2015年 5月 10日「神の恵みによって今の私に」Tコリント15:1-11

序−福音?それはイエス様のことを知らない人に知らせるもの。私は、もうすでに信じているので、聞く必要がないと思っていないでしょうか。ギリシャ哲学の強い影響下にあったコリント教会では、知的だと自認する人たちの中で、福音が希薄になっていました。これが問題の原因でした。
 
T−聖徒たちの知性化による福音の希薄化−1〜2
 コリント教会を霊的に枯れさせている問題は、彼らの福音についての考えに問題がありました。1〜2節。「あなたがたは、すでに福音を聞いて受け入れており、その福音をしっかり握っているなら、救われているのですよ」というのです。いまさらどうしてこんなことを言っているのでしょうか。もし、他によく見えるものがあって、福音の代わりにそれをつかもうとするなら、救いはどうなりますか、と警告しているようです。彼らにとて、福音を見失ってしまうようなものって何でしょうか。
 コリントの聖徒たちにとって、今まで慣れ親しんで来たギリシャ哲学の影響は強く、肉の思いに立てば、なおさらでした。信仰を自分の知恵だけで考えるということは、神様を自分の頭の中に押し込めようとすることです。世界を造り、私たちを救ってくださった神様が、自分のちっぽけな頭に入るのでしょうか。それは、人が作った偶像神に過ぎません。哲学的論理によって、キリストの復活は本当の復活ではなくて、彼の精神が我々の中に継承されたなどというように解釈されたのです。現代も、人の知恵、知性が偶像視されると、復活の信仰は怪しくなります。
そして、とりわけ肉の知性で福音を見ると、分からなくなるのが、罪のことです。罪の説教を嫌うようになります。すべての人が罪人であって、イエス・キリストの血による贖い、つまりイエス様の身代わりの死がなければ、救わないということが、耳に入りにくくなります。知性に自信のある人々は、罪人だと言われるのを快しとしないからです。自分の精神論で救われる、肉の努力で天国へ行けると考えたくなって行くのです。現代のクリスチャンも、同じようになる危険がないでしょうか。
 こうして、信仰は力もなくなり、恵みを覚えることもなくなってしまいます。賜物のことで妬み、争うようになったのも、聖徒たちの信仰の命が失われて来たことが理由のようです。イエス様に救われた、神様に愛されているという霊的自信ではなくて、自分はこれだけ奉仕ができる、私にはこれがあるという賜物の自慢に寄って立ち、妬みや争いが生じて行ったのです。救われている確信も薄れて行ったのです。「イエス・キリストが、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか」というのが使徒の思いです。ガラテヤ3:1〜2。
 すでに信じて救われたはずなのに、「この福音によって救われる」と言っているのは、そのためです。コリントの聖徒たちは、福音に立ち返る必要がありました。ということは、私たちも繰り返し福音を聞かなければならないということです。私たちにも、自分の知恵や力が自分の偶像になって、福音の命が失われる危険があります。すでに救われている私たちも、福音のメッセージを礼拝の中で聖徒たちとともに聞き、救われていることの恵みを新にする必要があります。実際の生活において、福音に生かされていること、福音が新鮮に働いてくれていること、福音が人を変えることを分かち合うことが、私たちには必要です。
 
U−福音、イエス様の復活の証拠−3〜8
 では、その福音とは何か、と改めて知りたいと思います。使徒パウロも、改めてコリントの聖徒たちに説明しています。3〜5節。最も大切なこととして聞いた福音ですが、繰り返し聞かなければなりません。「キリストは、私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと」これが、福音です。これ以外はみな、注釈、説明に過ぎません。
 神の御子イエス様が私たちの罪のために死なれたのです。イエス様は私たちを救うために、私たちの罪とその結果である滅びの身代わりとして十字架にかかってくださいました。これが、福音そのものです。墓に葬られたというのは、十字架に死なれたことは事実であることを明らかにしています。そして、イエス様は死人の中からよみがえられました。死で終わりでなく、よみがえらたことによって、私たちの罪の赦しと天国への命が確かにされるからです。これが、福音です。簡潔、純粋です。
 使徒パウロは、繰り返し強調しています。「聖書の示すとおりに」と。3,4節。福音は、彼の作ったものではなく、彼が潤色したものもなく、自分はそれを受けた者、伝えた者に過ぎないと言っています。この「聖書」とは、旧約聖書のことですが、聖書で言っていたとおりに救い主は、来られ、身代わりに死なれ、葬られて、よみがえられたのです。イザヤ53:5〜12,詩篇16:8〜11。旧約聖書全体が、救いのことを示しています。エバを罪に誘惑した悪しき者に対して、「女の子孫は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」と詩的に記されています。創世記3:15。これも、イエス様の十字架の死と復活による罪と滅びに対する勝利の預言です。
 この福音の確かさは、聖書の示すとおりに起こっただけではありません。何よりも、この福音を聞き、イエス様を救い主として受け入れ、信仰によって生きた人々の姿の中に福音の確かさの証明があります。コリント教会の人々も、パウロの伝える福音を聞いて「受け入れ」、それを「信じて、救われ」、その信仰に「立って」いました。
 そして、イエス様が死んで、よみがえられた証明として、復活の証人をあげています。5〜7節。ケパとは、ペテロのことです。ペテロが、復活のことを婦人たちから聞いて、見に行って、復活の主を見ました。マルコ16:7。二人の弟子がエマオ村から帰って来たとき、弟子たちは、イエス様がよみがえられた、と言っていました。ルカ24:34。そうして続々と復活の主のもとに弟子たちが集まり、復活のイエス様を見ました。疑い深いヤコブにも現れました。ヨハネ20:24〜29。これを記している時点で、「その中の大多数の者は今なお生き残っています」ということは、嘘偽りを書いていないということです。イエス様の十字架の死とよみがえりの証明です。
 
