2015年3月29日「聖餐の恵み」Tコリント11:1〜34

序−私たちは、交わりのめに一緒に食事をするということをします。初代教会においても、食事の交わりが重要でした。愛餐と呼ばれていました。そして、その後に聖餐式をしていたようです。しかし、食事は人の罪が出る場でもあります。食事の際に争いもありました。ですから、交わり、コイノニアにとっても、聖餐は大事なものだと教えています。
 
T−違いが愛餐の交わりを崩さないように−17〜22
 コリント教会において、聖徒たちの食事の交わりは、「集まりが益にならないで、かえって害になっている」と言われています。17節。彼らの集まりは、愛餐の食事と、それに続いてもたれていた聖餐です。当時は、イエス様が食事の際に聖餐式を教えてくださったので、その形を真似ていたようです。教会の聖徒たちがそれぞれ食べるものを持ち寄って、愛餐と呼ばれる食事の交わりを持っていたのです。それは、愛餐というキリストにあって食べ物を分かち合う美しい絵のような交わりになるはずでした。
 ところが、その食事の交わりが、愛餐の名とは程遠い、争い、分裂、混乱の場となっていたというのです。18〜22節。これまで学んだように聖徒たちの間にある違いに対する配慮がなかったためです。信仰の成熟度、賜物の違いと様々な違いがあります。しかし、ここで問題となった違いは、裕福な人と貧しい人の違いでした。裕福な人は自分勝手に豊かな食事をしていたのですが、奴隷階級のような人々は持って来るものもなくお腹を空かしていたのです。さらには、われ先に来ては飲み食いし、酔っている者もいたという体たらくぶりでした。
 これは、どうやらそれまでの偶像礼拝や社会慣習の影響と思われます。彼らはまだクリスチャンの交わりがどういうものであるか分かっておらず、それまでの異邦人としての習慣をそのまま持ち込んでしまった結果でした。18節の分裂と19節の分派は違う言葉が用いられています。信仰や神学が違うならば、それは分派であり、同じ信仰ではなく、一緒に礼拝生活はできません。しかし、分裂と訳された原語スキスマの意味は、「布地が裂ける」ということです。信仰を霊的に理解していないために、信仰が成熟していないために、肉の思いで争い、配慮できず、主にある交わりが裂かれていたということです。残念なことです。
 私たちも、まさに異邦人世界に住んでいます。友達同士でも、親族でも、会社の交わりでも、食事の場がもたれます。そこでは、必ずしも良い交わりとはならず、しばしば噂話や争いの場となり、罪や醜態をさらす機会となってしまいます。私たちも、そういう場で痛みや悲しみを感じたり、私たち自身が肉の思いに駆られたりすることがあったでしょう。ですから、私たち自身コリントの姿から学ばなければなりません。

U−聖餐の真実な意味−23〜26
 主にある交わりとなり、交わりが破られないために、そのためにも主の聖餐があると思い出させています。23~26節。クリスチャン一人一人が、問題の一部となるのではなく、問題解決の一部とならなければなりません。コリント教会のある人たちは、世の宴会のように、愛餐を悪口や噂話の場とさせ、食欲を満足させるだけの場としていました。争いを引き起こし、貧しい人たちに屈辱を与えていました。「ほめるわけにはいかない」と抑制していますが、罪の姿ではないですか、と言うことです。
 最も悪いことは、「キリストのからだと血を汚している」ということです。そこで起こっていたことは、世の食事の席で行われていたことであり、人々が行っていたことなので、その罪の意識がなかったかもしれません。しかし、クリスチャンにとっては、それはどんなに酷いことであり、自分の信仰にとっても悲惨なことか知らなければなりません。続いて行われていた聖餐に解決と覚醒の糸口があります。
 このイエス様が教えてくださった聖餐式は、信仰の中心です。23〜26節。もし私たちが、この聖餐の重みを理解するなら、その犠牲を汚している罪を覚えなければなりません。「あなたがたのための、わたしのからだ」とは、イエス様の体という肉体の犠牲がなければ、贖罪、すなわち私たちの罪の赦しはない、ということが強調されています。「パンを裂き」という表現は、一緒に食事をするということを意味しています。聖餐式でイエス様のからだであるパンを裂くというのは、教会の一体性をあらわしているシンボルです。ヨハネ17:21〜23。私たちのための犠牲、身代わりだから、「からだ」なのです。ですから、神であるお方が人となって来られたのです。
 そして、イエス様は、十字架の犠牲が「わたしの血による新しい契約」だと言われました。この意味は何でしょう。この契約は、神様によって提供された契約です。人間の側から変更できるものではありません。普通の契約は双方から提供されるのですが、人からは何もありません。ですから、一方的な恵みと言われるのです。ヨハネ6:37,44。罪に翻弄され、それゆえ滅びて行く者を神様があわれんでくださり、愛してくださり、御子イエス様を身代わりとして十字架に渡された、というのが福音です。こんな恵み、こんな一方的な契約があるでしょうか。世にこんな恵みはありません。
 旧約聖書では、「いのちは血にある」と言われています。レビ17:11。ですから、私たちの滅びの身代わりとして、私たちに天国への命を与えるためにイエス・キリストは十字架で血を流されたのです。これは、永遠の契約です。イエス・キリストは、復活によって、信じる者に永遠の命を与える約束をくださいました。主の尊い犠牲によるということは、私たちの人生が無意味なものではないということです。なぜこんな家庭に生まれたの、なぜこんな結婚をしたの、なぜこんな仕事なの、と意味が分からず、空しくなることがあります。しかし、イエス様が身代わりになられたほど、私の存在は大切なのだと覚えるのです。新しい命をもって、神様に生かされて生きていけるのです。なんと言う恵みでしょうか。
 救い主イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6。イエス様の十字架の犠牲、イエス様による罪の身代わりがなければ、「救いの道」はありません。他に救いの道はあるかと探しますか。神の御子が私のために犠牲になられたのです。真摯になって自分の人生を考えてみてください。他に人生の空しさや苦しさから救ってくれる道があるのでしょうか。
 本当に救われたことは感謝です。でも、私たちは恵みを忘れ易い者です。ですから、聖餐式のパンとブドウジュースを通して、イエス様の十字架による犠牲を覚えるために、聖餐式を繰り返し受けるのです。

