2015年6月21日「いっさいのことを愛をもって」Tコリント16:13〜24

序−この手紙は、コリント教会の争いと混乱を戒め、聖徒たちの霊的状態を知らせて、立ち返るべき福音、崇高な救いの恵みを教えてくれました。この手紙を閉じるにあたって、コリントの聖徒たちが立ち返るべき美しい成熟した信仰の姿を見せてくれています。

T−成熟したクリスチャンとなって−13〜14
 まず、コリントの聖徒たちへの励ましです。13節。すべて命令形で記されています。「目を覚ましていなさい」というのは、神様の御前にいるということです。神様の御心がどこにあるか考えることです。私たちが自分のことだけ考えると、霊的に眠っている状態であり、すぐさま争いと妬みに戻ってしまいます。学んだように、素晴らしい救いにあずかり、どんなに恵まれている存在かを思い出したら、肉の思いは飛んでしまうでしょう。
 霊的に目を覚ましているなら、「堅く信仰に立つ」ことができます。妬み争い、高ぶり蔑むのは、目の前のことしか考えないためです。目先のことしか眼中にないなら、それに心引き回され、怒ったり、失望したりします。しかし、私たちは、すでに永遠の命に生きているのです。罪の赦しから体のよみがえりまで約束された崇高な救い、永遠の世界、天の御国に思いを馳せるなら、そんな肉の姿は、とても恥ずかしいのです。
 「男らしく」というのは、大人らしくということです。霊的な子ども、幼子のままでないようにということです。学問も知識もありながら争っていた高慢な人々が、肉に属する人、霊的幼子と呼ばれていました。Tコリント3:1。こうして他人事として見るならば、そうだと分かるのですが、自分自身が霊的幼子になっているのは、気付かないものです。霊的に造り変えられて、信仰が成長して行く者が、聖書でいう大人、成人です。エペソ4:13。私たちは、霊的に成熟して行くことを目指しています。ヘブル6:1。
 霊的に大人になるなら、「強くある」ことができます。13節に使われている言葉は、軍隊用語と言ってもよいものでばかりです。信仰の戦いが意識されています。困難や問題との戦い、精神的な戦いにおいて、私たちは何をもって戦うのでしょうか。「強くありなさい」は受身形です。私たちは、自分自身を強くできません。それは、主の御業です。エペソ6:10。これまで学んだようなイエス様が私のために十字架にかかってくださったという福音の恵み、十字架にあらわれた主の愛がどれほど私たちを強くしてくださることでしょうか。ピリピ4:13。
 ですから、13節のような勧めも、その原動力は、主の愛だということになります。14節。私たちにとって、「いっさいのことを愛をもって」ということがどれほど重要でしょうか。コリントの争いや混乱の渦中にいたのは、リーダーたちであり、働きをしていた人たちでした。私たちも、イエス様の愛をもってするのでなければ、自分を誇り、肉の思いで働き、高慢になり、蔑み、批判し、妬み、文句を言い、争うでしょう。私たちは、どうでしょう。「いっさいのことを愛をもって」?考えてもいないですか。
 私の罪の赦しと永遠の命のためにイエス様を十字架に渡されたほど、神は私を愛してくださいました。この愛を知り、この愛によって救われたならば、私たちもまた互いに愛し合うべきだと教えられています。Tヨハネ4:9〜12。その愛は、人に仕えることに、主の働きとしてあらわれます。「いっさいのことを愛をもって」と命じています。愛をもって会社の仕事をされていますか。愛をもって家庭の働きをされていますか。愛をもって人々と交わりをしていますか。

U−成熟した働き人、その人に従い、労をねぎらいなさい−15〜19 
 パウロは、そのような成熟したクリスチャン、成熟した働き人の例として、コリント教会の働き人を紹介しています。15〜18節。ステパナの家族です。ステパナという人は、アカヤ州の初穂、すなわちコリントのある地方で最初に救われた人であり、家族共々教会に仕えていた人でした。当然、コリント教会の聖徒たちは、この成熟したクリスチャン、働き人をよく知っていました。詳しく記す必要はなかったのでしょう。
 さらに、このステパナが、他の人とともに、エペソにいるパウロを助けに来ました。コリントの聖徒たちに代わってパウロを助け、パウロを安心させ、喜ばせました。このようなことから、ステパナの信仰と人となりが分かります。健全な信仰の持ち主であり、証しにつとめており、黙々と仕える働き人であったでしょう。これほどの働き人だったのに、党派争いには加わらず、高慢や争いからは無縁の人でした。このような姿、信仰が光ります。ステパナのようなクリスチャンが他にもいたでしょう。
 ですから、ステパナのような「ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい」と勧めています。能力や知識を競っていた高慢な人々に比べれば、よく働き、労していても、目だっていなかったのでしょう。でも、愛をもって聖徒たちに仕え、愛をもって人々を助けていた人々です。妬みや争いで混乱してコリント教会では、このような人々こそ尊ばれ、このような人々にこそ従うことが必要でした。エペソ5:21。
 世の価値観のように、有能さ、弁の立つことだけで人を導くと、よく人を導くことはできません。とりわけ教会においては、「いっさいのことを愛をもって」受け止め、「愛をもって」取り組んで行くことが必要です。教会のことは勿論、仕事のこと、家庭のこと、人間関係のこと、みな信仰的に考え、御言葉でもって判断し、愛をもって取り組んで行くのです。家族を愛し、同僚を愛し、仕えます。これが、私たちクリスチャンの生きる道です。私たちは、成熟したクリスチャンとなって、信仰の恵みを享受し、主の栄光をあらわす人となりたいのです。
 彼らは、労苦することが多かったようです。そのような妬み争う人たちとともに働き、高慢に人を責めるような人々に仕えるのは、労苦が多かったはずです。ですから、「このような人々の労をねぎらいなさい」と、命じています。愛することは、人のわがままに寄り添うことであり、高慢な人に仕えることであり、自分を肉の思いから遠ざけることであり、評価や感謝がなくてもよしとすることです。「愛には労苦を伴う」ものなのです。Tテサロニケ 1:3。

