2015年7月5日「わが避け所主イエス」イザヤ32:1〜8

序−人は、危機に際して、自分の偶像化しているものに頼ります。私たちは、危機の中で何に頼るのか、今日の箇所で教えてくれます。今日世は混乱し、人生は嵐のように揺れ動いています。私たちが嵐から避ける所はどこでしょう。何を嵐の世に知らせることができるでしょうか。

T−ひとりの王が正義によって治める−1〜2
 南ユダ王国がアッシリヤの侵略を受け、危機に瀕していましたが、それは単なる武力の問題ではなく、霊的な問題でした。ユダの民は神様に背を向け、偶像を作り、指導者たちはエジプトの武力という偶像に頼っていたからでした。ですから、このようなメッセージが与えられています。1節。「見よ」と強調しています。画期的な変化を示しています。「ひとりの王が正義によって治め」るようになると言うのですが、これまでとは違って、徹底して義で治めるというのです。その家来たちも、正しく国を治めるようになるというのです。
 一体、やがて来られる王とは誰なのでしょう。なぜ、この王が来なければならないのでしょうか。今エルサレムは、危機に瀕しています。アッシリアの大軍がユダ王国を滅亡させようとしています。どうして、民の指導者は正しく導けなかったのでしょう。以前安全であったのは、なぜだったのでしょうか。それを考えることで分かって来ます。彼らは、神の民であり、その王は、信仰によって民を励まし、神の御言葉に従うように導く牧者の役割を徹底して担うべき者でした。
 神の民が危機の時、正義を行う王が登場して、ユダの民を正義によって、つまり御言葉によって治める平安が訪れるというのです。正義によって神の民を治める「ひとりの王」、これまでイザヤ書でしばしば登場して来たメシア像、キリストの預言にほかなりません。イザヤ9:6〜7, 11:4〜5。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。〜その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て」と預言されている救い主キリストの支配ということです。イエス様は、あなたの救いのために世に来られました。
 そのような王が来られたなら、神の民はどうなるのでしょう。2節。旅人がかわいた地を旅して、暑さに苦しんでいたとするなら、その旅人にとって、涼しい小川となり、暑さを避ける日陰となるのは、そのような王が治めている所だということです。ちょうど神の民が人生の荒野を行く場合、避け所となる所ということです。なぜ人生の嵐に出会っているのに、たましいのシェルターに逃げ込まないのですか。どうして暑さを避けて、岩の陰に身を寄せないのでしょうか。かわいた地をさまよいながら、たましいを潤す泉を飲まないのでしょうか。ヨハネ4:14。イエス様のもとに来るべきです。マタイ11:28。イエス様こそ、あなたの避け所です。あなたが身を寄せ、たましいの平安を与えられる所です。
 義の王はイエス様です。今私たちは、イエス様の十字架による救いを受けています。イエス様を信じた者には、天国へ続く平安が与えられ、その人生は主の統治の中にあり、主の御手にあります。それなのに、何を心配するのでしょうか。何かを偶像とする必要がありません。イエス様によるこの救いの約束と恵みは変わることがありません。聖徒の堅忍です。今問題は、民と指導者にあります。問題は、自分にあります。
 神の民の指導者が肝に銘じて置くべきことは、指導者が世の価値観に流されれば、民たちはもっと度を越してしまうということです。神の民の王が正しくなければ、神様から離れれば、民も悪くなり、神様から離れてしまいます。アッシリアの侵略を受けていたユダが、まさにそうなっていたのです。クリスチャンは、地の塩、世の光となれと言われているように、私たちが小さな存在ではあるけれども、世を正しくし、世を整え、たましいの避難所になる存在なのだ、という聖なる気概を持たなければなりません。マタイ5:13〜14。
 ユダの民の危機は、たましいの危機でした。ですから、指導者ももろとも神様のもとに立ち返り、主を避け所としなければならなかったのです。それは、絶対的な安全、たましいの平安が与えられる所です。イエス様をわが避け所としてたましいの平安を経験する者は、自分自身が他の人々の避け所、たましいの隠れ場、避けるべき岩の陰となって行きます。

