2015年 6月14日「主がお許しになるなら」Tコリント16:1〜12

序−15章から16章への変化は、読む者を驚かせます。よみがえりのことから実際の教会生活のことへ、永遠の展望から現実のプランへ急激に内容は変わります。崇高な永遠の命やよみがえりのことも、教会の具体的な問題につながっています。救われて罪の赦しと永遠の命を与えられ、からだのよみがえりの約束を覚えるからこそ、現実の信仰生活にしっかり臨むことができるのです。

T−助け合いと教会は一つ−1〜4
 まず、苦難を覚えていたエルサレム教会を助けるための献金について指示が与えられています。1〜3節。迫害のせいか、大きな災害があったのか、エルサレム教会は経済的危機に陥っていました。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間には、習慣や文化の違いもあって、弟子たちの間にも論争が起こり、会議が開かれたこともありました。使徒15章。
 そういう経緯のある異邦人クリスチャンの教会が、ユダヤ人のエルサレム教会を助けるために、献金を送るというのは、教会の一致と主にある交わりの実際として、大変良い機会となりました。エルサレム教会からローマ帝国中にクリスチャンが散って行き、福音が証しされて行きました。エルサレム教会にとって、異邦人教会が自分たちを助けてくれ、祈りに覚えてくれているというのは、二重にうれしいことです。ここに、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの交わりが大きく進みました。私たちが他の教会や宣教の働きを助けるのも、主にある交わりの進展となります。
 パウロが行ってから集めることのないようにと言われているのは、パウロが来たから献金しようということでなく、みずから進んでする献金であることが望まれているからです。Uコリント9:5,7。献金をエルサレムに届けることにしても、教会によってまとめられ、「教会の承認を得た人々によって」届けられるべきことが教えられています。献金の集め方、送り方にも細心の注意を与えながら、パウロ自身でも、それを取り扱わないようにしています。そこにも、目がとまります。
 聖徒たちが神様によって召しだされ、イエス様との交わりに入れられ教会となっていることが、この手紙の全体に流れている主題でした。クリスチャンの交わりとは、主のわざを行うために交わるのです。エルサレム教会は苦しい状況にあり、極度の窮乏にあり、諸教会が助けていたのです。「もし一つの部分がともに苦しめば、すべての部分が苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」Tコリント12:27。こうして、教会は一つに結ばれていました。
 4節にあるように、パウロは献金をエルサレムに届けるについて、「私も一緒に行くのがよければ、行くことになるだろう」と、自分の計画について、不確かさな表現となっています。

U−人の計画と主の導き−5〜9
 5〜8節には、パウロの活動旅行計画が記されています。とても特徴的なことは、不確かなプランになっていることです。これがいい加減と映るでしょうか。多くの慰めを見出すことができるでしょうか。私たちは、計画を立てるのが好きです。きっちり立てないと気がすまない人もいるでしょう。しかし、私たちは苦心して立てた計画を維持することがいかに難しいことか分かっています。神様が大きなご計画のために、私たちの小さな計画を崩されることも知りました。箴言6:1〜2。
 使徒パウロは、人一倍確信のある人だと思いますが、ここでのパウロは、まったくもって不確かです。「通るつもりでいます」「たぶん滞在するでしょう」「冬を越すことになるかもしれません」「滞在したいと願っています」「滞在するつもりです」というように、すべて「そうする」とは言っていません。私たちは、不確かな表現にこれだけ触れても、パウロという主の働き人が、適当ないい加減な人だと思えません。これは、主にある聖徒の輝かしい不確かさだということができます。
 使徒パウロは、不確かに言っている根拠を示しています。「主がお許しになるなら」という一言に、すべての計画がつながっています。7節。主がお許しになるなら、マケドニヤを通るかもしれません。主がお許しになるなら、コリントに滞在し、冬を過ごすかもしれません。主がお許しになるなら、エペソに五旬節まで滞在するかもしれません。「どこに行く」ことすら、彼自身分からなかったのです。ただはっきりしていることは、パウロが主の導きと命令の下にあったということです。
 私たちは、計画を立てることの大事さも魅力も知っています。事実、しっかり状況をわきまえて、きちんと計画して置くことは大切です。パウロは、無計画、行き当たりばったりであったのではなく、どこへ寄って、どこに滞在してと計画を立てました。しかし、「主がお許しになるなら」あそこにも行こう、そこにも滞在しようということだったのです。ヤコブ4:15。「主がお許しになるなら」という意味は、もし主がくつがえされるならば、その指示に従おう、ということです。
 主が私を動かされるなら、どうぞ私の計画をくつがえしてください、というのです。これが、イエス様を信じて、イエス様を「主よ」と呼ぶ聖徒の姿なのです。どうして神様は私の計画通りしてくれないのかと怒ったり、失望したりする人がいます。神様と自分のどちらが主なのでしょうか。パウロは、自分の全生涯が、主の権威の下にあることをわきまえていた人です。自分のために十字架にかかり、罪の赦しと永遠の命、よみがえりの約束を与えてくださったイエス様に出会った時から、彼の人生は、肉の考えや罪の思いで計画して突き進む人生ではなく、主に生かされて、主に導かれる人生へと変わりました。私たちの人生は、どうでしょうか。人生の運転手は誰ですか。人生の経営者は変わりましたか。
 私たちはこう言うのです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ヤコブ4:15。

