2015年 4月26 日「主の愛がなければ」Tコリント13:1〜13

序−「愛」というと、人々は情緒的なロマンチックな感情を思い、バレンタインデーやキューピッドの矢を連想し、ユートピアのようなものをイメージするようです。しかし、悲しいことに、現実の社会や人間関係は、正反対に混乱と争いの中にあります。愛が分かりません。愛とは何でしょう。
 
T−〜しても、愛がないなら−1〜3
 聖書を記しているギリシャ語には、愛について違った言葉がいくつかあります。それが、loveと一つに言われています。まず「エロス」という愛は、利己的な感情であり、激しい肉的な願いです。歌や詩によく使われます。他の愛と区別するなら、「奪う愛」と言った方がよいでしょう。次に、「相互的な愛」として聖書にも登場しているのが「フィロス」です。親子や兄弟、友人の親愛に用いられています。マタイ10:37。兄弟愛と言うことばもあります。ヘブル13:1。そして、きょうの箇所で用いられているのが、「アガペー」です。聖書には多く使われています。新約聖書では116回も使われています。イエス様の救いに関することを経験した弟子たちが、世間とは違った愛としてアガペーを使うようになったのでしょう。
 イエス・キリストを送ってくださった神様の御業の現われを愛としたのです。ヨハネ3:16。それを受けるに値しない者に届いたものを愛と受けました。ローマ5:8〜9。人のために主が犠牲になられたことを愛としました。Tヨハネ4:10。主の贖いの御業を愛としました。ですから、人の益のためにすることが愛と言い、人のことを顧みて、犠牲になることを愛としました。
 愛は、すべての恵みの賜物の基礎です。すべての賜物に優るものが愛だと言っています。12:31。愛は、教会で最も重要なものです。もし愛がなければ、教会はどのようになるでしょう。1〜3節。愛が徹底的に必要だということです。人が論争するといちばん早く消えるのが愛です。コリント教会では、賜物をもって競い、争っていました。偶像の宮では、偶像の神々を目覚めさせるために大きな音を立てていたそうです。大きな声をあげていた異言もそれと同じになりました。たとえ雄弁をふるっても、愛がなければ、騒音を出しているにすぎませんでした。
 たとえ私たちが、聖書の知識を語っていたとしても、熱心だという信仰を持っていたとしても、愛がなかったら値打ちがない、無に等しいと言われてしまうのです。極端な慈善をしても、立派な行為をしたとしても、そこに愛がなければ、いっさいは無益だというのです。目に立派に見えるもの、人にすごいと思わせる活動、信念でも、それだけでは価値がない、役に立たないというのです。愛がないなら、愛がなければ、そうなのです。
 これは、どういうことなのでしょう。愛という動機があるならば、どんなことでも、力となり、価値あるものとなるということです。愛が御言葉を伝える動機であるならば、愛が信仰を動かしている力であるのなら、愛がその業を行わせているのなら、それらはみな最高に価値あるものになるのです。しかし、もし愛の動機がなければ、それらは騒音でしかないし、自己満足の興奮でしかないし、何の価値もないのです。自分を誇るため、自分を見せるためにも、すごい業はできるのです。結局、コリント教会では、一部の人々が互いに争って、見せるために懸命だったのです。

