2015年 5月 3日「徳を高めるために」Tコリント14:1〜40

序−始まったばかりのコリント教会では、交わりにおいての混乱し、賜物の用いられ方に問題がありました。この箇所を通して、その混乱の原因が分かりますし、どう整えられるかも教えられています。様々な人々の中で生きる私たちに、信仰者として交わる大切さも知ることができます。

T−愛を求めなさい−1〜11
 まず、「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」と勧めています。1節。預言は、御言葉の証し、御言葉の分かち合いと言ってもよいでしょう。しかし、勧められている預言の賜物ではなくて、当時のコリントにおいては、異言が流行っていました。異言は、恍惚状態で訳の分からない声を発するものなのですが、それを優れた特別な霊的なものであると言い、高慢になって競っていました。そのために、聖徒たちの交わりは混乱していたのです。使徒は、これを特別なものとも、神聖ななものとも、見ていません。行っていた人々を配慮した表現で異言を批判し、それと比較して予言を評価しています。
 それを見ることで、預言の賜物、つまり、御言葉の証し、御言葉の分かち合いとそうでないものが、どう違うのかよく知ることができます。まず2~3節。異言が人の分からないことを言うのは、神と話しているというより、人に見られるためにそういていたようです。2~3節。だれも聞いていない、分からないというのは、ひとりよがりだということです。信仰と言いながら、ひとりよがり、独善的になってしまうのは、避けなければなりません。そこに愛がないと、ひとりよがりになりやすいのです。
 私たちは、教会であれ、家庭や職場や学校であれ、人々とどのような交わり、話しをしているでしょうか。もし、相手が理解できないようなおしゃべりをするならば、外国語と変わりないでしょう。11節。美しいメロディーを奏でる楽器でも、何をひいているか分からないならば、騒音にしか聞こえません。7~8節,13:1。相手の心も忖度することなく、高慢に話すなら、どうでしょう。その人の心に届くでしょうか。その心に傷を残さないでしょうか。意図していなくても、結果的にそう受け取られてしまうこともあるでしょう。私たちが、人と話すとき、そこに愛があるでしょうか。
 もし私たちに人にはないもの、目立つものがあるならば、この異言のように高慢への誘惑を受けるでしょう。優れているものを持っていると思うならば、かえって謙遜にならなければなりません。賜物というのはそういうものです。人と比べる時、妬みを覚える時も高慢になり易いものです。異言のことで、コリントの聖徒たちは、うぬぼれて、競っていました。優れた特別な賜物だとひとりよがりになっていました。しかし、兄弟姉妹には躓きを与え、世の人には証しとなりませんでした。
 高慢になって、自分の言いたいことを言って、自分だけは、気持ちよくなっても、他の人の気持ちを考えない、それは、ひとりよがりです。愛のない姿です。そのような高慢なひとりよがりの言葉は、異言のようなものではないでしょうか。私たちにとって、異言的なものは何でしょう。
 私たちは、イエス様の十字架の犠牲を持って救われました。そこに神の愛を知り、主の愛を受けて新しい命に生きている者です。Tヨハネ4:10,ローマ5:8。この愛をもっと体験し、味わい、互いに愛する者となることが主の私たちに対する願いです。ヨハネ13:34,Tヨハネ4:11。

U−教会の徳を高めるために−12〜26
 異言と比較して、預言の賜物を熱心に求めるように勧められています。1節。ここでいう預言とは、先のことを言う予言ではありません。旧約の預言者のようでもありません。御言葉の分かち合い、御言葉の証しと言ってよいでしょう。愛をもって御言葉の分かち合い、御言葉の証しを熱心にするとき、主が働いてくださり、御霊の賜物となります。
 異言が訳の分からないことを言い、ひとりよがりだったのと比べると、預言の賜物は、「人の徳を高め、勧めをし、慰めを与える」ものです。3節。どんなに必要かつ欠くべからざるものだということが分かります。御言葉の分かち合いは、兄弟姉妹の信仰を成長させ、痛み苦しんでいる者を癒し、重荷を負う者を慰め、不安や恐れを持つ者を励まし、強めます。Uコリント1:4〜5, Tテサロニケ5:11。
 異言をしている様子は、初心の者とか信者でない者には、おかしい人たちと思われました。それと比べると、クリスチャンの真実な御言葉の証しや御言葉の分かち合いによって、初心の者とか信者でない者が、罪を悟り、心にある重荷や苦しみを話すようになり、祈ってもらうようになります。確かに、このような人たちの中に神様はいらっしゃると思い、救いを求めるようになります。24〜25節。唐突に、何の関係作りの備えもなしに、証しするなら、おかしい人と思われたり、心ふさがれてしまうかもしれません。しかし、相手のたましいのニーズを知り、信実な交わりがあるのなら、御言葉の証しは伝わり、福音が心に届き、御霊が働きます。
 異言と比べて決定的に違うのは、預言の賜物の「人の徳を高める、教会の徳を高める」という素晴らしい働きにあります。御言葉の証し、御言葉の分かち合いは、信仰を成長させ、成熟させ、徳を高めます。何度も繰り返し「徳を高める」ということが強調されています。3,4,5,12,17,26節。「徳を高める」と訳されたオイコドメーという言葉は、教会形成や交わり、信仰の成長のために、鍵となる概念です。Tペテロ2:5,ローマ15:2。私たちの教会設立の御言葉にも、「愛のうちに建てられる」と入っています。エペソ4:16。
 預言の賜物に限らず、すべてのことを、徳を高めるためにしているでしょうか。Tコリント10:23。賜物とは、徳を高めるためのものです。教会を建て上げ、互いの霊的成長に役立つために与えられるものです。ローマ14:19。職場や学校、家庭でも、すべてのことについて、その所の徳を高めるため、人の徳を高めるために愛をもってして行くことが、大事です。人の関係において、悪い言葉を発しないようにするだけでなく、人の徳を養うのに役立つことばを話すことが必要です。エペソ4:29。「霊的成長に役立つことを求める」も、「人の徳を養うのに役立つことばを話す」も、同じオイコドメオーです。私たちは、人の徳を養うのに役立つことばを話しているでしょうか。意識したいものです。
 「異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、五つのことばを話したい」(19節)と言っていますが、何でしょう。ある本には、「Christ died for our sins」と載っていました。Tコリント15:3の「キリストは、…私たちの 罪の ために 死なれた」になるでしょうか。確かに、これが福音の中心です。信仰を確信させてくれます。私たちは、互いに福音を確認し合うことが霊的成長に役立つということです。
 また、「悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」と勧めています。20節。幼子であれとは、悪事については何も知らず、策略を立てられず、無邪気でお人好しでいいということです。大人ならば、悪知恵を働かせ、人の悪事をいつまでも忘れないということになりやすいでしょう。高慢と妬みが生じて来ます。けれども、大人ならば、判断力があり、配慮できるから、人の徳を養うのに役立つこと
を言い、霊的成長に役立つことをしなさいということです。

