参加は誤りであり、大きな危険があります。
 そこで、パウロは、簡単な論議で説明しています。14〜15節。賢い人に対して話すように話すので、自分で判断してくださいと尊重していますが、実際問題は、自分で判断しなければなりません。「偶像礼拝を避けなさい」と言われても、彼らは、偶像礼拝するつもりはありません。いや、偶像礼拝なんてしていないと言うでしょう。ですから、偶像礼拝をするなと言うのではなく、「偶像を避けなさい」と言っているのです。「逃げなさい」とも訳されます。これは、かなり危険だということです。
 クリスチャンは自由にされている、偶像なんて本当にはないと言っていたのに、なぜ問題になるの、と聞いた人々は疑問に思うことでしょう。そこで、クリスチャンが神の宮、教会で礼拝しながら、飲み食いすることを思い出させています。16〜18節。クリスチャンが「聖餐式で飲む杯は、キリストの血にあずかること、その裂くパンは、キリストのからだにあずかること、それで一つからだ」となることでした。イエス様の十字架による救い、贖いを覚える恵みと感謝の時です。その尊い聖餐に与っている者が、平気で偶像の宮で飲食に参加することができるだろうか、ということです。他のクリスチャンを躓かせるだけでなく、ノンクリスチャンに誤解を与え、自分自身の信仰を危険にさらすことになりかねません。 危険であることを知らせるために、こう続けます。19〜21節。偶像にささげた肉が何か力を持っているわけではなく、偶像の神も存在するわけではないのですが、偶像をささげる行為は、悪霊と交わる者になってしまいますよ、と言っています。ですから、偶像礼拝や不品行、放蕩や酩酊の恐れのあることには、私は強いからとか私は大丈夫だとか言っていないで、とにかく避けなさい、関わらないようにしなさい、と言うのです。Tコリント6:18, エペソ5:4。私たちはそれぞれ今、何かを避けるように、どんなことに関わらないように、と神様から言われているでしょうか。
 主の食卓にあずかったうえに悪霊の食卓にあずかる、主の救いの恵みに欲していながら、そのようなことをするなら、主のねたみを引き起こすと強調しています。22節,出エジプト20:5。いわゆる人の羨みやねたみのことではありません。神のねたみは、神の民に対する愛の熱心と同じです。神様が、イエス様の十字架の犠牲のゆえに救われた者に、期待するものがあります。それなのに、偶像に心を向けるならば、神は怒られるでしょう。クリスチャンの行動原理は、信仰的なものは、まず「避ける」ことです。

U−他人の利益を心がけなさい、状況に合わせて−23~30
 クリスチャンの積極的な行動原理は、何でしょう。23~24節。「他の人益となるため」とは、繰り返し出て来た言葉です。有益になるという原語スュンフェローは、「共に担う」という意味ですから、共に益となるということです。自由にできるとしても、人の徳を高めないことも、益にはならないこともあります。だから「他人の利益を心がけなさい」と勧めます。私たちの行動原理は、自分の益に見出すのではなく、他の人の益、すなわち他者に与える影響のうちに見出されるべきだというのです。
 前の時は、弱い人々への配慮でしたが、今回はノンクリスチャンに対する配慮です。世の人々は、私たちの言動を見て判断します。クリスチャンの姿に影響を受けます。その人たちは神様のあわれみを受ける対象です。その方たちは主の救いの対象です。そうであるならば、私たちが自分の生き方を省みるのです。コロサイ4:5。世の人は、私たちについて考える時、クリスチャンとして考え、私たちのなりふりから考えます。人々が教会について考える時、私たちクリスチャンを見ることで考えます。ですから、「他の人の益となるため」という原理によって、人々と関係して行きます。
 しかし、原理はどこまでも原理です。適用が肝心です。当時のコリントの状況に合った例として偶像にささげた肉を取り上げています。23~29節。市場で売られている肉は、基本的には何も何も問わないで買って食べていいです。しかし、信仰のないノンクリスチャンに招待されている場合、どこから買った肉なのと聞かないで何でも食べればいい、もしだれかが「これは偶像にささげた肉です」と言うなら、そう知らせた人のために、良心のために食べないというのです。私たちが出会う様々なことも、それぞれ適用を考えてしなければならないでしょう。
 私たちは、「自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」という勧めを謙遜に聞かなければなりません。意識せずに、自分の利益、自分の満足、自分の思いで生きてしまいます。ここで問われているのは、「弱い人」ではなく、「強い人」です。自分の知恵や考えに自信のあるクリスチャンです。自信があるから、自分の思いと考えだけで進んでしまいがちです。自分の言動を弱い人がどう受け止めるか、世の人々がどう思うかということに、心遣いましょう。忖度を人に求めるのでなく、自分が人の心を斟酌して言い、行動するのです。私たちは、自分の自由を、悪態をついて人を躓かせるような自分中心の正当化のために用いてはなりません。
 自分のルールは大事にすべきですが、人々に適用する場合には、その人のたましいのために、自分のルールはそっと後ろに置くのです。「自分自身の前に他者を置く」ということです。24節では、私の隣人とか私のような人とは言わず、「他人」と言っています。使われていることばは、むしろ「私とは違っている人、私とは一致しそうもない人」という意味です。こういう人は、自分のことを超えて考えるべき人です。自分のような人、自分を好んでくれる友人には敬意を払うのは、当然でしょうし、霊的な配慮を必要とはしません。しかし、自分とは違う人々のために自分自身の言動を制限したり、その人に配慮したりすることは、霊的な力を必要とし、主の助けなしにはできないことです。
 