V−最高の証明、私たちの人生への影響−9〜11
 復活の証人として、パウロ自身をあげています。8〜9節。これは、パウロ個人の証言です。かつては「使徒と呼ばれる価値のない者」というように、「神の教会を迫害した」いた者です。クリスチャンを捕縛するためにダマスコまで行く途中、復活のイエス様に会いました。使徒9:1〜20。「現れてくださいました」と言っても、まばゆい光の中で声を聞いただけですが、このイエス様との出会いが、この彼の人生を一変させました。
 イエス様を救い主と信じたことを「イエス様と出会った」とよく言われます。復活のイエス様との出会いは、人を変えずにはおきません。美しい変化です。8~9節は、彼の罪の告白、悔い改めです。彼の心の中にあった過去の失敗と罪に対する嫌悪感を生じさせている表現です。罪の告白があるということは、イエス様を信じた時、パウロは罪の赦しを体験しているということです。罪の赦し、罪からの解放の確信がなければ、その後の彼の変化はないでしょう。イエス様の十字架とともに、古い迫害者サウロは死んで、新しいクリスチャン・パウロに生まれ変わったのです。ローマ6:6, Uコリント5:17。私たちは、人よりいい人間だったなどと思って、罪の意識が希薄であれば、それだけ罪の赦しも希薄になるでしょう。
 私たちは、イエス様に出会って、信じて救われたならば、罪赦されています。もう自分に罪の重荷を運ばせてはなりません。その代わり、イエス様の十字架のゆえに罪を赦してくださった神をほめたたえましょう。そして、私たちが赦されたということは、私たちもまた赦さなければならないということになります。マタイ18:33。確かに、受けた心の痛みや傷を思えば、赦すことは難しいでしょう。すべての人々との関係において、私は罪人であったということを思い出しましょう。イエス様の犠牲は、私たちが他の人を赦すことを可能とします。それでも、他の人を赦すことで失敗したことで、その福音の力を否定するのでしょうか。
 迫害者であったパウロ、罪人かしらであったパウロであっても、イエス様から、「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」と命じられました。主の召しを受けました。使徒9:15。世的な価値観からすれば、あんな人生を歩んでしまった自分が、この後どんな人生を歩めようか、と考えて空しく過ごしてしまうでしょう。しかし、パウロは、この救いの恵みを彼は無駄にしませんでした。10節。主の召しに応えて、新しい信仰の生涯を歩みました。彼の人生こそ、イエス様の復活を最高に証明していると言えるでしょう。
 「神の恵みによって、私は今の私になりました」とは、福音を聞いた者、イエス様に出会った者の最高の証しです。私たちの人生を振り返ってみましょう。どんな人生を歩んで来たでしょうか。救われた恵みにどう応えて生きているでしょうか。とにかく素晴らしい福音を信じてみてください。罪赦されて、新しい命に生きていただきたいのです。イエス様が私のために死んで、よみがえられた福音をしっかりにぎって、救われたことを新にしましょう。救いの恵みが私たちに働いて、新しい信仰の生涯に導いてくださいます。10節,コロサイ1:29。主の復活を証明する歩みとなりますように。



Tコリント
15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
15:11 そういうわけですから、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。



ガラテヤ3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

ローマ6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

Uコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

創世記3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

コロサイ1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

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