V−軽んじてはいけません−10〜12
 もう一つ具体的な事柄は、主の働き人が、どう歩むかということに触れるように教えています。10〜11節。パウロの同労者であるテモテがコリントへ行ったら、「心配なく過ごせるよう心を配ってください」とお願いしています。「主のみわざに励んでいるから、だれも彼を軽んじてはいけません」と命じています。テモテは素晴らしい主の働き人です。祖母と母から御言葉の教えを受け、信仰の家庭で育てられ、純粋な信仰を持つ人でした。Uテモテ1:5。
 党派を作り、妬み争っていたコリントの人たちが、パウロに代わって御言葉を教えるテモテをどう迎えるか、パウロは分かっていました。彼らが、テモテを圧迫したり、おどしたり、おじけさせたりしないように、戒めたのです。妬み争っていたたちは、みな学問のある、利口な人たちでした。でも、テモテが彼らより利口だからでなく、「主のみわざに励んでいるから」軽んじてはならないと命じていました。知識が多くて高慢になり、信仰の賜物に妬みを持っていた人々が、純粋で謙遜な働き人をどう受け止めるか心配したのは当然です。私たちが信仰に立って、純粋に謙遜に生きようとすれば、周りの高慢な人々は肉の思いで対応してくるでしょう。そのような人々が、自分を軽んじないように、配慮してくれるようにパウロさんに頼むわけには行きません。
 パウロは、テモテ自身に対しても、そのような人々にどう対するか、勧めています。Tテモテ4:12〜15。「軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい」と命じています。しっかり福音に根ざして、人々から軽んじられないように生活しなさい、というのです。主の働きをしっかりするように勧め、評価されなくても、主に従って、主の業をしている事で霊的自尊心を持ちなさいというのです。私たちも、ここに立ちます。
 もう一人、アポロという主の働き人にもコリントに行ってもらおうと考えています。12節。えっ、アポロって、「私はパウロにつく、私はアポロにつく」と言われていた人ではないでしょうか。Tコリント3:3〜4。アポロがコリントに行ったら、党派心が再熱しないだろうか、と危惧します。アポロ自身、「行こうとは全然思って」いないのです。おそらく自分が行けば、党派争いに火が付くだろう、だから行かないとアポロは考えていたのでしょう。
 どうしてパウロは勧めているのでしょう。このコリント教会への手紙を学んで来てみて、これらのことをしっかり学び、聞き従うならば、きっとコリントの聖徒たちの信仰が新しくなり、霊的に造り変えられ、教会全体が変わって行くはずです。事実、すでに党派心は崩れて来て、教会の一致が増して来たようです。アポロがコリントに戻るというのは、そのような公のしるしとなります。
 パウロはそう考えているけれども、無理にそうしようとはしません。アポロの思いも時が来れば変わることを知っています。ですから、「しかし、機会があれば行くでしょう」と結論づけています。ここにも、主の導きを覚え、主のご計画が進んで行くことを信じるパウロの信仰が感じられます。支援献金のこと、旅行計画、働き人についてなど具体的なことを、主に導かれて取り組んで行く信仰者の姿を私たちに示しています。



Tコリント
16:1 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。
16:2 私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
16:3 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。
16:4 しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。
16:5 私は、マケドニヤを通って後、あなたがたのところへ行きます。マケドニヤを通るつもりでいますから。
16:6 そして、たぶんあなたがたのところに滞在するでしょう。冬を越すことになるかもしれません。それは、どこに行くとしても、あなたがたに送っていただこうと思うからです。
16:7 私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。
16:8 しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。
16:9 というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大ぜいいるからです。
16:10 テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるよう心を配ってください。彼も、私と同じように、主のみわざに励んでいるからです。
16:11 だれも彼を軽んじてはいけません。彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。私は、彼が兄弟たちとともに来るのを待ち望んでいます。
16:12 兄弟アポロのことですが、兄弟たちといっしょにあなたがたのところへ行くように、私は強く彼に勧めました。しかし、彼は今、そちらへ行こうとは全然思っていません。しかし、機会があれば行くでしょう。



箴言6:1 人は心に計画を持つ。【主】はその舌に答えを下さる。
16:2 人は自分の行いがことごとく純粋だと思う。しかし【主】は人のたましいの値うちをはかられる。

ヤコブ4:15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」


Uコリント9:5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

Tコリント4:17 そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

Tテモテ4:12 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
4:13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。
4:14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。
4:15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。



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