2015年4月5日「遮られた目が開かれて」ルカ24:13〜32

序−昨年度、あきる台BCの歩みは、困難な歩みでした。兄弟姉妹やその家族が困難に出会ったり、病気になったり、苦しい一年でした。私たちは、人生において多くの問題に出会います。失望したり、落胆したりします。そんな私たちに、イースターのメッセージが与えられます。

T−目がさえぎられ、失望と落胆の中で−17〜24
 そのために、失意と落胆に陥っていた二人の弟子の姿を私たちに見せています。どんな姿ですか。13〜17節。「ちょうどこの日」とは、復活の日ということです。イエス様の復活のニュースがエルサレム中に飛び回っていた日です。原文では、この冒頭に「見よ」ということばがあります。復活の日、イエス様の復活を覚える日曜日に、失意と落胆のかたまりのようになっていた人たちを見よ、というのです。
 彼らの特徴は、エルサレムで起こった出来事を「話し合ったり、論じ合ったりして」いたということです。彼らは、悲観的に、否定的に論じ合い、ますます落ち込んでいたのです。彼らは非常に失望していました。彼らの表情はどうですか。「暗い顔つき」でした。ちょっと近づけない雰囲気ですが、イエス様は彼らに近付いて話しかけられました。でも、「目がさえぎられて」イエス様だとは気付きませんでした。これは、失意と落胆のために見えるべきものが見えていない、気付くべきことに気付けない、考えられることが考えられない、ということをあらわしています。
 なぜ、そのようになっていたのでしょうか。イエス様について「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていた」からです。21節。彼らなりの望みがあって、イエス様がそれを実現してくれると期待していたのです。それなのに、そのイエス様が十字架に付けられて、殺されてしまいました。自分の願い通りには事がならなかった、ということが強調されています。これが、私たちを失意と落胆に陥らせます。自分の計画、目的を握っているために、「心の鈍い人」になっています。25節。
 家庭や仕事のことで、こうなってほしいな、こうならなければ、という願いや考えを持っていたにもかかわらす、そうならない、かえって反することが起きるのです。それでは、意気消沈してしまいます。病気、事件、問題等、私たちが願わないことがしばしば起こります。こうなってほしいと思っても、願うようにならないと、すべて失敗だと思ってしまうのです。それが、私たちを落ち込ませます。
 何と、彼らは復活のニュースを聞いていました。空の墓を見て、御使いのことばを聞いた女たちの報告も聞きました。それなのに、信じていなかったのです。彼らに信仰はありました。でも、自分の思惑での中でだけです。救い主が十字架で死なれる、死から復活されるとは考えられなかったのです。Tコリント15:2。見えない殻に自分を入れていたのです。患難や問題に出会う時、私たちの信仰の殻が問われます。思い通りにならなかったという現実に幻滅し、望みをかけていたイエス様が十字架で殺されて意気消沈し、もはやエルサレムにはいたくなかったのです。失意と落胆に打ちひしがれて、エマオ村を目指していました。この気持ちよく分かります。
 彼らは、近付いて来たイエス様を認識できませんでした。なぜ、目がさえぎられていたのでしょうか。16節。自分の望みに固まっていたからです。自分なりの信仰、自分の考えの中でしかイエス様を見ようとしていなかったからです。この弟子たちの姿は、まるで失意と落胆に陥った時の私たちではありませんか。弟子たちの顔を覗いたら、自分の顔が見えるでしょう。彼らはどうしたら、失望と落胆から救い出されるのでしょうか。イエス様が来て、ともに歩んで、話してくださいます。

