2015年4月19日「すべての部分が互いに必要」Tコリント12:12〜31

序−世界を見ても、社会を見ても、家庭や職場、学校を見ても、人々の集まりには争いや不和があり、混乱と分裂があります。それは、人の罪のためです。当時のコリント教会でも、不和や争いが生じており、そのために書かれているのが、この書箇所です。すべての人の集まりにおいて有益な示唆と恵みを与えてくれます。
 
T−それぞれ違うだけれど主にあって一つ−12〜16
 当時のコリントは、急速に発展したローマ帝国の殖民都市でした。帝国中から様々な人々が集まって来ており、彼らは、実に様々な背景を持っていた人々でした。それぞれ違った土地で違った習慣で生きて来ており、違う価値観を持っていました。まったく違う様々な人々が救われて、コリント教会に集まっていたのです。そして、混乱と争いが起こっていました。
 そこで、人々が理解し易いように、コリント教会における働き、奉仕の違いについて、教会がキリストの一つからだであることを教えています。12〜13節。働きや奉仕についても、多様性の背後には、本質的な統一性があることを示しています。クリスチャンとして教会のメンバーになっていることは、「イエス様は主です」という信仰告白に基づいています。これを忘れてしまうと肉の思いに振り回され、罪に陥ってしまいます。
 イエス様が私の罪と滅びの身代わりとなって十字架にかかってくださったと信じて洗礼を受けたなら、私たちはイエス様によって一つとされています。ガラテヤ3:27。それまでどんな背景があろうと、どんな人であったにしろ、霊的には「キリストを着て」おり、罪赦された者として天国へ入る者とされたことにおいて、同じ存在なのです。イエス様を信じて洗礼を受けたということは、恵みを受ける存在となりました。イザヤ49:8。
 そして、教会生活において、それぞれ違った賜物をもって、違った働きや奉仕を担うことになります。ところが、違うことばかりが目に付いて、一つとされている基本を忘れてしまいやすいのです。あきる台BCが設立の時から、弟子訓練を通して「霊的造り変え」を行って来たのは、そのためです。ただの人の集まりとなれば、必ずそこに罪が入り込み、肉の思いが動くところとなるからです。イエス様の福音によって新しくされている、御霊の原理で考え、行動することがあってはじめて、私たちの集まりは、キリストのからだとして機能して行くことになります。
 人々の集まりを体に譬えているので、よく分かります。14〜17節。「からだが一つでも、それに多くの部分があるように」、教会も様々な人々の集まりでもキリストにあって一つだというのです。ここに、偉大な多様性と本質的な統一性が示されています。この数節を描いた絵を想像してみましょう。体に属さないという足や耳を消してしまい、目が大事だと体中が目だらけにしてしまいます。奇妙な絵になってしまします。「私は〜ではないから、からだに属さない」と言うのは、自分を卑下し、からだの他の器官を羨むことをあらわしているようです。そうなってしまうことに痛みを覚えます。私は何もできない、あの人のようにはできない、と人はしばしば言います。そうして「私はいなくてもいい」とするならば、その集まりは、一部の欠けた体となるでしょう。
あるアメリカの牧師がしばらく来ていないメンバーを訪問した時の話です。なぜ、来ないのですかと聞くと、その人は、家で聖書も読み、祈りもしている、なぜ勉強するために会堂に行って、神を賛美しなければならないのかと答えました。その時、暖炉で燃えていた薪の一本が横に転がり、またたく間に冷えて白くなってしまいました。その人は、トングでその薪を火の中に戻すと、再び赤々と燃え出した様子をじっと見ていました。その後、その人は最も活動的なメンバーに変わったそうです。
 
