2015年6月28日「何に頼るのですか」イザヤ31:1〜9

序−人生は多事多難、人は、それらをどのように受け止めて、どうやって乗り越えて、どうして解決して行くのでしょうか。様々考え、悩み、彷徨します。そして、行動するのですが、失敗したり、痛い目に会ったりします。どうしてでしょう。何が障害なのでしょう。何が足りないのでしょう。

T−エジプトに助けを求める愚かさ−1〜3
 預言者イザヤの時代、旧約の神の民であったユダは、北の強大なアッシリア帝国の侵略を受けて、国家の危急存亡の危機に直面していました。一般に弱小国が取る方法は、他の国と同盟を結び、対抗することです。あるいは他の大きな国の属国にしてもらうことです。ユダ王国は、南の大国エジプトに助けを求めました。それは、どこの国でもする普通のことです。それに対して、神様はこう仰せられました。1節。
 人は、体調が悪くなった時、二つの観点で考えます。純粋に肉体的部分で病気になったら、過労だとか季節の変わり目のせいとかならば、薬を飲んで、休みを取ることで治るでしょう。ところが、間違った生活様式から生じたものならば、薬を飲んだだけでは治りません。ユダがこのような危機に会うのは、単純な軍事力の問題ではなく、根本的な問題です。神様に背を向けて、世に従ったからでした。ユダの指導者たちは、どのように捉えたのでしょう。単なる軍事力の問題として捉え、お金を出して、エジプトの軍隊を出してもらおうとしたのです。
 エジプトに頼るのは仕方ないことではないかと人は言うでしょう。でも、エジプトに頼る者には、災いがあるだろうと言われました。2節。ユダの人々は、神の民です。困難が生じた時、神様の前にじっくり考えてみるのです。「我々は神に愛された民であり、神の民であるのに、なぜこのような状態なのか。神様から離れてしまっているからではないか。あるいは…」と、悩みながら神様の御前に祈らなければならないのに、簡単に行動に移ってしまいました。ユダの民は、もっと不信仰になり、神様からもっと離れることになり、災いに会うようになるのです。
 ですから、ユダの民が、「エジプトの馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼んだ」ことは、自分たちの「聖なる方に目を向けず、主を求めなかった」ということでした。神様を信じる者たちが、どうして主に拠り頼むことをしないのでしょうか。目に見える馬、戦車、騎兵が頼りになると考えたからです。現代の神の民、イエス様を信じるクリスチャンが、どうして危機に際して、神様に拠り頼まないのでしょうか。
 今、私たちも考えてみましょう。馬、戦車、騎兵とは、自分にとって何だろう。私が拠り頼んでいるものって何だろう。イエス様に救われ、神様に愛された民という特別な存在であることを忘れてはいけません。困難に際する時、私はイエス様の十字架によって救われた者、神のこどもとされた者だ、と御前に主張しなければなりません。
 考えてみてください。確かに、私たちは知恵が足りないかもしれません。状況をしっかり把握し、先を見通すことも不十分です。でも、私の主は、知恵ある方です。すべてを取り扱われる方です。敵をも退けるお方です。2節。ユダの指導者たちが考えたようにはなりません。エジプトがユダを助けることができないというだけでなく、ユダはもっと困難に陥るでしょう。結局、ユダの人々が、人間的な考えをすべて放棄して、神様を拠り頼む信仰に立ち返ることです。箴言3:5〜6。
 エジプトに行こうとした彼らには、まだ他に頼るものがあったために、神様に立ち返りませんでした。3節。でも、お金もなくなって、他に頼むことができなくなれば、主の前に祈るようになります。だからといって、どん底まで行かないと立ち返らない理由がどこにあるのでしょうか。そうならないうちに立ち返って来ることなら、どれほどよいでしょうか。
 ですから、ユダの問題は、単純な軍事問題ではなかったからです。霊的な問題が、ユダにはあったのです。私たちに起こって来る問題も、単純な経済問題、よくある人間関係、困難が生じただけではないのかもしれません。到底生きることができないような状態でユダは生きて来ました。ですから、結論は、今まで生きて来たように生きろ、ということです。私たちも、これまで信仰の中で生きて来たのならば、危機のときも、信仰で生きるのです。
 勿論、神様がエジプトの軍隊を引いて来て、助けることもできます。しかし、神様がエジプトを引いて来るのとユダの民がエジプトを頼りにするのとでは、根本的な違いがあります。私たちが困難に出会う時、あれこれ世の方策を探し求める前に、まず神様を探し求めなければなりません。その後で、神様の導きに従って、動くならばいいのです。