U−御言葉に立ち返る、御言葉に信頼する−25〜27
 彼らのところに来られたイエス様がまずされたことは、聖書から説明することでした。25~27節。彼らが「御言葉を信じない、心の鈍い人たち」だったからです。エルサレムで起こったことは、みな聖書に書かれていたことです。それで、旧約聖書から「主はそのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか」と説明されました。つまり、イエス様が人となって世に来られ、罪の赦しと天国への命を与えるために、私たちの身代わりに十字架かかり、よみがえるということです。ローマ4:25。私に罪の赦しと天国への命を与えるために、イエス様が十字架にかかられたという福音は、驚くべきニュースです。
 私たちが失意や落胆から立ち上がるには、御言葉に立ち返ることです。聖書は、創造から、家庭や社会での生活、天国のことまで教えていますが、中心は、救い主イエス様について教えています。イエス様を信じて、救われるためにです。自分の思惑通り進めば信じるというのは、自分教に過ぎません。イエス様を信じることは、聖書を神の御言葉だと信じることです。御言葉を信じれば、今どんなことが起こっていたとしても、「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるものだ」と受け止め、乗り越えることができます。エレミヤ29:11。「耐えられないほどの試練に会わせることはなされない、脱出の道も備えてくださる」と信じて、耐えることができます。Tコリント10:13。
 クリスチャンの悪い習慣は、御言葉通り信じないことです。聖書はそういうけれど、と言って退け、自分の考え通りになることを願うのです。そして、自分の願い通りならないと、失望落胆し、イエス様が見えなくなるのです。それでいて、御言葉通りことが起こった時、そんなことがあるのか、と驚きます。イエス様は、私たち「心の鈍い者たち」を御言葉の約束に引き戻させます。
 私たちは、聖書をなぜ読むのでしょうか。知識を増やすためですか。自分の思いに都合のよいところだけ読むためですか。御言葉は私たちに救いを与え、人生の患難の中を生きることができるように導いてくれるからです。信じて救われるために読むのです。失意や落胆の中にある私たちに、御言葉は語りかけてくれます。御言葉が私たちの人生に生きて働いてくれます。イエス様を信じて、御言葉に信頼して、より頼むことが大切です。
 
V−イエス様との交わり−28〜32
 そして、私たちを失意や落胆から立ち上がらせてくれるのは、イエス様との交わりです。落胆している彼らに寄り添ってくださいました。15節。これがイエス様です。御霊なる神となって、私たちの内に住んでおられます。ヨハネ14:16〜17。イエス様は、意気消沈していた彼らに質問をすることからはじめられました。17,19節。「話し合っているその話は、何のことですか」「どんな事ですか」と聞かれました。彼らは、期待通り行かなかった無念を吐露しています。これが大事です。主は、失意と落胆に陥っている私たちに寄り添ってくださり、「何を悩んでいるのですか」「あなたを苦しめていることはどんなことですか」と尋ねておられます。苦しい思いを祈って、失意の思いを聞いてもらいましょう。この弟子たちは、イエス様と道々話しながら、彼らの否定的な思い、信じない心が変えられて行きました。イエス様と話すとき、心励まされます。イエス様は最高の相談相手、私のカウンセラーです。詩篇119:24。
 イエス様と祈りの交わりを持つならば、心癒され、心が温かくなります。イエス様に信頼して御言葉を聞くならば、心が感動し、霊的に燃やされます。32節。自分の肉の思い中心で、御言葉を読み、聞くならば、心は動きません。御言葉の取り扱いを受けることもできません。苦しいからこそ、不安だからこそ、御言葉を握り、主に信頼するのです。御言葉が心に入って来ます。御言葉に信頼する私たちの心が熱くなります。
 こうして、心熱くなって来た彼らは、イエス様との交わりをもっと求めて、一緒に食事をしました。28〜29節。やはり、食事の交わりですね。イエス様は、食事をともにされ、人々を助け、励まされました。愛餐の時です。そして、そこで聖餐式が行なわれ、彼らはしっかり復活のイエス様と出会いました。31節。その象徴が、「彼らの目が開かれ」とということです。私たちも、患難の中で復活のイエス様と出会い、交わり、心の目が開かれたいのです。イエス様は今も、願う者と一緒に歩まれます。
 復活の主に出会い、交わりが与えられた彼らは、途中二人だけで話していた時は、失意と落胆に陥るばかりでしたが、イエス様が来てからは、すでに道中心が熱くなっていたことに気付きました。御言葉に信頼してからは、二人の分かち合いも、互いに恵まれ、励まされるものとなりました。32節。エルサレムに戻って、弟子たちと交わり、分かち合い、励まし合いました。33〜35節。私たちにも、苦難の中で自分を励まして、主に信頼させてくれる信仰の友の交わりが必要です。Tテサロニケ5:11, ヘブル3:13。
 エマオ村途上の弟子たちは、問題や患難で失意や落胆に陥る私たちの姿でした。望み通りならないために、否定的、悲観的なことばかり論じてしまう私たちの姿です。ですから、私たちは、御言葉に立ち返り、御言葉に信頼し、立ち上がりたいのです。イエス様と一緒に歩んで、交わり、癒しと励ましを受けたいのです。そして、イエス様の出会い、御言葉に養われた者として、互いに励まし、互いのために用いられたいのです。日曜日の礼拝は、このよみがえられたイエス様を感謝して、礼拝し、イエス様に出会い、心新たにされて、復活の命、新しい命に生きるようにされるためです。礼拝に出られる恵みを感謝します。



ルカ
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。



ローマ4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

エレミヤ29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

Tコリント10:13 あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

Tテサロニケ5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

ヘブル3:13 「きょう」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。

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