U−相互に必要としている−17〜26
 なぜ、違う器官が一つのからだの中にあるのでしょうか。17〜20節。それは、一緒に働くためです。体が体として機能するためには、多くの違った器官を必要とします。目だけだったら、どこで臭いを嗅ぎ、どこで触り、どこで聞くのでしょうか。見る以外は、何もできません。会社でみんなが管理職だったら、だれが実務を担当するのでしょうか。学校でみな先生ばかりだったら、誰が授業を受けるのでしょうか。会社でも、学校でも、家庭でも、人の集まりには、違う働きがあり、違う賜物を用いられこそ、集まりとして機能して、働きが進んで行きます。体の器官は、違う目的のために違う機能を持っているのです。それと同じように、集まりの中の人々も、違う働きのために、違う賜物を与えられているのです。神はみこころに従って、備えてくださったのです。18節。神様の偉大なプランに従って、キリストのからだを立て上げるために、一人一人が教会に加えられているということを忘れてなりません。
 妬みと高慢は隣り合わせです。「私はあなたを必要としない」と言うのは、高慢、自惚れの姿をあらわしています。21節。どんなに目立つ器官だとしても、その器官だけで体は機能しません。しばしば世の人の集まりの中で、これと同じような言葉を聞く時があります。それは、とんでもない傲慢であり、悲しい姿です。私たちは、自分の体の一部が怪我をしたり、具合が悪ければ、しばし痛みを覚えながら過ごすことになります。人の集まりも同じです。
 「それどころか」自己卑下も高慢も、思い違いです。22~24節。「比較的に弱いと見られる器官」や「比較的に尊くないとみなす器官」が、かえってなくてはならないものであり、尊ばれるものだと言っています。実際、体の中で目立たない、必要とも思われない器官が、非常に大切な器官だったりします。体の機能を調和させています。ですから、人が尊くないとみなすだけであり、救われた者は主にあって尊い存在であるということです。弱くても尊い存在であり、豊かに用いられるのです。
 つまり、目立たない人でも、評価されなくても、大切な必要な存在だということです。神様の前にはイエス様の犠牲で救われた同じ尊い存在であり、それぞれの集まりの中で、必要な存在であり、働きを担っているのです。私たちは、自分自身をそう思うべきですし、人のこともそう考えることが大事です。互いが、互いにとって必要な存在です。互いの足りない所を補い合います。互いの失敗や弱さをカバーし、互いに拠り頼む存在なのです。「互いに必要だ」ということが強調されています。
 それぞれの存在が大切であり、それぞれの働きが必要です。自分は役に立たないと思って引っ込んだり、人に迷惑になるからと人の助けを拒んだりするのも、どうでしょうか。役に立たないと思っても何かできます。体が他の器官によって機能しているように、私たちも互いに助けられて存在しています。素直に助けてもらうことも大切な役割です。
 職場、学校、家庭でも、互いが互いを必要としていることを覚えましょう。それそれ持分を担い、責任を果たすことで全体が調和して、機能して行きます。一人一人の信仰による奉仕や働きがあって、キリストのからだである教会が機能して行きます。

V−一人のことは、全体に影響するから−25〜31
 賜物からはじめて、最後に職務について扱っています。27〜30節。今日の教会にも、色々な職務があり、働きがあります。奉仕や働きは、賜物の学びの実践ということで大切です。コリント教会では、職務の違いについて、高慢になったり、妬んだり、文句を言っていたからです。あの職務の方がいいとか、この奉仕では不満だとか言い、自分の職務や奉仕を自慢したりして、妬みや争いが起こっていたからです。25節。
 職務も奉仕も教会と人に仕えるために主から与えられたもの、と受け止めることでまったく違って来ます。Uテモテ2:15。文句や不満は消え、感謝や恵みを覚えるようになります。キリストのからだである一つの大事な器官と分かれば、職務の違い、賜物の違いも気にせず、自分の働きを忠実に果たそうとします。人との考え方や感じ方の違いも受け止め、仕え合うようになります。それまでは、なぜ違うのか、おかしいではないか、自分の感じ方や考え方でしか捉えられません。文句や不満も出て来るのです。
 私たちは、からだの譬えで教えられているこの聖書の原理を教会で実践するだけでなく、職場や学校、家庭や地域で実践して行くことができます。どんなにか、主の恵みが広がることでしょうか。私たちが豊かに用いられ、主の栄光をあらわすことになり、福音が広がって行きます。それは、私たちがどんな願いをもってそこで働き、責任を担うかにかかっています。
 私たち一人一人の存在が大切です。人をどう見るかが重要です。25〜27節。兄弟姉妹が、この聖書の教えのように互いに仕え合い、互いに労わり合うのを見るのは、喜びであり、慰めを与えられます。一人に起きていることは、みんなに感じられるようになり、全体に影響します。ここに教会の偉大な本質があります。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」のです。私たちは、自分や家族が人生の危機に出会ったら、兄弟姉妹に祈ってもらい、励ましを受けています。私たちは、ますますそうして行きたいのです。私たちは、教会において互いの喜びと悲しみを分かち合って行きたいのです。私たちは、一つのキリストのからだとされているのですから。そうして、教会が建てられて行きます。エペソ4:16。



Tコリント
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。
12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行う者でしょうか。
12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。
12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。



ガラテヤ3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

イザヤ49:8 主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。

Tペテロ4:10 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。

Uテモテ2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

エペソ4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

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