2015年3月22日「補完的役割」Tコリント11:1〜16

序−コリント教会で起こっていた男女関係の問題を取り上げながら、今日にも適用される男女、夫婦関係の原理を教えています。偶像にささげた肉も、今日の髪の毛やかぶり物も私たちの何かにそのまま適用できません。ただ、その時代の状況における特殊な例を通して、普遍的な大事な男女の原理を学びましょう。

T−行き過ぎた自由と混乱−4〜7,10,1〜15
 ですから、起こっていた問題そのものを深く入り込むことはしないで、その問題に現れた理由に目を留めるだけに留めておきましょう。その時代の先進文化の地コリントで起こっていた髪の毛やかぶり物の問題を扱っています。コリントの文化の影響を受け、女性たちの知識や権利が増加し、男性と同じことをし、伝統を破り、自由に振舞うようになりました。クリスチャンとなって、その傾向はさらに過激になったようです。男性もまた影響を受け、コリント教会は混乱していました。
 ベールをつけるという伝統をやめ、男性のように髪の毛を短くしたり、逆に豪華な髪型や髪飾りをする人もいました。そうして、自分を目立たせようとしたのです。女性の髪の毛の美しさは、御使いも目を奪われるほどだという言い方も引用されています。ベールをつけず、豪華に編んだ髪の毛や飾り物は、娼婦がしていたようです。そこで、使徒パウロは、伝統を破ってはいけないと言うのではなく、ベールをつけることで混乱を収めようとしたのです。ベールをつけることで男女の区別がつき、貧富の差も目立たず、娼婦と間違えられないようになりました。
 そして、男性も、髪の毛を長くしたり、頭にかぶり物をつけたりしてかっこいいと思う人も出て来たようです。それでは、女性か男性か分からないようになったというわけです。何か現代と同じようだと思います。ここに記されていることは、その時代その地での特殊な状況での適用です。ですから、現代のクリスチャンもベールをかぶるべきだ、男の長い髪はだめだ、などとは言っていません。現代は現代で、どうすべきかは「あなたがたは自分自身で判断しなさい」と言われています。13節。それはおかしいとか反発したり、躓いたりしないでください。そのまま今の状況にあてはめようとしたりしないで、自分で考えて、聖書の原理を適用しましょう。
 
U−権威と従うことの原理、イエス様というモデル−3,7〜9
 まず、「権威と従う原理」を提示しています。3節。この「かしら」とは、「権威」のことです。クリスチャンのすべては、イエス・キリストの権威に従います。クリスチャンにとっては、自然のことです。私たちのほとんどは様々な権威に服しています。真実に従うことは、真実な権威に対してです。女が男に従うことは、学生として先生に従うこととは違います。「男のかしらはキリストであり、女のかしらは男」だからです。「キリストが教会のかしらであるように、夫が妻のかしら」だからです。エペソ5:22〜24。夫の権威には、責任が伴います。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、自分の妻を愛しなさいと言われています。エペソ5:25〜28。従うことには、自主性にあります。どっちが得とか損とかはありません。どちらがそれを担うかだけの違いであり、両方相まって機能することになります。
 人にとって権威とは何でしょう。私たちのモデルは、イエス様です。その権威は、サーバント・リーダー、仕えるしもべの姿です。マルコ10:45。ですから、どんなクリスチャン・リーダーでも、仕えるしもべであるべきです。利益を受けるのは、従っている人です。仕えるしもべのモチベーションは、キリストにある愛です。Tヨハネ4:10〜11。神様は、従うサーバント・リーダーに報いてくださいます。従うことがなければ、罰もあるでしょう。この従うことについて私たちを苦しめることは、何でしょう。従うなんていやだ、低く見られる、ということではないですか。それは、単なる肉のプライドの問題となります。はたして、男の権威に女が従うことが、女は男より低い存在だということを意味するのでしょうか。
 私たちに与えられているイエス様の例をみましょう。3節。イエス様は、仕えるしもべですが、仕えられる人より低い存在なのでしょうか。イエス様のかしらは父なる神ですが、御父と御子は一つです。ヨハネ10:3。イエス様は、ご自分を空しくし、私たちと同じようになられ、十字架の死にまで従われました。ピリピ2:7。このようなイエス様の例を見ながら、従うということは、低いということを意味すると結論づけることができるのでしょうか。ですから、妻は夫より低いというのではなく、夫に従っているだけです。なぜ、私たちは、その関係においてたくさんのトラブルを持ってしまうのでしょうか。

