2015年 5月 31日「わたしはよみがえりです。いのちです。」Tコリント15:12〜34

序−想像してみてください。もしあなたが、イエス様の体がエルサレム近郊のどこかで見つかったというニュースを聞いたなら、どんな衝撃と狼狽を見せるでしょうか。もちろん、イエス様は最初のイースターによみがえられたので、そういう「もし」はありません。でも、イエス様がよみがえられたというニュースに驚愕を覚え、人生が変わらないでしょうか。

T−イエス様の復活がなかったら−12〜19
 コリントの聖徒たちは、「キリストは死者の中から復活された」という福音を聞いて信じて、クリスチャンになったはずです。ところが、彼らの中に、「死者の復活はない」と言う人々がいて、そのことが、聖徒たちの信仰を形骸化させる要因になっていたようです。福音の確信がない、福音が生活に影響を及ぼすことがないなどという弊害を生み出して生きました。
 コリントの聖徒たちが、ギリシャの文化と偶像崇拝の影響を受けていたからです。それは、人の精神、つまり不死身のたましいは、死によって、体という牢獄からついに自由になるという考え方でした。体は、人の悪い習慣の根源だと理解されていました。死は、物質的な存在からついに自由になる瞬間だとみなされていたのです。いかにも人間の知恵中心にうまくはまる哲学らしい考え方です。これで、彼らの信仰は形ばかりとなり、力のない、肉の思いで生活するようになりました。
 そういうギリシャ人には、肉体の復活など考えられませんでした。どうしてそんな汚らわしい肉体で復活するのか、と馬鹿にしていました。しかし、使徒たちが伝えていたのは、神が体もたましいも新しくされるという復活でした。Tコリント15:52。もとより、ギリシャ文化の考え方は、人の罪性をまったく考えていません。しかし、実際は、人の罪がその心も体も汚していました。テトス1:15, ヤコブ3:16。そのために、コリント教会には、妬みと争いがありました。私たちは、イエス様の復活をしっかり信じているでしょうか。その生活に影響を与えているでしょうか。
 「もし〜なら」と仮定して話しは続きます。13〜15節。死者の復活がないなら、イエス様の復活がないということになります。それは、福音もキリスト教そのものも無効にしてしまうことになります。イエス様が復活されなかったなら、私たちの信仰も宣教も、実質のないものになります。私たちは神について偽証をした者ということになります。
 そして、イエス様がよみがえらなかったら、私たちの信仰はむなしくなります。16~17節。イエス様がよみがえられなかったなら、福音全体が無効となり、私たちの信仰を、ありもしないことの上においたことになり、私たちの告白した信仰も空虚なものとなります。復活の事実が信仰と福音において、どれほど根源的なものとなっていたかが分かります。
 決定的なことは、イエス様がよみがえらなかったら、私たちの罪が残ったままになるということです。イエス様は、私たちを罪とその結果である死から解放するために十字架に身代わりとなって死なれました。死からよみがえられてこそ、罪お赦しと天国への命があるわけです。もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちは今もなお自分の罪の中におり、たちの信仰はむなしいことになります。イエス様を信じてすでに召された者も滅んでしまったということになり、私たちはイエス様に淡い希望を置いている最も哀れな者となってしまいます。18〜19節。
 イエス様の十字架の贖いと言われます。つまり、イエス様のよみがえりがなかったなら、イエス様が私の身代わりに十字架にかかってくださったという尊い犠牲による救いが、無効となるのです。救いはどこにもないということになります。こんなに空しい、哀れなことはありません。私たちは、イエス様のよみがえりを信じているでしょうか。驚愕を覚えているでしょうか。