V−人々が救われるために−31~33
 ですから、まとめにこう言っています。31~33節。「人につまずきを与えないようにするに、ただ神の栄光を現すためにしなさい」と勧めています。言うなれば、「すべての配慮の上に神の栄光を置く」ということです。主に栄光を置かないで、神ではないものに中心を置くならば、判断を誤り、人との関係に争いや問題を生じさせるでしょう。偶像にささげた肉の問題を取り上げながら、「何をするにも、ただ神の栄光を現すために」という結論に導かれて来ました。「すべては主の栄光をあらわすために」とは、これから私たちが困難な問題、争いを引き起こし易い出来事を取り扱うに際して、最良の導きとなるでしょう。
 これまで、私たちは、神の栄光を第一に考えなかったために、どれほど憤慨し、争い、人を躓かせたことでしょうか。敵を作り、神の国を傷つけてしまったことでしょう。もうそんな不毛な惨めな信仰生活はしたくない。一時的に自分の肉と我を吐き出して溜飲を下げ、満足したとしても、人に躓きを与え、自分の悪評を撒き、人を福音から遠ざけてしまうのは、もう避けたいのです。そのようにして来たことに気付いて、主の前に悔い改めます。「主よ、私を赦して、私を新しくしてください」と祈ります。
 「何をするにも神の栄光のために」とは、どんなことにも適用される原理です。パウロ自身それを生涯において実践して来たことを証ししています。33節。「人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、みなの人を喜ばせている」と言っています。これが、クリスチャンの究極的な目的であり、クリスチャン人生の情熱です。「すべてのことを主の栄光のあらわすために」するなら、その時私たちは自分の望むことを自由にしているということになります。
 しかし、これは、信仰が整えられ、霊的に成熟した人が、弱い人や世の人に対し配慮し、躓かせることを避けることができるということです。くれぐれも、弱い人、世の人に要求しないでください。そうかと言って、自分にはできない、自分は不十分だと自分を責めるのではなくて、悔い改めて、主に助けを求めましょう。パウロは特別だけど、私には無理だ、そうしなくてもいいだろうという所に逃げ込まないようにしましょう。
 「人々が救われるために、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がける」「何をするにも、ただ神の栄光を現すためにする」という二つの単純なクリスチャン生活の原理は、偶像の文化の中、人間関係の難しさの中で生きる私たちにとって、確かなナビゲーションとなって、私たちを助けてくれます。なぜなら、イエス様の十字架の死と復活によって私たちのすでに救われているからです。ガラテヤ2:20。



Tコリント
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
10:15 私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください。
10:16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
10:17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。供え物を食べる者は、祭壇にあずかるではありませんか。
10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。
10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
10:24 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
10:25 市場に売っている肉は、良心の問題として調べ上げることはしないで、どれでも食べなさい。
10:26 地とそれに満ちているものは、主のものだからです。
10:27 もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。

10:28 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。
10:29 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。
10:30 もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。
10:32 ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにしなさい。
10:33 私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。



Tコリント6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

エペソ5:4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。

コロサイ4:5 外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。
4:6 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。

Tコリント6:12 すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

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