2015年 4月 12日「多様性と統一性」Tコリント12:1〜11

序−私たちは、人との比べては、妬んだり、うぬぼれたりする罪の性質があります。当時のコリント教会において、御霊の賜物において同じ問題が起きていました。神様が与えてくださった御霊の賜物は、教会を建て上げるため、人々に仕えるため大事なものです。賜物の問題は、様々な人々の中で働き、関係を持つ私たちにとって大切なことを教えています。
 
T−イエスを告白した者は賜物を受けている−1〜3
 彼らの時代に私たちの身を置いて考えてみましょう。当時のコリントの聖徒たちは、以前に偶像を拝んでいた人々であり、偶像を拝んでいる人々と親しくしていました。偶像の民は、シャーマンが恍惚状態で語る託宣のようなものを与えてもらっていました。それが、偶像礼拝へ繋ぎ止める方法でした。哲学を盛んに論じていた同じコリント人が、託宣のようなものに動かされていたのです。今日でも同じです。聖徒たちもその影響を受け、似たようなことをしたり、間違って賜物を用いたりしていたという問題がコリント教会で起こっていたのです。
 それで、使徒パウロはこう言っています。1〜3節。ものを言わない偶像というのは、偶像の託宣だと言うのは嘘であり、取り次ぐ者が言っているに過ぎないということを言っています。その影響を受けたコリントの聖徒たちの中には、恍惚状態で奇妙な言葉を吐き出すようなことをして、それを見た人々が好奇心を感じたり、特別な人に見えたりしたようです。そういうものが起きる時、それは神様から来るものではありません。そのような現象自体を否定することはできませんが、それが福音を含んでいないならば無意味です。恍惚状態で誰も分からないような言葉を発するのは、悪霊によってでもできるからです。
 そこで、使徒は、「聖霊によるのでなければ、イエス様を主だと告白できない」つまり、「イエス様を主と信仰告白すること自体、聖霊の導きによる」と言っています。教会では、様々な働きがあり、様々な賜物が用いられていましたが、そこには混乱がありました。御霊の賜物は、聖徒たちを励まし、教会を健全に建て上げるためのものです。イエス様を信じてクリスチャンとなった時から、御霊なる神が私たちの内に住んでくださり、イエス様とともに歩む人生がはじまりました。神様が私たちに私たちの人生を豊かにするために、それぞれに豊かな賜物を与えてくださいました。使徒2:38。人々に仕え、教会を建て上げるために与えられました。エペソ4:12。イエス様を自分の救い主だと告白して、新しい人と変えられたならば、聖霊の賜物を与えられているということです。何か特別なことをした特別な人だけに与えられるものでもありません。ただ御霊の賜物が与えられていることを知らないか、用いていないだけです。
 御霊の賜物が欲しくないですか、私が祈ってあげるともらえますよ、というのは聞き流してください。何か不思議な体験をしたとわざわざ言うのは、真に受けないでください。そういう人々がコリント教会を混乱させていたのです。Tヨハネ4:1。聖霊によるのでなければ、イエスは主であると言うことはできない、というのは、信仰生活の中心がイエス様だ、イエス様の絶対主権によるということです。「イエスは主である」という確信に立って、一生涯忠実にイエス様にしたがって生きていけるのです。
 信仰の中心は、イエス様の主権です。私たちの救いのために十字架にかかってくださったという主権です。イエスは主であるという信仰告白が重要です。ここに私たちの信仰があります。ローマ10:9〜10。何か不思議な体験があっても、何か神秘的な賜物をもっていても、イエス様中心の信仰がないなら何にもなりません。神様が私を愛してくださり、救いに選らんでくださり、信じることさえ神様の導きだと信じることが大切です。そして、主に用いられ、主の栄光をあらわして生きるようになります。
 