V−聖餐の恵みである愛餐−27〜29,30〜34
 もし、主の晩餐を軽く考えて、備えることなしに受けるなら、価値がなくなってしまいます。27~29節。「主のからだと血に対して罪を犯すことになります」と言われています。キリストのからだである教会の一体性を損なうことになります。エペソ1:23。日本長老教会の大会会議の冒頭で礼拝とともに聖餐式が行なわれるのは、その一体性のためです。名ばかりの聖餐をしていたコリントの聖徒たちは、イエス様の犠牲に汚し、教会の一体性を破っていたのです。もし聖餐式にあずかりながら、聖徒たち同士ねたみ争うことがあれば、愛餐をしながら、悪口や噂話をすることがあれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
 どうしたら、罪を犯さないようにできるのでしょうか。すべてのことに準備や備えがあります。聖餐にも、「自分を吟味して」という準備が必要です。聖餐とは、自分は赦された罪人であり、病んだ心を癒された者であることを覚え続けるものです。Tペテロ2:24。イエス様の十字架をどれほど感謝しているでしょうか。自分が何をしているか、どんな心かを省みます。罪を知って、悔い改めます。赦された者として人を赦します。コロサイ3:13。そして、恵みを受けます。主の愛に気付くことは、互いの愛が欠けていたことに気付かせ、主にある交わりへと向かわせます。私たちは、聖餐を受ける度に、たった今救われたかのように感激して聖餐式に臨むなら、聖餐を受けるに「ふさわしい」となるでしょう。
 そして、このように聖餐の意味を覚え、自分を吟味して聖餐を受けた後に交わりをするなら、本当の愛餐となります。33〜34節。互いの違いを配慮し、主にある交わりとなります。私たちの交わりの元は、聖餐から来ています。イエス様のからだと血、すなわち主の尊い犠牲を覚えるなら、互いに赦し合い、互いに仕え合わざるをえません。肉の思いに引き回されず、恵まれた主にある交わりへと導かれます。愛餐はイエス様の愛を食べるのです。イエス様は共なる食事を喜び、大事にされました。黙示録3:20。
 この愛餐から生まれたキリスト教の伝統に、ポトラック(potluck)というものがあります。今日でも、ポトラックサパーとかポトラック・パーティーというものが行われています。ポトラックとは、有り合わせの食事という意味ですが、それぞれが持ち寄って、簡単に豊かな食事をして、交わりを持つことです。行事の時には、持ち寄って楽しい食事を共にしている私たちは、すでにポトラックをしています。教会だけでなく、家庭の食事や友人、学校職場の人々との食事が、主が伴う愛餐となりますように、私たちが主の十字架の死と復活を証しして行きます。26節。そのために、聖餐の恵みを覚えて、主にある交わりをして行きます。使徒2:46〜27。




Tコリント
11:17 ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。
11:18 まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。
11:19 というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。
11:20 しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。
11:21 食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。
11:22 飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
11:30 そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
11:31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
11:32 しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
11:33 ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。
11:34 空腹な人は家で食べなさい。それは、あなたがたが集まることによって、さばきを受けることにならないためです。その他のことについては、私が行ったときに決めましょう。




ヨハネ17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

ヨハネ6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

レビ17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

エペソ1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

コロサイ3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

Tペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

使徒2:46 そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。

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