U−主が守り、救い出し、助けてくださる−4〜5
 ユダの民が理解しやすいように、神様は二つの比喩をもって生き生きと描いて見せておられます。4節。獅子が獲物を捕らえようと来る時、牧者たちが騒いでも、その声に動ずることなく獲物を捕らえ、ゆうゆうと森へ戻って行く様子を描いています。その獅子に神様をなぞらえています。神様は、アッシリアよりも強いために、アッシリアの攻撃に動じません。この譬えは、神様は、人が何をしようとも、ご自分の民であるユダを守ってくださるという意味です。神様が私の味方であるなら、私たちは、人を恐れる必要はありません。詩篇118:6。
 5節の比喩は、巣にいるヒナを蛇や獣が捕らえようとするなら、親鳥が必死に翼をばたつかせ、声を出して、追払おうとします。鳥は弱いですが、ヒナを守る時だけは、必死なのです。申命記32:10〜11。つまり、神様は、ご自分の民ためにご自分をも犠牲にされんばかりの愛を見せておられるのです。イエス様を十字架に渡されるほど、神様は私たちを愛しておられるということを、私たちは良く知っているのではないでしょうか。ローマ8:32。私たちは、苦難の時、主の御翼の陰に身を寄せます。詩篇63:7。

V−その方のもとに帰れ−6〜9
 神様は、人の方法に期待をかけている指導者たちに向けて、立ち返って来るように言われます。6節。神様に「反逆を深めていた」ユダの民に対して、神様に背を向け、神様を悩ませたことを認めて、立ち返りなさいというのです。神の民の特徴は、自分のものは何もないということです。すべては神様からのプレゼントです。ですから、私たちは、不安であっても、感謝して、満ち足りることができます。ですから、うまく行かなくても感謝して生きることができるのです。
 神の民だからといって、何もなくて生きることはできません。しかし、聖徒が生活において神様に感謝しないのは、霊的不健康のバロメーターです。不満や不平ばかりは、神様から遠退いている証拠です。私たちが生きて来た半生を省みると、私たちも神様に「反逆」していたと言わざるをえません。ある時には、自分の思いに固執して神様に背を向けていたし、神ならざるものにより頼んでいたことを思い出させられます。
 今まで反逆していた神様のみもとに立ち返って来るならば、どのようになりますか。7節。「その日」とは、ユダの民が本当に悔い改めて、偶像を止めて、立ち返って来るときをいいます。なぜその日まで銀の偶像や金の偽りの偶像を退けなかったのでしょうか。何か金や銀で覆われた偶像が幸福にしてくれそうに見えたようです。ユダの民は、将来が不安であったためにもっていたのです。
 ここで気をつけなければならないのは、木や石で作った偶像だけが偶像ではないということです。アッシリアの脅威から逃れるために、エジプトに頼り、馬や戦車や騎兵により頼んだこと、それが当時のユダの民にとって偶像となりました。「聖なるお方に目を向けず、主を求めない」で、他の物を求めたなら、それが彼らの偶像でした。ならば、私たちにも偶像があると言えるでしょう。あなたは何に頼っていますか。何を神様よりも頼りにしていますか。それが、あなたの偶像です。私たちの偶像は、ものばかりではありません。人の評価だったり、自分の知恵だったりします。
 多くの人々は、未来に不安をもっています。神様の大きな恵みが臨む時、ようやくそのようなものが、何にもならないことを悟って、もっていた偶像を捨てるようになります。ユダの民が、心から神様に立ち返って来る時、驚くようなことになります。8〜9節。それまでユダを苦しめていたアッシリア問題が解決されることになります。人間的な方法を取らなくても、神様が特別な方法で解決されるのです。その時には、長い間苦しめて来た問題も、一瞬のうちに解決されるのです。
 あなたを救われた神様は、創造の神です。あなたを恐れさせるものよりも遥かに偉大なお方です。すべての問題の解決は、神様にあります。あなたのために御子イエス様を十字架に渡された神が、あなたの神です。困難が訪れる時、世に戻るのではなくて、神様のもとに出て来る人が生きることができます。主の火は消えませんでした。万軍の主がエルサレムを支配していました。あなたの問題は、神様がまず取り扱わなければなりません。そうでないなら、解決しないだけでなく、立ち返るまで苦しむことになります。私たちは、この世で勝利できる者です。神様の力で世を変えることのできる者です。私たちは、神様を、実際的に私たちを助けてくださる方として礼拝します。詩篇121。



イザヤ
31:1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、【主】を求めない。
31:2 しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行う者の家と、不法を行う者を助ける者とを攻めたてられる。
31:3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。【主】が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
31:4 まことに【主】は、私にこう仰せられる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき、牧者がみなそのところに集められても、それは、彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の【主】は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。
31:5 万軍の【主】は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」
31:6 イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。
31:7 その日反逆を、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ。
31:8 アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく。
31:9 岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。──シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ【主】の御告げ──



箴言3:5 心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

詩篇56:9 それで、私が呼ばわる日に、私の敵は退きます。神が私の味方であることを私は知っています。

詩篇118:6 【主】は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。

詩篇63:7 あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。

申命記32:10 主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。
32:11 鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

ローマ8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

詩篇121:1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
121:2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
121:3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
121:4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
121:5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
121:6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。

戻る