V−男と女の違い、主にあって一つ−11〜12
 男と女の関係について質問してみるならば、様々な答えを得ることでしょう。男尊女卑を言う人もいれば、過激なフェミニストを指摘する人々もいるでしょう。何れにしても、人々の肉の思いには、罪が入り込みます。サタンは、何かを造ることはできません。神様が創造された関係をゆがめることができます。
 その歪みについて調べてみましょう。人は、法的な男女同権というフィクションに夢中になっています。法的な男女同権は、世にあっては、法的には有効です。しかし、私たちは、フィクションは脇に置いて、真実を取り扱わなければなりません。私たちはすべて、キリストにあって同等だと言います。しかし、取替え可能なパーツではありません。男は、女と取り替えることはできません。今や「権威に反発する」という流行は、歪みを生じています。学校は無法地帯となるのでしょうか。結婚は、同性の同士なのでしょうか。家族は、同居人に過ぎないのでしょうか。
 男女は同じではありません。6節。なぜ「女が髪を切れ、剃れ」と言うのでしょうか。男性は一般的に髪は薄くなって行きます。これは、もし女性が男性と同じようになるというなら、髪の毛も男性と見えるようにしなさいということです。男女は造られ方が違います。創世記2:18,22。
 男女は違うけれども、互いが互いを必要とするものとして造られています。12節。このことが重要です。男と女は違うけれども、違うゆえに互いに従い、互いに仕え合わなければならないのです。エペソ5:21。男と女がそれぞれの役割が相まって、一つの存在となり、一つの働きをなして行くのです。役割が違うからこそ、補い合い、助け合うのです。これを「補完的関係、相補関係」という言います。1違いのために互いを理解せず、争い、憎むのは、罪のせいです。

W−専制君主か王子か−
 なぜ、性の違いが重要なのでしょうか。ここで挙げられている問題は、現代の私たちにはどうでもいいような、些細なことのように思えます。髪の毛の長さとか、昔のファッションの問題が何になるのでしょうか。具体的問題を取り上げながら、時代を越えた原理を与えています。男と女は違う存在として神様によってデザインされているということです。ですから、違いを悟り、デザイナーによって意図されたところに従って男女の関係を取り扱わなければならないのです。
 権威を正しく用いることが大事です。権威を与えられている、権威に従うということには、理由があります。男の権威は、妻と子どもを守る権威です。もし両親が同じ権威を持つなら、子どもは混乱するか、間を巧みに動いて従わないでしょう。この権威は、男性の肉体的な強さと傲慢を矯正するものとしても与えられています。そういうことなのか、頷き、驚きます。サーバンント・リーダー、仕えるリーダーシップの訓練を受けなければなりません。イエス様の例から学びます。1節。また、この権威は、子どもを保護する女性をささえることになります。不安に陥り、怒りに引かれるなら子どもを保護できなくなるでしょう。
 当時の女性の問題を取り上げながら、男女の関係について、とりわけ男の権威のことについて取り扱って来たので、男性の権威について大事なことを扱わずに終わることはできません。分かり易い面白いたとえを引用しましょう。夫は暴君か王子かという譬えです。女性は、暴君と結婚するのと王子様と結婚することの違いを知っているでしょうか。暴君は合法的な権威ではありません。王子様は合法的な権威です。もし男性が合法的な権威を持つなら、それはキリストから来たものです。もし女性が王子様と結婚するなら、夫はキリストの権威だと悟り、キリストに従うのです。夫は暴君か王子様か、妻もその鍵を握っています。
 夫は、キリストの権威を持っているでしょうか。持っているなら、王子様です。暴君の行動の動機は、自己中心です。自分の利益と満足が動機なら、夫は暴君です。王子は、自分自身に気をつけます。夫は、自分の利益と満足の前に、妻への愛を置いているでしょうか。それならば、夫は王子様です。暴君とは、自分を君主の模範だと考えます。しかし、王子様は、イエス様を模範とします。男性は、「仕えるしもべ」を見ならっているでしょうか。男性は、「私がキリストを見ならっているように」私に従って来なさい、と言っているでしょうか。男性に問われています。あなたは、暴君ですか、それとも王子様ですか。Tヨハネ4:11, エペソ5:21。



Tコリント
11:1 私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。
11:2 さて、あなたがたは、何かにつけて私を覚え、また、私があなたがたに伝えたものを、伝えられたとおりに堅く守っているので、私はあなたがたをほめたいと思います。
11:3 しかし、あなたがたに次のことを知っていただきたいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。
11:4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
11:5 しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
11:6 女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。
11:7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現れだからです。女は男の栄光の現れです。
11:8 なぜなら、男は女をもとにして造られたのではなくて、女が男をもとにして造られたのであり、
11:9 また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
11:10 ですから、女は頭に権威のしるしをかぶるべきです。それも御使いたちのためにです。
11:11 とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません。
11:12 女が男をもとにして造られたように、同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から発しています。
11:13 あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。
11:14 自然自体が、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは男として恥ずかしいことであり、
11:15 女が長い髪をしていたら、それは女の光栄であるということです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。
11:16 たとい、このことに異議を唱えたがる人がいても、私たちにはそのような習慣はないし、神の諸教会にもありません。



マルコ10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

エペソ5:21 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。
5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

ガラテヤ3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

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