U−賜物の多様性と統一性−4〜7
 コリント教会の問題は、聖霊の賜物の誤用にありました。「妬みと争い」のコリント教会では、聖霊の賜物についても、妬みと争いが起こっていました。すなわち、自分の賜物を自慢したり、他の賜物を妬んだりすることでした。そこで、御霊の賜物がどういうものであるかを説明しています。
 まず、御霊の賜物と混同しやすいのは、人の才能です。おもにその用いられ方に違いがあります。才能は、一般的に自分の思いや満足のために用いられるのですが、御霊の賜物は、主の体を建て上げるために神によって与えられるものです。奉仕や人を助ける場合、御霊の賜物ならば、教会を整え、人を助けることが目的であるために、自分が知られなくてもいいし、期待通りならなくてもいいのです。しかし、人の才能でするならば、評価が気になり、不満や怒りを持つことになります。私たちは、何をするにも主の栄光をあらわすためという動機が大事です。Tコリント10:31。
 「賜物にはいろいろの種類があります」ということと「同じ御霊、同じ主、同じ神」ということが、強調されています。4〜6節。御霊の賜物には、三位一体の神が働いています。教会はキリストの一つ体と言われます。御霊の賜物には、御霊による統一性と賜物の多様性という主題がともにあります。「いろいろの種類」と訳されたディアイレシスは、「分離」を意味することばから来ています。御霊の賜物は、聖徒たちの間で分けられているということです。主のために奉仕したり、主の栄光のために働いたりする場合、そのするべき所、働きの種類が分け与えられており、それをするために賜物もそれぞれ違うものが付与されている、ということです。
 ですから、あっちの奉仕がかっこいい、あの人の賜物がいい、私の賜物はたいしたことない、私の仕事は詰まらないというのは、勘違いしていることになります。私たちが妬んだり、羨んだりするのは、神様を見ていない、イエス様の体で一つだということを忘れているのです。主にあって働き、主に用いられるのが、賜物です。「賜物」と訳されたカリスマトンいう言葉のカリスとは、「恵み」という意味です。この言葉は、神様がキリストの体を建て上げるために、聖徒たちの整えのために一人一人の聖徒に与えられた恵み、天から驚くべきプレゼントだということです。御霊の賜物は、私たちがすでに持っている才能の霊的な増大だということもできます。信仰的に働くことが、才能の増大と成長に繋がると言えます。
 多くのクリスチャンが、賜物を持っていることについて、肉的に自慢したり、不適切な態度で用いたりしています。賜物は、御霊の導きのもと活用されることが必要です。また、賜物のゴールが他の人のための奉仕や働きであるなら、世間では平凡だとか地味すぎだと見くびるべきではありません。コリント教会では、自分の賜物を自慢したり、人の働きを見くびったりする問題が起きていたのです。
 結論は、「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられている」ということです。7節。御霊の賜物が一人一人に与えられていますが、キリストの体である教会のメンバーとして一つは与えられており、全部を一人で受けている者もいません。これらの賜物の活用は、明らかに他の人のため、教会のため、主の栄光のためです。

V−恵みの賜物は用いられることが肝要−8〜11
 使徒パウロは、クリスチャンが信仰で生きて、互いに仕えて行くために与えられた、具体的な賜物をいくつか列挙しています。8〜10節。まず、「知恵のことば」は御言葉の真理を明らかにすることであり、「知識のことば」は御言葉の生活での実践的適用をすることです。ともに重要な働きです。ここでいう「信仰」とは、救いを受ける信仰ではなく、見えないことを見る力のことであり、状況を忍耐して、人を励まします。ヘブル11:1。
 「いやしの賜物」は、病気を癒す働きで、体のためであり、「予言」は、神様の御心を知らせる働きであり、心のためです。「奇蹟を行う力」とは、「力あるわざ」とも訳され、奇跡と思うばかりのわざを行う働きです。「霊を見分ける力」は真偽を判別する働きです。そして、コリントで行われていた「異言」は、恍惚状態で呻くようなもので、問題や混乱が生じていました。これらのいくつかは、その後行われなくなりました。大事なことは、秩序ある用いられ方が必要だということです。
 最後に御霊の賜物のことがまとめられています。11節。賜物はそれぞれ違うけれども、「同じ御霊による」ものであり、賜物は教会が一つとされるためであり、神様の御心によって分け与えられているものだということです。タラントの教えと共通しています。マタイ25章。その例話では、主人から違う額のタラントがしもべに与えられて、それぞれ用いる責任が強調されています。それぞれ受けたものを額にふさわしく用いたなら、額は違っても主人に喜ばれ、さらに多くのものが任されました。用いなかったしもべは、持っていたものまで取り上げられています。
 賜物を「神の恵み」であることを感謝して、責任を持って用いることが大事だということです。人を助け、神様の栄光をあらわすために用い、教会を一つにするために、様々な賜物が用いられます。私たちにあるすべてのことを、性格も能力も知識も技能も、みな神様から与えられたものと思って、神様からの恵みと感謝して、責任を持って用いるなら、それは豊かに用いられます。ますます豊かにされるでしょう。マタイ25:23。私たちは、御霊によって、賜物についてよく知り、自分の賜物を自覚し、互いの違いを認め、奉仕や働きにおいて、愛をもって賜物を活用すべしです。



Tコリント
12:1 さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。
12:2 ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。
12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
12:4 さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。



使徒2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

エペソ4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ

を建て上げるためであり

ローマ10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

Tヨハネ4:1 愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

ローマ12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

Tコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。

マタイ25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

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