U−よみがえりの初穂−20〜28
 これまでの、「もし〜なら」という仮定は、あくまで論理的仮定です。仮定の結果が成り立たないのであれば、仮定はみな根拠のないものです。宣教の実質がない、信仰がむなしい、罪の中にいるあわれな者だなど、一瞬でも考える必要はありません。イエス様のよみがえりは、歴史的な事実だからです。ですから、「もし〜なら」のフレーズをやめて、「しかし」と続きます。20節。イエス様のよみがえりの効果を示すために、二つの大変有名な類似をあげています。一つは、初穂という表現です。
 初穂とは、最初の収穫物を神様にささげたものを言います。まず初穂を神様にささげてから、そのほかの収穫物を食べることができました。神様がイエス様を死者の中からよみがえらせるまでは、人は誰一人望みを持つ者はいませんでした。しかし、イエス様のよみがえりが、神にささげられた初穂のようになりました。罪の赦しと天国への命の望みを持つ者に救いの道が開かれました。初穂をささげてから、すべての収穫をいただくことができるように、イエス様がよみがえられたことを通して私たちも、復活の希望に与ることができるようになりました。
 もう一つは、アダムとキリストのコントラストでもって示されています。21〜22節。ここには、神様の救済史の一端が示されています。人類の始祖であるアダムの堕落によって、人類に罪と死が入り、連綿と罪は続いて来ました。それでも、その時から神様によって救いのご計画は始まり、やがて救い主が罪の赦しのために来られる、という約束をくださいました。創世記3:19,15,イザヤ53:1〜12。それを見事なコントラストで表現したのが、これです。アダムの堕落がすべての人類に、自分まで及んだ、それを知って文句を言っていました。それがまったく反対に、イエス様の復活がすべての信じる者に、私にまでに及んでいるという対比に納得し、ただただ感謝するばかりです。神様は私たちを顧みてくださいました。ルカ1:68〜9。
 よみがえりの偉大な望みは、神の究極的な勝利を約束しています。神様がイエス様を死からよみがえらせた時、真理が偽りより強いことを、善が悪より強いことを、愛が嫌悪より強いことを、命が死より強いことを証明してくださいました。25〜26節。私たちが霊園で墓前礼拝、記念会を行う時、黙示録21:1〜4を引用します。その4節「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」に、大きな慰めと喜びを覚えます。

V−目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい−29〜34
 こんなに大きな救いの恵み、よみがえりの命に与ったならば、私たちの生活が変わらないでいられるでしょうか。なぜ、私たちは現実の生活において苦難の中で生きていけるのでしょうか。どうして、危険にさらされていられるのでしょうか。確かに使徒パウロは、毎日が死の連続のようでした。30〜32節。現代の私たちも、やはり様々な危険にさらされ、苦難を受けています。その危険の中でも、クリスチャンに望みや勇気を与えているのは何でしょうか。それは、復活の望みの確信です。イエス様がすでに死からよみがえられているという真実を知っているからです。
 もし、復活の希望がなければ、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という生き方になります。これは、当時の哲学の一派が言っていたことです。どうせ死んでしまうのだから、何でもしたいことをしようじゃないか。どうせ苦難が多いのだから、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲み、酔おう。どうせ明日も分からない命なのだから、肉欲のまま過ごそうじゃないか。現代の人々も同じです。身勝手に生き、娯楽によって生活の問題から気をそらし、楽しみの追求以外に何か生きる糧があるのかと言います。そんな人生は空しい、とても心は虚しいです。
 クリスチャンがこのような価値観に陥ってはなりません。イエスは言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25。私たちは、この復活の信仰に生きるのです。33〜34節。思い違いをしてはいけません。望みのない生き方、肉の思いに惑わされてはなりません。むなしくなるだけです。不平不満や呟きが生じて来ます。何でも否定的にとらえ、肉の思いで反応します。
 生きる喜びと恵みがありますか。聖徒たちは、復活を否定する人々に惑わされて、妬みや争いという罪の習慣、御言葉より自分の肉の思い中心という罪の習慣に従うようになりました。33節。人を悪く言っていませんか。御言葉より自分の思いが先になっていませんか。不機嫌や怒りに引き回されていませんか。それは、「神についての正しい知識を持っていない」からです。34節。それは、彼らの人生の中に神様がおられないようになっていたということです。御言葉を学び続けましょう。主の臨在ある礼拝をささげましょう。主に絶えず祈りましょう。
 状況が辛くなると、神様は私から遠くにおられると感じ、私を罰していると思う人がいます。それは、信仰をイエス様の復活の事実の上に置かれていないからです。イエス様のよみがえりによって、私たちもよみがえりの命をいただきました。もうその恵みに驚いて、新しい命に生きて行くだけです。ガラテヤ2:20。「目をさまして、〜」とは、イエス様のよみがえりに感動して、罪から立ち上がらせるためです。34節。イエス様のよみがえりの事実は、私たちのするすべてに意味と目的を与えます。罪過の中に死んでいたこの私たちは、新しい命によみがえるのです。エペソ2:4〜6。



Tコリント
15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。
15:27 「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。
15:28 しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。
15:29 もしこうでなかったら、死者のゆえにバプテスマを受ける人たちは、何のためにそうするのですか。もし、死者は決してよみがえらないのなら、なぜその人たちは、死者のゆえにバプテスマを受けるのですか。
15:30 また、なぜ私たちもいつも危険にさらされているのでしょうか。
15:31 兄弟たち。私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。
15:32 もし、私が人間的な動機から、エペソで獣と戦ったのなら、何の益があるでしょう。もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」ということになるのです。
15:33 思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。
15:34 目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。



テトス1:15 きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。

ヤコブ3:16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

ルカ1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、

黙示録21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

ヨハネ11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」

ガラテヤ2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

エペソ2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

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