U−主が起こす変化、民が変えられる−3〜4
 こうして、ひとりの王、すなわち救い主イエス様をわが避け所とし、たましいの平安が与えられ、主の治める人生となるならば、その人が変化して来ます。3節。「目を堅く閉ざさず」とは、苦難や問題の中でも、主の御業に気付くようになることです。とにかく、主に聞き、御言葉に耳を傾け、御心を聞くようになります。世の偶像的価値観に流され、不安と恐れに陥る私たちに、御言葉と黙想、賛美と礼拝は、御言葉の価値観に立ち返らせ、主の御声を聞かせます。今まで気付かなかったことに気付くようにさせます。ですから、礼拝は、私たちの避け所、たましいの泉です。
 イエス様に来るならば、盲目であった私たちの心の目がはっきり見えるようになります。エペソ1:18〜19。こころの耳にメッセージが聞こえるようになります。でも、人生の嵐の中で右往左往し、罪の思いで歩み、避け所なるイエス様の所に来ないならば、心の目も耳も、閉じたままです。
 目、耳に続いて、心と舌の変化が記されています。4節。「気短な者の心も知識を悟る」ようになります。気短な者というのは、性急に物事を判断する人です。無知な愚かな議論をします。でも、物事や状況の意味、背景がよく理解できるようになるのです。危機や問題に接して、恐れたり、憤慨したことも、よく分かれば、心落ち着きます。
 そして、しっかり理解できれば、人々に「はっきりと語る」ようになります。御言葉を聞いて理解するなら、証しするようになります。口が重く、舌が重いと言っていたモーセも、神様によって用いられ、出エジプトの指導者となりました。出エジプト4:10〜12。危機の中でイエス様に立ち返るなら、憤慨や不安でなく、主の導きを確信します。イエス様を避け所とするなら、福音が理解でき、信仰告白するようになります。ローマ10:10。

V−愚かな者に騙されず、高尚な生き方を−5〜8
 なぜ神の民は、危機の時確かな理解と対応ができなかったのでしょう。霊的分別力がなかったためです。イエス様は私たちに霊的分別力を与えてくださいます。しかし、神の民から霊的分別力を失わせていた人々がいたようです。5~7節。「高貴な人、上流の人」とは、王や貴族というユダの指導者たちのことです。彼らが「しれ者、ならず者」になっていたというのです。肉の思い、間違った罪の方法で国を滅亡に導き、人のたましいを滅びに行かせるなら、社会的地位が高くしても、知識があっても、しれ者であり、ならず者、つまり愚か者だというのです。
 確かに、社会的地位にあり、権力をもっている人々が、あまりにも愚かな言動に及ぶのを、見聞きします。私たちが、危機の中で愚かな人々の言動に振り回されることがしばしばあります。上司や目上の人に振り回されることもあります。その渦中では気付かず、憤慨したり、がっかりしたり、恐れたりします。とりわけ、危機の時、人生の嵐の時、高貴や上流と見られる人々の言動に騙されてしまうのです。
 「しれ者、ならず者」と言われていても、本当のしれ者、ならず者なのではありません。王や貴族たちです。現代で言えば、社会的地位があり、能力のある人たちです。でも、この人たちが、世の価値観で、肉の思いでしたことで、しれ者、ならず者となるです。アッシリアの攻撃を受けてエジプトの武力を頼みとする指導者たちが、危機の中で神様から離れた民には、頼もしく、偉大に見えたでしょう。しかし、国を滅亡に導く愚かなことでした。聖書に、しれ者ナバールとあだ名された裕福で愚かな人がいました。Tサムエル25:25。人の言動で憤慨したり、がっかりしたりしたなら、御言葉の価値観でその人を見てみてください。憤慨したり、がっかりしたりしている自分が愚かに見えるでしょう。
 私たちは、騙されてはいけません。間違ったユダの指導者のように、世の権力者や知恵者だと言っても、「恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、〜飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませない」人々がいます。しれ者の言動に惑わされ、御言葉からそれるなら、そんな人にたましいを委ねたことになります。箴言17:7。
 私たちにとって最も大切なものは、人のたましいです。たましいを誰に委ねるかによって永遠まで決定します。人の価値はたましいの状態にかかっています。ですから、重要なことは、私たちのたましいが治療され、健康にされることです。イエス様をわが避け所とした人の特徴は、どんな人に変えられるのでしょう。その特徴は何と教えていますか。8節。ここに三度も出て来る「高貴」ナデーブとは、「高尚な、高潔な」という意味です。イエス様を避け所とする人は、高尚な生涯を送るようになります。
 イエス様を避け所とし、イエス様に自分を委ね、従う人は、高潔な人に変えられ、人生において高尚なことを計画し、いつもすることも、信仰的に高尚なことをするように変えられるのです。イエス様の救い、神の御子が自分のために身代わりとなられたという高尚な救いに与っているのです。ですから、人生の嵐で主を避け所し、問題を取り扱っていただき、高尚な信仰の生涯を生きたいのです。Tサムエル2:8。



イザヤ
32:1 見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。
32:2 彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。
32:3 見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。
32:4 気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。
32:5 もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。
32:6 なぜなら、しれ者は恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、【主】に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。
32:7 ならず者、そのやり方は悪い。彼はみだらなことをたくらみ、貧しい者が正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低い者を滅ぼす。
32:8 しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。



イザヤ9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。

マタイ11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ヨハネ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

エペソ1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

箴言17:7 すぐれたことばは、しれ者にふさわしくない。偽りのくちびるは、高貴な人にはなおさらふさわしくない。

Tサムエル2:8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は【主】のもの、その上に主は世界を据えられました。

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