V−成熟した人の特徴−19〜24
 成熟した働き人の例として、パウロのそばにいた人々を紹介しています。19節。パウロの近くの人々からの挨拶として記されています。「アクラとプリスカ、また彼らの家の教会がよろしく」と言っているように、この二人は、コリント教会の聖徒たちにもよく知られていたことが分かります。使徒の働きによれば、彼らは、ユダヤ人で、テント作りを商売にしていました。元々ローマに住んでいたのですが、その信仰のゆえにローマを追われ、コリントに一時寄留していました。そこで、パウロに会い、パウロがエペソ宣教に赴いた時、彼に同行しました。アポロは、この二人から福音を教えてもらっています。使徒18:2,18,26。
 さらに、この箇所では、二人の「家」で集会をもっていたことが分かります。二人がどこに移住しても、その家に人々が集まる所になったようです。彼らが活動的であっただけでなく、二人とも成熟したクリスチャンであったということです。その生活自体が証しとなり、人々との交わりが証しとなったのです。人々を愛し、助け、証しし、人々が彼らの家に集まっていたのでしょう。
 こうして二人について見てくると、二人が福音にしっかり立って、苦難の中でも信仰をもって生きて、人々を愛し、助け、パウロを助けて、同労者として働いていたことが分かります。どんな状況においても「堅く信仰に立って」働き、惑わしに陥らないように「目を覚まして」歩み、迫害の中でも「強く」生きて、愛をもって人々に証しし、教会に仕えました。「いっさいのことを愛をもって」していた人たちでした。13〜14節。
 こうして、コリントの聖徒たちは、ステパナたちやこのアクラとプリスカ夫婦の信仰を思い出させられました。信仰で生きるということがどんな姿なのか、霊的に成長し、成熟したクリスチャン、働き人とはどうなのか、愛をもって人々に仕え、生きるとはどういうことか、彼らの姿から知ることができました。まさに、愛は教会の病の治療薬です。Tペテロ 4:8。
 また、残りの部分には、パウロ自身の愛も表されています。21〜24節。「パウロが自分の手で書いている」と記しています。自分を心配させ、悩ませたコリントの聖徒たちを愛し、親しみを込めて、自分の手で書いているのです。祝祷とともに、心から個人的に「私の愛が主にあって、あなたがたにあるように」と記して、私の愛を表しています。
 「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」とは、パウロの心の大きな叫びです。人が主を愛さないなら、のろわれた者になって滅んでしまう、と叫んでいます。ですから、コリントの聖徒たちに対する愛の思いは、「主よ、来てください」(マラナ・タ)と、突如アラム語となって飛び出しています。聖徒たちの悔い改めと信仰の成熟を願い、主のあわれみと愛の取り扱いを願うあまり、ギリシャ語の中に「マラナ・タ」とアラム語で叫んだのです。もし今イエス様にお会いするとしたら、今の生き方、姿勢、信仰のままで、会えますか。パウロ自身が、この霊的緊迫感で生きていた人でした。以後、これは初代教会の聖徒たちの挨拶となります。私たちも、「マラナ・タ!」と言って歩みます。



Tコリント
16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
16:14 いっさいのことを愛をもって行いなさい。
16:15 兄弟たちよ。あなたがたに勧めます。ご承知のように、ステパナの家族は、アカヤの初穂であって、聖徒たちのために熱心に奉仕してくれました。
16:16 あなたがたは、このような人たちに、また、ともに働き、労しているすべての人たちに服従しなさい。
16:17 ステパナとポルトナトとアカイコが来たので、私は喜んでいます。なぜなら、彼らは、あなたがたの足りない分を補ってくれたからです。
16:18 彼らは、私の心をも、あなたがたの心をも安心させてくれました。このような人々の労をねぎらいなさい。
16:19 アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。
16:20 すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。
16:21 パウロが、自分の手であいさつを書きます。
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。
16:23 主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。
16:24 私の愛は、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべての者とともにあります。アーメン。



Tコリント3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

エペソ4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

ヘブル6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。

エペソ6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

ピリピ4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

Tヨハネ4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

Tテサロニケ1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。

Tペテロ 4:8 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

戻る