U−愛は〜です。〜しません。−4〜7
 御霊の賜物が与えられている目的は、キリストの体なる教会を建てあげるためと言われていましたが、そのためには、互いに仕え合い、互いに愛し合うことが必要です。では、その愛の性質はどんなものですか、と質問したくなります。そこで、次に愛の性格が列挙されています。4〜7節。「寛容」というのは、短気でないということです。人に対してということです。愛に支配されている人は、他の人々に心が向いて働きます。「親切」は、御霊の働きが互いに仕えるために与えられていることを裏付けていると言えます。賜物をもって仕える姿が親切です。
 私たちは、「私はからだに属さない」と言った足や耳の気持ちを学びました。ですから、愛は「人をねたみません」。耳は目ではないからと言うように、自分を卑下し、自分の価値をさげてはならないのです。他の人の幸いや成功を見て不愉快になるのは妬みであり、自分の価値を低めていることになります。人をねたまないということは、自分を「自慢せず、高慢になりません」。肉の思いに囚われると、妬みと高慢を行き来することになります。とっても、空しい、悲しい姿です。人の幸いが喜べない、自分を誇らないと満足しない、という姿は、主の愛が失われているためです。イエス様を十字架に渡されるほど、私は神様から愛されているということが分かれば、涙を流して感謝し、満足します。
「礼儀に反することをせず」というのですが、愛は、無作法をしないということです。愛は丁寧であり、荒々しくしない、聞き苦しいことなど言わないのです。「自分の利益を求めず」というのは、自分をむなしくし、卑しくすることばです。十字架にかかられたイエス様の姿が、まさしくそれです。ピリピ2:6〜8。「怒らず」ということばに注意しましょう。昔の訳では「たやすくいらだたない」となっていましたが、機嫌が悪くなりやすい人々の弁解のために、原文にはない「たやすく」を入れたそうです。簡単でなくても、「愛はいらだたない」のです。自分の利益を求めるのも苛立つのも、独善的であり、隣人に対する罪の応答です。怒りそのものは、罪ではありませんが、罪を生じさせます。エペソ4:26。
愛は人に対することで力をあらわします。「人のした悪を思わず」ということに顕著です。人にされた悪を記録しないのです。心に記録すれば、後で必ず問題にします。愛は、された悪を記録しない、恨みを抱かないのです。どんなに、私たちの心を健康にすることでしょうか。罪に向かおうとする私たちの性向は、ほとんど必然的にここにひっかかり、いつまでも忘れず、自分の心を歪め続けます。ですから、人の悪や悪を記録しないのです。悪を記録しないなら、「不正を喜ばずに真理を喜びます」。愛は、真実を喜ぶので、人の罪や悪を喜ぶことはできないのです。
愛の驚嘆すべき肯定的な面です。「がまんする」というのは、人を守って覆ってあげることです。「信じる」というのも、軽信ではありません。人はいつでも疑い深いものですが、愛に支配される人は、疑い深くないのです。信頼して人の失敗や足りなさを受け止めるので、騙されるのではありません。主の愛のゆえに「期待する」ので、今の環境に左右されず、外観がどうであろうと望みを失いません。ですから、どんな目にあっても「すべてに耐え忍びます」。主の愛によって生きることは、何と素晴らしいことでしょうか。

V−愛は決して絶えることがありません−8〜13
 最後の部分は、愛の不変の勝利について記しています。「愛は決して絶えることがない」ということです。8節。優れた御霊の賜物でも、いつかはすたれ、過ぎ去るものですが、愛は決してしおれない、新鮮です。神様の私たちに対する愛は、決して終わりません。一度救ってくださったのなら、私たちがどんなになろうとも見捨てられません。Uコリント4:8〜9。天国に至るまで、私たちを守り、導いてくださいます。
 今分からないことでも、いつか明らかにされます。いつか完全にされ、完成されます。10節。クリスチャンは、成長するものです。11〜12節。クリスチャンが主の愛に生きて行くなら、愛を経験し、愛を実践して行くなら、霊的に成熟して行きます。今見えない、分からないことでも、再び主が来られて、お会いする栄光の反映と見ることができます。
 イエス様の救いにあずかり、神様の愛を受けたということは、そういう愛に生きることです。人の立派さや人の知恵や人の力は、いつかは当てにならなくなり、みすぼらしくなり、偽りだったりします。しかし、神の愛は変わりません。ローマ11:29。
 愛は、ぼんやりしたフィーリングではありません。アガペーの愛をエロスやフィリアと混同してはなりません。キューピットの矢やバレンタインデーと結び付けてもいけません。愛アガペーは、他の人を、自分と同じだけれども、イエス様の血によって贖われた人として見るのです。アガペーの愛は、私たちが信仰の友を持つ時に必要です。愛は、悲しみ、嘆き、苦しむ人と共感できます。愛は、食事を料理し、食べ物を与え、家を掃除し、病気の者を見舞い、電話をかけ、励ましの便りを送ります。
 愛は、必要とする人のために祈り、苦境にある人を助け、人の利益を図ります。愛は御霊の実であり、与えられた御霊の賜物の結果となるものです。賜物は、私たちが互いに愛することができるために与えられたプレゼントです。Tヨハネ4:7〜8。
 どうしたら、そのような愛を実践できるのでしょうか。兄弟姉妹を愛する最もよい方法は、私の罪のために死なれたイエス様の十字架を見ることです。ローマ5:8〜9。主にあって兄弟姉妹を愛することに失敗すること、それさえも、そこに含まれています。愛することに失敗している私たちのためにも、主は十字架で苦しまれたのです。私たちの隣人への愛は、イエス様の十字架を見る時、自分の罪のためにイエス様が死なれたことを理解する時のみ、生じて来ます。13節。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。イエス様の十字架の犠牲という愛を受けた私たちは、互いに愛し合うのです。Tヨハネ4:7〜8。



Tコリント
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
13:9 というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。
13:10 完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。



ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

エペソ4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

Uコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

ローマ5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

Tヨハネ4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

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