V−秩序をもって行いなさい−27〜40
 三つ目の勧めは、「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」ということです。40節。コリント教会の集まりには、混乱がありました。好き勝手なことをし、好き勝手なことを言っていたのです。その中心が異言でした。集まりのことを考えず、人への配慮もなしにしゃべるならば、異言のようだということです。セルでの分かち合いも、皆の益となるように、ちゃんと理解してもらえるように適切に、秩序をもって話すならば、御言葉と力と御霊の導きのある、恵まれた分かち合いとなるでしょう。
 異言で祈っても何も分からないとありますが、私たちが一緒に祈るときは、その課題に合わせて祈り、献金感謝の祈りは、御言葉と献げることの感謝を祈り、報告や証しは報告時間や交わりの時にします。そういう意味での「適切、秩序」ということです。これらのことも教会の徳を高めるためであり、人の益となるためです。
 この流れで34〜35節を読めば、誤解することはありません。女性を蔑視しているのではありません。語ると訳されたラレオーは、「ペチャクチャしゃべる」という意味もあります。礼拝や集まりの秩序を無視しておしゃべりをしたり、不適切なことをついついしゃべったりする婦人がいたようです。よほど目に余ることがあって、「妻たちは黙っていなさい」ということになったようです。「家で自分の夫に尋ねなさい」というのを見ると、夫もうかうかしてはいられません。しっかり理解し、信仰的に教えなければならないからです。婦人たちは、話しが好きですし、話が必要です。でも、不適切なことを勝手気ままに話すなら、混乱し、人の心を傷つけてしまいます。ですから、「適切に、秩序をもって」話し、交わることが必要です。
 教会の統一性と多様性で学んだように、様々な人が集まる教会は、主を信じて、褒め称える、愛を求めて、徳を高めることによって、一つなって行くものです。御言葉が分かち合われ、主がほめたたえられ、神様が礼拝されるところが教会であり、聖徒たちの集まりです。ローマ14:19。



Tコリント
14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。
14:2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。
14:3 ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。
14:4 異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。
14:5 私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。
14:6 ですから、兄弟たち。私があなたがたのところへ行って異言を話すとしても、黙示や知識や預言や教えなどによって話さないなら、あなたがたに何の益となるでしょう。
14:7 笛や琴などいのちのない楽器でも、はっきりした音を出さなければ、何を吹いているのか、何をひいているのか、どうしてわかりましょう。
14:8 また、ラッパがもし、はっきりしない音を出したら、だれが戦闘の準備をするでしょう。
14:9 それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているのです。
14:10 世界にはおそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばなど一つもありません。
14:11 それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。
14:12 あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。
14:13 こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

14:14 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。
14:15 ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。
14:16 そうでないと、あなたが霊において祝福しても、異言を知らない人々の座席に着いている人は、あなたの言っていることがわからないのですから、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。
14:17 あなたの感謝は結構ですが、他の人の徳を高めることはできません。
14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、
14:19 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。
14:20 兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。
14:21 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」
14:22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
14:23 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。
14:24 しかし、もしみなが預言をするなら、信者でない者や初心の者が入って来たとき、その人はみなの者によって罪を示されます。みなにさばかれ、
14:25 心の秘密があらわにされます。そうして、神が確かにあなたがたの中におられると言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
14:26 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。
14:27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。
14:28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。
14:29 預言する者も、ふたりか三人が話し、ほかの者はそれを吟味しなさい。
14:30 もしも座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、先の人は黙りなさい。
14:31 あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。
14:32 預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。
14:33 それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。聖徒たちのすべての教会で行われているように、
14:34 教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法も言うように、服従しなさい。
14:35 もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。
14:36 神のことばは、あなたがたのところから出たのでしょうか。あるいはまた、あなたがたにだけ伝わったのでしょうか。
14:37 自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。
14:38 もしそれを認めないなら、その人は認められません。
14:39 それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。



Tヨハネ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

Tテサロニケ5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

Tペテロ2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

ローマ15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

エペソ4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

Tコリント10:23 すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

エペソ4:29 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

ローマ14:19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。

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